Ep126. 感謝の形
感謝には色々な形がある。言葉、金銭、贈り物。前世ではそればかり見てきた。
だが。
犬は言葉を話さない。金も持たない。贈り物もできない。
それでも、感謝は伝わるらしい。
◇ ◇ ◇
イッキは俺の前に座っていた。尻尾を振っている。その動きはゆっくりとしていたが、確かなものだった。犬というのは感情を隠さない。喜びはそのまま体に出る。人間よりずっと正直かもしれないと、俺は思った。
「すごい」
オリヴィアが目を丸くした。彼女の髪が春風にふわりと揺れる。その瞳には純粋な驚きが浮かんでいて、十歳の子供らしい無防備な表情がそこにあった。
「ルークになついた」
なついた。そうなのかもしれない。
俺はゆっくりと手を伸ばした。急がない。犬というのは急いだ動きを嫌がる。前世でも、動物を扱う医療従事者から聞いたことがある。人間の患者とは違う接し方が必要なのだと。もっとも、俺自身が犬と長く関わった経験はなかった。前世の俺は人間の医療だけに没頭していたから。
イッキは逃げなかった。
指先がその頭に触れる。温かい。少し硬い毛並みだ。野良で過ごしてきた証拠がそこにあった。栄養状態が悪ければ被毛の質は落ちる。それはどんな動物でも同じことだ。まだ痩せている。肋骨が薄く浮いているのがわかる。だが以前よりずっと良い。目の輝きが違う。最初に子供たちが連れてきた時、あの目にはほとんど光がなかった。
俺は静かに頭を撫で続けた。
イッキは目を細めた。その表情に、俺は少し止まった。患者が回復する光景は何度も見た。前世で数えきれないほど。ベッドの上で弱っていた人間が、少しずつ顔色を取り戻し、食欲が戻り、自力で歩けるようになっていく。そのたびに俺は達成感を覚えていた。だがそれはどこか、仕事をうまくこなしたことへの満足感だったかもしれない。
今は少し違う。
症例ではない。数字でもない。
イッキという一匹の犬だ。
この違いが何なのか、うまく言葉にはできない。ただ、同じ光景を見ているのに、胸の中で動くものが違う。前世では感じなかった何かが、今の俺の中には確かにある。転生というものが俺に与えた変化なのか、それともこの世界が違うのか。あるいは、単純に俺が子供の体に入ったことで、感情の動き方が変わったのか。どれが正解かはわからないが、イッキが目を細めるその一瞬に、俺は確かに何かを感じていた。
◇ ◇ ◇
「おーい!」
その時、林の向こうから声がした。
大人の男の声だ。低く、よく通る。子供たちが一斉に振り向いた。俺も視線を向ける。木々の隙間から日差しが差し込んでいて、春の光が斑になって地面に落ちていた。
現れたのはガルドだった。
相変わらず大きい。この村でもっとも体格の良い男だろう。身長も、肩幅も、腕の太さも、並の男を大きく上回っている。だがその体格が時として本人を苦しめる。重いものを長年持ち続けてきた代償が、肩に蓄積していた。
俺は自然と彼の右肩に目がいった。
動きが良くなっている。以前と比べてはっきりとわかる程度に。左右の肩の高さがほぼ揃っている。歩き方にも余裕がある。痛みがある時、人は無意識にその部位をかばう。動作全体に微妙なずれが生まれる。ガルドの動きにそのずれが減っていた。
順調だな。
「お前ら何してる?」
ガルドが近づきながら声をかける。子供たちは特に警戒した様子もなく、むしろ嬉しそうに笑っている。この村では顔見知りが多い。人口が少ない分、誰もが誰かを知っている。
「犬拾った!」
誰かが答えた。声が重なる。三人か四人が同時に叫んだようだった。
「ほう?」
ガルドが足を止めてイッキを見た。イッキは少し警戒した。体が小さく固まり、耳が後ろに引かれる。だが、逃げなかった。最初に子供たちと会った頃は、人の気配がするだけで茂みに消えていたのに。
「なるほどな」
ガルドが笑う。口の端が上がり、目に柔らかさが出た。普段の強面がずいぶん和らいで見える。
「お前ららしい」
子供たちが嬉しそうに笑った。褒められたわけではないかもしれない。だがガルドのその言葉には、咎める気配がまったくなかった。むしろ、どこか温かいものが混じっていた。この村の大人たちはそういう人間が多い。子供が何かをしでかしても、まず怒鳴りつけるよりも前に状況を把握しようとする。前世の俺が育った環境とは少し違う。
そしてガルドの視線が、俺に向いた。
「ルーク坊もいるのか」
俺は頷いた。
「最近よく外にいるな」
当然だ。歩けるようになったからな。転生してからしばらく、この体はまともに動かせなかった。幼い子供の体というのは、思っている以上に不自由だ。自分の意志通りに動かない。バランスが取れない。何かに掴まらなければ転ぶ。前世の俺が積み上げてきた経験は頭の中にあるが、体は経験を持っていない。だから少しずつ、慎重に、この体と付き合ってきた。
今では走ることもできる。外を歩き回ることもできる。
だから外にいる機会が増えた。それだけのことだ。
「そういや」
ガルドが肩を回した。円を描くようにゆっくりと。
「だいぶ楽になったぞ」
おお。
「バーバラの薬も効いたし、少し休むようにもした」
正解だ。非常に正解だ。ガルドの問題は複合的なものだった。長年の酷使による炎症、筋肉の緊張、そして無理をし続けることへの慣れ。最後の一つが一番厄介だった。体が痛みを訴えているのに、それを当然のものとして受け入れてしまっている状態。そこに薬で炎症を抑え、休息で回復の時間を作る。それが最低限の対処だ。
「それに」
ガルドが笑う。今度は少し意地の悪い笑い方だ。
「ルーク坊に睨まれたからな」
誰が睨んだ。
観察していただけだ。
俺はガルドの肩を観察していた。どのタイミングでかばう動きが出るか、どの方向への動きが制限されているか、それを確認していた。それだけだ。別に脅かしたわけでも、怒ったわけでも、睨んだわけでもない。
しかし子供たちは大笑いした。
「確かに!」
「見てた!」
見ていた。それは否定できない。俺が観察していたのは事実だ。ただそれが「睨んでいた」に見えたらしい。前世の俺はよく言われていた。考え込んでいる時の顔が怖いと。どうやら転生してもその癖は変わらないようだ。あるいはこの体の顔がそういう造りなのか。どちらにしても、大人を「睨む」子供という評判はあまり芳しくない気がするが、今さらどうしようもない。
笑い声が春の空気に溶けていく。
◇ ◇ ◇
ガルド。イッキ。
二人の患者。
どちらも少し良くなった。
俺は静かにそれを確認した。医師としての目でその事実を捉える。ガルドの肩の動域が広がっていること、イッキの体重が増えて被毛の状態が改善していること。数値で測れるわけではないが、観察すればわかる。状態が改善している。
もちろん、俺一人の力ではない。
バーバラがいて、オリヴィアがいて、トムたちがいて、みんながいたからだ。
バーバラは薬を作った。この村で長年培ってきた知識を使って、ガルドの肩に合う処方を調合した。俺には到底できないことだった。俺がいくら医学の知識を頭の中に持っていても、この世界の薬草を知らなければ何も作れない。バーバラの知識がなければ、ガルドの治療は半分以下の効果しか出なかっただろう。
オリヴィアはイッキに食事を与え続けた。毎日、欠かさず。犬が近づくことを嫌がる素振りも見せず、怖がる様子も見せず、ただ静かに食事を置いてその場を離れる日もあれば、そっと側に座って様子を見守る日もあった。イッキが人間に対する警戒を解いていったのは、オリヴィアのその根気強さがあったからだ。
トムたちも同じだ。犬を怖がらせないように声を落とし、急な動きをしないように気をつけていた。子供というのは本来、犬に対してももっと無遠慮に接するものだ。それでもトムたちはイッキの様子を見ながら、その場その場で接し方を変えていた。教えたわけでもないのに、自然とそうしていた。
前世では理解できなかったことだ。
前世の俺は、医療とは個人の技術と知識の問題だと思っていた。優れた医師が優れた診断を下し、優れた治療を施す。それが医療の本質だと。チームワークの重要性は知識として知っていた。論文でも読んだし、研修でも教わった。だが本当に理解していたかと問われれば、していなかった気がする。
人を救うのは、必ずしも一人の名医ではない。
たくさんの人の善意が、誰かを救うこともある。
ガルドを回復させたのは、バーバラの薬と、本人が休もうと決めた意志と、おそらく俺が「睨んでいた」とガルドが感じたことが重なった結果だ。どれか一つが欠けても、同じ結果にはならなかったかもしれない。イッキが回復したのも、オリヴィアの食事と、トムたちの根気と、春の気候と、犬自身の生きようとする力が合わさったからだ。
俺はその中の一要素に過ぎない。
◇ ◇ ◇
春風が吹いた。
草の匂いがした。土の匂いがした。この世界に来てから、匂いに敏感になった気がする。前世では都市の中で生きていたから、土や草の匂いを意識することはあまりなかった。だがこの村では、風が吹くたびに季節が伝わってくる。
イッキが尻尾を振った。
風が気持ち良いのかもしれない。あるいはただ、今この瞬間が穏やかであることを体で表しているのか。犬というのは今を生きている。過去を悔やまないし、未来を恐れない。今ここにある温かさ、今ここにある安心、今ここにある風。それだけで尻尾を振れる。
子供たちが笑った。
イッキの尻尾の動きが激しくなったからかもしれない。あるいはガルドが何か言ったのか。俺はその瞬間、子供たちの顔を順番に見ていた。オリヴィア、トム、そして名前をまだ覚えきれていない数人。それぞれの顔に笑いがあった。
その光景を見ながら、俺は少しだけ思った。
もしかすると、前世で俺が本当に学ぶべきだったのは、医術だけではなかったのかもしれない、と。
医術は学んだ。膨大な時間をかけて、膨大な量を。それは今もこの頭の中に残っている。知識として、技術として。それ自体を否定するつもりはない。医術を知っていることで、ガルドの肩の状態を正確に把握できた。イッキの栄養状態を読むことができた。それは確かに役に立っている。
だが医術だけでは、誰も救えなかった。
バーバラがいなければ。オリヴィアがいなければ。トムたちがいなければ。そして何より、ガルド本人が休もうとしなければ、イッキ自身が生きようとしなければ。
前世の俺は、自分一人で患者を救っているつもりでいた。優れた診断が、優れた治療が、患者を救うのだと。周りの人間は、それを補助するための存在だと思っていた。
違った。
患者を取り巻く全ての人間が、患者を取り巻く全ての環境が、医療の一部だった。俺はその中の一つのピースに過ぎない。前世でそれを理解していれば、もう少し違う医師になれていたかもしれない。もう少し周りと話せる医師に。もう少し患者の声を聞ける医師に。
春風がまた吹いた。
イッキは目を閉じた。俺の手がまだその頭の上にある。温かい。この体温は嘘をつかない。今この瞬間、イッキはここにいることを、ここが安全であることを、体全体で感じているのだろう。
それで十分なのかもしれない。
俺は医術を学び直そうとしている。この世界で、この体で、一からまた積み上げていこうとしている。だがそれと同時に、前世で学べなかったことも学んでいくのかもしれない。バーバラから、オリヴィアから、トムたちから、ガルドから、そしてイッキから。
言葉を持たない犬が感謝を伝えてくる。
金も、贈り物も必要なかった。ただ、ここに座って、尻尾を振って、目を細めた。
それで十分だった。




