Ep127. 村の薬師
人は変わる。
前世の俺は信じていなかった。人間の本質は変わらない。性格も、価値観も、根っこにあるものは死ぬまで変わらない。そう思っていた。
だが、今の俺は少し違う。
変わったのか。それとも、最初から知らなかっただけなのか。それはまだ分からない。
◇ ◇ ◇
数日後、イッキはかなり元気になっていた。
走る。跳ぶ。子供たちの後を追いかける。脚をかばう様子もほとんどない。回復は順調だった。あれだけひどい状態だったのに、子供の治癒力というのは本当に馬鹿にできない。俺が前世で何十年もかけて学んだ医療知識をもってしても、成長期の身体が持つ回復力には素直に感心する。骨格も筋肉も、まだ伸びしろの中にある。傷も痛みも、きちんと手当てさえすれば、大人より遥かに早く元の状態に戻っていく。
イッキが元気に駆け回る姿を眺めながら、俺は別のことに気づき始めていた。
母だ。
バーバラ・C・オリバー。
前世の俺が最後まで理解しようとしなかった女。あの頃の記憶を辿れば、母への印象はいつも同じところに落ち着く。だらしない。生活力がない。男に頼ってばかりで、自分では何も決められない。そういう人間だと思っていた。子供の頃から、そして大人になってからも、ずっとそう思い続けていた。
その母が、最近やたらと人に頼られている。
◇ ◇ ◇
ある日の午後、家の前に女性が来た。
「バーバラ!ちょっと相談いい?」
知っている顔だ。村人の一人で、確か少し離れた場所に畑を持っている家の女房だったはずだ。年の頃はバーバラより少し若いくらい。いつも忙しそうにしている印象がある。
「どうしたの?」
「息子が熱出してね。昨日の夜からずっと下がらなくて」
バーバラは話を聞いた。症状。いつから始まったか。どんな熱の出方か。食欲はあるか。水は飲めているか。他に気になることはないか。質問が的確だった。必要なことだけを聞いて、余計なことは言わない。俺は横で聞きながら、内心で感心していた。
悪くない。むしろかなり良い。
医療の現場でよくあるのは、患者の話を途中で遮って自分の判断を押しつけるタイプだ。症状を聞き終わる前に診断を決めてしまう。それが大きな見落としに繋がることもある。バーバラはそれをしなかった。最後まで聞いて、それから考えていた。
「一応これ持っていって」
薬草を手渡しながら、バーバラは付け加えた。
「でも明日も熱が下がらなかったら呼んで。そしたら直接見に行くから」
慎重だ。決めつけない。薬草を渡しつつも、状況の変化に対して次の対応を用意しておく。それは医療において重要な資質だった。一度判断したら終わりではなく、経過を見守り続けるという姿勢。前世の俺が長い時間をかけて身につけようとしていたものと、同じものがそこにあった。
女性が帰る。すると、入れ替わるように今度は別の村人が来た。年配の男で、腰を押さえながら歩いてくる。
「腰がなあ、また痛くて。先週もひどかったんだが、今週に入ってからさらに調子が悪くてな」
「また畑やり過ぎたんでしょう」
バーバラは開口一番そう言った。説教の口調だったが、嫌みではなかった。長い付き合いの中で積み上げた、ある種の信頼関係からくる遠慮のなさ、という感じがした。
「休みなさい。三日は横になってなさい。それと、これを腰に巻いておいて。湿らせてから使うのよ」
「分かった分かった」
男は苦笑いしながら帰っていく。俺にはその笑い方の意味が分かった。小言を言われることも、この人に言われるなら構わない、という顔をしていた。
また別の村人が来る。相談して、助言をもらって、帰っていく。それが繰り返された。
子供の咳が続いているという母親。夫の食欲がなくて心配だという妻。指の関節が腫れてきたという老人。それぞれに話を聞いて、それぞれに言葉を返す。薬草を渡すこともあれば、様子を見るよう伝えることもある。誰かにはっきりと「それは自分には分からないから、もっと詳しい人に聞いた方がいい」と言う場面もあった。知ったかぶりをしない。自分の限界を知っている。
夕方になって、ようやく人が途切れた。
◇ ◇ ◇
俺は考えていた。
前世の記憶では、母はだらしない女だった。男に頼る。生活力がない。弱い人間。子供の頃の俺はそう思っていたし、大人になってからも根本的な評価は変わらなかった。変わらなかったというより、変えようとしなかったのかもしれない。一度決めた評価を疑うのは面倒だ。特に身近な人間に対しては。
だが、目の前の現実は違った。
村人は母を頼っている。困った時に真っ先に相談する。それも一人や二人ではなく、ひっきりなしにやってくる。それだけの信頼を得るには、それだけの時間と実績が必要だ。一日や二日で築けるものではない。誰かが何かに困った時にバーバラのことを思い出す、その回路が村の中にできあがっている。
信頼というのは、簡単に得られるものではない。
俺はずっとそれを知っているつもりでいた。前世では医師として、患者との関係の中でそれを実感してきたはずだった。だがそれは職業上の信頼であって、もっと根本的なところにある話を、俺は見落としていたのかもしれない。
バーバラが椅子に座った。少しだけ肩を回す。疲れた時に出る、無意識の仕草だ。
その動きを見て、俺は気づいた。
母も疲れている。
誰かを支える人間にも、支えが必要なのだ。村人たちが困った時にバーバラを頼るように、バーバラにも頼れる何かが必要なはずだった。それが人であれ、場所であれ、時間であれ。支える側は疲れないと思っていたわけではない。ただ、考えたことがなかった。前世の俺は、母の疲れについて、一度でも真剣に考えたことがあっただろうか。
おそらく、なかった。
自分のことで精一杯だった、という言い訳はできる。仕事は忙しかった。覚えることも、こなすことも、たくさんあった。それは本当のことだ。だが、忙しさを理由に見ないでいたものが、確かにあった。
前世の俺は、母に対して公平ではなかった。
「疲れたわ」
バーバラがつぶやく。窓の外はもう夕暮れで、橙色の光が部屋の中に差し込んでいた。その光の中で、バーバラの横顔はいつもより少し年を取って見えた。いや、違う。年を取って見えたのではなくて、積み重ねてきたものが見えた、というべきかもしれない。
俺は黙って見ていた。
何かを言えるような立場ではなかった。まだ子供の身体の俺には、気の利いた言葉も、具体的な助けも、今すぐ差し出せるものが少ない。ただ、今日ここで見たものを、忘れないでおこうとは思っていた。
前世の俺は、母のことを知らなかった。
知ろうとしなかった、という方が正確かもしれない。一度決めた像に当てはめて、そこから外れる情報は無意識のうちに無視していた。人間はそういうことをする。特に、毎日顔を合わせる相手に対して。慣れると見えなくなる。当たり前の存在になると、改めて観察することをやめてしまう。
だが今の俺には、前世の記憶と今の現実という、二つの視点がある。
その二つが大きくずれている。
ずれているということは、どちらかが間違っているか、あるいは両方が部分的にしか正しくないかだ。前世の記憶が完全に正しいとは、もう思っていない。何かを見落としていた。何かを最初から見ていなかった。あるいは、俺には見えない場所でバーバラが積み上げてきたものを、俺は知らないまま評価していた。
信頼は、傍から見えないところで作られることが多い。
誰かが誰かのために何かをする。たいていの場合、それは劇的な場面ではない。毎日の小さなやりとりの中に積み重なっていく。今日のように、来た人の話を聞いて、考えて、できることをする。それの繰り返し。地味で、目立たなくて、褒められることも少ない。でも気づいたら、そこには確かな何かができている。
バーバラはそれをやってきた。
俺が知らないだけで、長い時間をかけて。
◇ ◇ ◇
初めて思った。
もしかすると、母は俺が思っていたより、ずっとすごい人なのではないかと。
その考えは、少し遅すぎるかもしれなかった。前世では気づかないまま終わった。今世では、まだ間に合う。それだけは確かだった。
人は変わる、と誰かが言う。
あるいは、変わったのではなく、最初から知らなかっただけかもしれない。
どちらにしても、俺はまだ、この人のことを何も知らない。




