Ep129. 師の背中
優れた医者とは何だろう、と俺はずっと考えていた。
前世での俺なら迷わず答えただろう。技術がある者、知識がある者、判断が早い者。三つを挙げて、それで十分だと思っていた。医学書を積み上げ、症例を暗記し、診断の速さを誇ることが優秀さの証明だと信じていた。患者が何を感じているかより、数値が何を示しているかの方が大切だった。感情は医療の邪魔をする、とさえ考えていた。
だが今、目の前にいる母の姿を見ていると、その答えに何か大きなものが欠けていた気がしてならない。
◇ ◇ ◇
その日の朝は、秋の終わりらしい冷たい空気が漂っていた。バーバラの家は小さな村の外れにあり、薬師の看板代わりに軒先へ干した薬草が風に揺れている。俺はまだ言葉をうまく話せない幼子の身で、台所の隅に座って母の仕事ぶりを眺めていた。転生してからというもの、こうして観察することが俺の唯一できる学びだった。身体は幼くても、意識だけは前の世界で長年医療に携わってきた大人のそれだ。だからこそ、バーバラの一つ一つの動作が、ひどく興味深く見えた。
玄関の扉を叩く音がしたのは、太陽がまだ低い位置にある頃だった。
バーバラは手を拭いながら扉を開けた。そこに立っていたのは若い女性だった。二十代の半ばだろうか、髪を雑に束ねて、上着の前をきっちり合わせている。寒さのせいか、緊張のせいか、顔が少し強張っていた。その腕の中に、三歳くらいの男の子が抱かれていた。子どもの頬は赤く染まり、目がとろんとしている。熱だな、と俺は一目で思った。昨日もこの子を連れてきた母親だ。バーバラが薬を出したはずだが、まだ症状が続いているのだろう。
「どうしたの?」
バーバラの声は穏やかだった。急いた様子も、困惑した様子もなく、ただ自然に、まるで近所の知人に声をかけるように言った。
「朝から熱が下がらなくて……昨日もらった薬を飲ませたんだけど」
母親の声は震えていた。子どもを抱きしめる腕に力が入っているのが、こちらからでも分かった。一晩中眠れなかったのかもしれない。目の下にうっすらと影がある。子どもが病気になったとき、親がどれほど追い詰められるか、前世でも何度も目にしてきた。ただ俺はそれを、医療の効率を下げる要因として処理していた。今思えば、ひどく冷たい見方だった。
バーバラはすぐに二人を家の中へ招き入れた。
「まず座って。慌てなくていいから」
椅子を引き、母親が腰を下ろすのを確認してから、バーバラは初めて子どもの方へ視線を向けた。この順番が、俺には印象的だった。普通なら患者である子どもをまず診ようとするだろう。しかしバーバラは先に母親を落ち着かせた。子どもが病気のとき、親が動揺していれば正確な情報は得られない。症状の経過を聞き出すにも、冷静な目撃者が必要だ。それをバーバラは理屈ではなく、体で知っているようだった。
「お水は飲めてる?」
「少しだけ……あまり飲みたがらなくて」
「ご飯は?」
「ほとんど食べていません。朝もひとくち口に入れたら、首を振って」
バーバラはゆっくりとうなずきながら聞いていた。問いかけの順番も無駄がない。水分、食事、そして次は症状の進行具合へと、自然な流れで情報を集めていく。母親も、答えているうちに少しずつ落ち着いてきたようだった。さっきまで震えていた声が、今は少し安定している。話すことで、人は整理されるのだ。
バーバラが子どもの額に手を当てた。次に、首元に指を添える。リンパ節を確認しているのだろう。子どもはぼんやりとバーバラを見ていた。知らない大人に触れられても、不思議と嫌がらなかった。バーバラの手つきが、脅かすような素振りを一切含んでいないからだと思う。診察というより、ただそっと触れているだけのようにも見えた。
「少し喉を見せてね」
子どもが顔をそむけた。口を開けるのが嫌なのか、それとも単純に具合が悪くて何もしたくないのか、目に涙が浮かびかけた。母親が「ほら、お口開けて」と焦ったように言いかけるのを、バーバラは目で制した。
「大丈夫。すぐ終わるから」
低い声、というより、深い声だった。命令でも懇願でもなく、ただ事実として告げているだけの言葉。それだけで、子どもの肩からすっと力が抜けた。口が、ほんの少し開いた。
俺は思わず息をのんだ。
技術ではない。知識でもない。あの声は、そのどちらとも違うものだった。前世の俺は、患者に「大丈夫」と言うとき、どこかで根拠がないと思っていた。だから言えなかった、あるいは言っても言葉が薄かった。バーバラは違う。彼女の「大丈夫」には確信が宿っていた。この人が傍にいれば、何とかなる。そう思わせる力が、声ににじんでいた。
喉を確認したバーバラは、静かに体を起こした。
「喉が赤いわね」と、母親に向かって言った。断定ではなく、確認を共有するような言い方だった。「今日は身体を休ませて、水を少しずつ飲ませて。無理に食べさせなくていいけど、飲み物だけは切らさないようにして」
「はい」
「熱がもっと上がるようなら、すぐ呼びに来て。夜中でも構わないから」
その言葉を聞いて、母親の表情が変わった。夜中でも、という一言がどれほど安堵をもたらすか、きっとバーバラは分かっていて言っている。一人で夜を乗り越えなくていい、という保証。それが親にとってどれだけ大きいか。俺には前世でも今世でも、子を持った経験はないが、その表情を見れば分かった。
断定しない。油断もしない。必要以上に脅かしもしない。これほど難しいバランスを、バーバラは自然にやってのける。俺は医師として何年も経験を積んでも、この加減を身につけることができなかった。いつも何かが足りないか、余分だった。
「ありがとうございます」
母親が深く頭を下げた。子どもも、母親に倣うようにぺこりと頭を下げた。その動作がおかしくて、バーバラは小さく笑った。
「元気になったら、また遊んであげてね」
子どもに向けた言葉だった。子どもが、ぼんやりとした目の中に少し光を取り戻したような気がした。親子は安心した表情で、扉の向こうへ消えていった。
◇ ◇ ◇
扉が閉まった瞬間、バーバラは小さく息を吐いた。
「ふぅ……」
椅子に浅く腰を下ろして、少しだけ背中を丸める。疲れている、と俺には分かった。表情には出さないし、声にも出さない。患者の前では一切見せなかった疲労が、二人きりになった今、ほんのわずか滲んでいた。
俺はしばらく黙って見ていた。何と言えばいい、という迷いもあったし、そもそもまだうまく言葉が出ない身体という問題もあった。だが、何もしないで見ているのも違う気がした。
ゆっくりと近づいて、母の膝に手を置いた。
「ん?」
バーバラが俺を見た。疲れた目の中に、柔らかいものが戻ってくる。
「どうしたの?」
本当は言いたかった言葉がいくつもあった。お疲れ様、と言いたかった。無理をするな、とも言いたかった。あなたが今日やったことは、立派だった。俺が前世でできなかったことを、あなたは当たり前のようにやっていた。技術でも知識でもない、もっと根本的なところで、あなたは優れた薬師だ。そう伝えたかった。
だが声にならなかった。
「……ま」
それが精一杯だった。意味をなさない一音。しかしバーバラには何か伝わったらしく、ふふ、と笑って、俺を両腕で抱き上げた。温かかった。前世では誰かにこうして抱かれた記憶がほとんどない。それを少し思い出して、俺はされるがままになっていた。
「ありがとう、ルーク」
違う、と思った。礼を言うのは俺の方だ。
前世では決して見ることのできなかった師の背中を、今の俺は誰より近くで見ている。医師として積み上げた年月の中で、俺が見落としてきたもの、切り捨ててきたもの、面倒だと思っていたものが、ここにある。技術と知識の先にある何かが、この小さな村の薬師の中に宿っていた。
優れた医者とは何だろう、という問いに、俺はようやく四つ目の答えを見つけた気がした。人に安心を与えること。言葉にすれば簡単だが、それがどれほど難しいか、今日の一時間で骨身に染みた。
バーバラの腕の温かさの中で、俺はそっと目を閉じた。次の世でこそ、ちゃんとやろう、と思いながら。いや、次の世というのはここだ。この世界で、この母から、俺はまだたくさんのことを学ばなければならない。




