Ep121. 空腹という病
前世の俺はそう考えていた。空腹は病気ではない。
症状ではある。状態でもある。だが病名ではない。
しかし、長く医療に携わると分かる。空腹はあらゆる病を呼び込む。体力を奪う。免疫を削る。回復を遅らせる。そして時には、命そのものを削る。
◇ ◇ ◇
犬は座り込んだままだった。唸らない。吠えない。ただ警戒している。
「どうする?」トムが小声で言った。
誰も近づかない。誰も騒がない。珍しく賢明だった。
「お腹空いてるんだよ」オリヴィアが言う。
「でも近づいたら逃げるよな」
トムの言う通りだった。
◇ ◇ ◇
その時、俺は秘密基地の中を見た。固くなったパン。干した果物。十分ではない。だが何もないよりは遥かにいい。
俺はパンを指差した。
「う!」
全員が俺を見る。パン。犬。パン。犬。
「……あ」オリヴィアが気づいた。「ご飯?」
頷く。全力で。
「ルーク天才!」
違う。普通だ。しかし、話は進んだ。
◇ ◇ ◇
トムがパンを持ち、犬からかなり離れた場所へ置いた。良い判断だ。
犬は動かない。一分。二分。やがてゆっくり立ち上がる。左前脚をかばいながら。近づく。止まる。こちらを見る。そして、パンに食いついた。
一瞬だった。噛む。飲み込む。噛む。飲み込む。速い。速すぎる。飢えている。かなり。
子供たちも気づいたらしい。誰も喋らなかった。空腹な生き物の食べ方は、見ていて楽しいものではない。
「かわいそう……」誰かが呟く。
◇ ◇ ◇
犬は食べ終わる。それでも地面を舐めている。一欠片も残したくないらしい。
その姿を見て、俺はあることに気づいた。目だ。さっきより少し違う。警戒はしている。だが、怯え方が弱くなった。食事。安全。この場所。それらを結びつけ始めている。
すると、オリヴィアが一歩前に出た。「大丈夫だよ」優しい声だった。「誰もいじめないよ」
犬はじっと見ている。言葉など分からないだろう。だが、声の調子は分かる。敵意がないことも。
やがて、犬は小さく尻尾を動かした。一度だけ。誰も気づかなかった。俺以外は。
◇ ◇ ◇
そして思う。治療とは薬だけではない。食事も、休息も、安心できる場所も、全部治療だ。この犬に今必要なのは、まず薬ではなく、安心して眠れる場所なのかもしれなかった。




