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Ep145. 父の薬草畑

知識は本の中だけでは育たない。土を踏み、風を感じ、植物が生きる場所を知って、初めて本当の知識になる。


翌朝、空は雲ひとつない青だった。朝の光が村の屋根を照らし、鶏の鳴き声があちこちから聞こえてくる。バーバラは背負い籠を背負い、腰には小さな鎌を差し、水筒も忘れずに肩から下げていた。手際よく支度を終えた彼女の姿は、いつもより少しだけ引き締まって見えた。


「今日は少し遠くまで歩くわよ」


そう言われて、俺は嬉しそうに頷いた。まだこの体は幼く、言葉もろくに話せないけれど、頭の中身は違う。前世で薬学と植物学をかじった俺にとって、実物の薬草を見られる機会は何よりの誘惑だった。図鑑の挿絵と、実際に土から生えている姿とでは、きっと得られる情報の量が桁違いに違う。


「私も行く!」


当然のようにオリヴィアも現れる。彼女は俺よりいくつか年上で、いつも元気いっぱいだ。籠を持たせてもらえることが誇らしいのか、朝からずっとそわそわしていた。


さらに、


「ワン!」


イッキまで付いてきた。この村で飼われている賢い犬で、バーバラの家族のような存在だ。大きな体をぶるりと震わせ、尻尾を振りながら先頭に立とうとする。


「ふふ、今日は賑やかね」


バーバラは目を細めて笑った。三人と一匹、村を出発する。


畑を抜け、小川を渡り、さらに森の奥へと進んでいく。道はだんだんと細くなり、踏み固められた土から柔らかい下草へと変わっていった。木々の間から差し込む光が斑模様を作り、足元を照らしたり隠したりする。


俺は周囲を観察していた。湿度、木漏れ日の角度、地面の柔らかさ、風の通り道。薬草が育つ条件を頭の中で整理する。前世の知識では、多くの薬草は半日陰を好み、水はけの良い土壌で、かつ適度な湿り気を保てる場所に群生しやすい。この森はまさにそういう条件を満たしているように思えた。


歩きながら、バーバラはぽつぽつと話してくれた。この道は彼女の父、エドワードが好んで歩いた道なのだという。エドワードはこの村で長く薬師をしていた人物で、バーバラに薬草の知識のほとんどを教えたのも彼だった。


「小さい頃はね、この道を歩くのが嫌いだったの」


バーバラは苦笑しながら言った。


「朝早く起こされて、眠い目をこすりながら籠を背負わされて。文句ばっかり言ってたわ」


「それが今じゃ、自分から歩いてるんだから、わからないものよね」


彼女はそう言って、少し遠い目をした。俺はその横顔を見上げながら、前世の記憶をふと思い出す。誰かに何かを教わるという行為は、教わっている最中には価値がわからないことが多い。後になって、ようやくその重みに気づく。バーバラの表情には、そうした時間の積み重ねが滲んでいるように見えた。


道の脇には、名も知らぬ小さな花がいくつも咲いていた。紫色の小さな花弁が集まって、まるで星の群れのように見える。オリヴィアがそれを見つけて、興奮した様子で駆け寄っていった。


「見て見て、きれい!」


「それは薬にはならないけれど、蜂が好きな花なのよ。この辺りに蜂の巣があるってことね」


バーバラの説明に、オリヴィアは「へえ」と感心したように頷く。俺もその花を観察した。蜜を集めやすい形状の花弁、開花のタイミング、周囲の環境。すべてが、一つの生態系として繋がっている。前世で学んだ知識と、目の前の現実が少しずつ重なっていく感覚が心地よかった。


「お父さんはね、雨が降った次の日が一番好きだったの。土が呼吸してるみたいだって、いつも言ってた」


俺には、その感覚がなんとなくわかる気がした。前世でも、湿った土の匂いは特別だった。何かが生まれる直前の静けさに似ている。


オリヴィアは籠の紐を握りしめながら、きょろきょろと辺りを見回している。


「森って、思ったより静かなんだね」


「静かに見えて、実はすごく賑やかなのよ。よく耳を澄ませてごらんなさい」


バーバラの言葉に、オリヴィアは足を止めて目を閉じた。俺もつられて耳を澄ませる。鳥の声、葉擦れの音、遠くで水が流れる音。それに混じって、虫の羽音や、小さな生き物が茂みを移動する気配。たしかに、静寂の中には無数の営みが満ちていた。


しばらく歩くと、道は緩やかな上り坂に差し掛かった。木の根がところどころ地面から盛り上がっていて、足を取られないように注意が必要だ。イッキは慣れた様子でひょいひょいと根を跳び越えていく。


「もう少しよ」


バーバラがそう言った直後、視界が急に開けた。


そこは、小さな開けた場所だった。周囲を大木に囲まれ、朝日だけがまっすぐに差し込んでいる。まるで森の中に切り取られた一室のような空間だった。


「お父さんが一番好きだった場所」


バーバラは静かにそう言って、足を止めた。


そこには、様々な薬草が群生していた。俺は息を呑む。図鑑で何度も見た植物が、今、目の前で本物として息づいている。葉の形、茎の太さ、群生の仕方、地面との距離感。本では絶対に得られない情報が、一目見ただけで大量に流れ込んでくる。


「わあ……」


オリヴィアも目を輝かせた。


「こんなにいっぱい!」


バーバラはしゃがみ込み、葉を優しく撫でた。その手つきには、単なる採取者のものとは違う、慈しみのようなものが感じられた。


「エドワードはね、必要な分しか採らなかったの」


彼女は一本だけ丁寧に摘み取り、その隣にある同じ種類の株は残した。


「来年も、その次の年も、ここで採れるようにって」


なるほど、と俺は思った。乱獲しない。資源を守る。当たり前のようでいて、意外と難しいことだ。前世では、需要に押されて希少な素材を採り尽くし、絶滅寸前まで追い込まれた薬草がいくつもあった。効率と目先の利益を優先した結果、長い目で見れば損をする。そんな例を、俺は嫌というほど見てきた。


けれど、この父は違ったのだろう。未来まで見据えて、この場所を守っていた。バーバラが今こうして同じ場所に、同じやり方で立っているということは、その教えがきちんと受け継がれている証だ。


「ルーク」


バーバラが一株を指差した。


「これ、覚えてる?」


俺は目を凝らす。図鑑、薬棚、何度も見た形だ。葉は細長く、裏側には白い産毛のようなものが生えている。鼻を近づけると、ほのかに甘い香りがした。


熱冷ましに使われる薬草だ。


「う!」


頷いて答える。まだ言葉にはできないが、意思は伝わったはずだ。


「正解」


バーバラが笑った。


「ちゃんと覚えてるのね」


その声には、驚きと、少しの誇らしさが混じっているように聞こえた。オリヴィアも隣で「すごい、すごい」と手を叩いている。俺は少し照れくさくなって、視線を薬草の群生に戻した。


バーバラはさらに続けて、いくつかの薬草の見分け方を教えてくれた。似た形の葉でも、茎の色や、匂い、生えている場所の違いで種類が変わること。毒草と間違えやすい種類があること。採る時期によって効能が変わるものがあること。どれも、本で読んだ知識を裏付けるものばかりで、俺は一つ一つに小さく頷きながら聞き入っていた。


「それとね」


バーバラは少し声を落として続けた。


「同じ薬草でも、朝摘んだものと、昼摘んだものとじゃ、効き目が違うことがあるの。お父さんは、必ず朝露が乾く前に摘んでいたわ」


「なんで?」


オリヴィアが首を傾げる。


「わからないわ。理由は誰も教えてくれなかった。でも、そうしろって言われたから、そうしてる。それだけ」


その言葉に、俺は内心で唸った。前世の知識で言えば、植物の中の有効成分は、日中の光合成や気温の変化によって濃度が変わることがある。朝の涼しい時間帯に摘むことで、成分が最も安定している状態を保てるという理屈が、たしかに存在する。バーバラたちはその理屈を知らないまま、経験則としてそれを守り続けているのだ。理由を知らなくても、正しい行動を積み重ねてきた結果がここにある。そのことに、俺は静かな敬意を覚えた。


籠の中には、少しずつ薬草が増えていった。バーバラは一つ摘むごとに、その薬草の名前と使い道を口にする。俺はそれを一つ一つ頭の中で整理し、前世の知識と照らし合わせながら記憶していった。実物を見て、匂いを嗅ぎ、手触りを確かめる。この経験は、どんな図鑑よりも雄弁だった。


日が少しずつ高くなり、木漏れ日の角度が変わっていく。開けた場所の中心に立つと、頭上からまっすぐに光が降り注ぎ、暖かさが体を包んだ。鳥の声が遠くから響き、風が薬草の葉を揺らして、かすかな香りを運んでくる。


風が吹き、木々の葉がさわさわと揺れる。木漏れ日が地面の上で細かく揺れ動き、薬草の葉の上を滑るように移動していく。時間がゆっくりと流れているように感じられた。このまま、いつまでもこの場所で植物の話を聞いていたいと思うほどに、穏やかな時間だった。


その時だった。


イッキが突然、立ち止まった。


耳を立て、低く唸る。


「グルル……」


その声には、いつもの遊び相手を見つけた時のような軽さはなかった。もっと低く、もっと張り詰めた響き。全員が同時に動きを止める。


バーバラの表情が変わった。それまでの穏やかな笑みが消え、代わりに緊張した硬い顔つきになる。


「……みんな、動かないで」


静かな声だった。しかし、その静けさの奥に、確かな緊張が滲んでいた。俺は反射的に体を強張らせる。オリヴィアも息を呑んだのがわかった。


イッキの視線の先。


草むらが、わずかに揺れた。

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