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Ep116. 村の子供たち

人間関係は面倒だ。前世の俺はそう結論づけていた。

利害。嫉妬。期待。裏切り。関わるほど厄介になる。だから距離を置いた。必要最低限だけ。それで十分だった。

◇ ◇ ◇

だが、どうやら子供は違うらしい。

その日、俺は家の前を散歩していた。まだ自分の足で歩けるようになってさほど日が経っていない。ふらふらと頼りない歩みではあるが、それでも自分の意思で外に出て、春の陽射しを浴びながら地面を踏みしめるのは悪くなかった。

前世でも散歩は好きだった。ひとりで、誰とも話さず、ただ歩く。それが性に合っていた。

この世界でも同じだ。少なくとも、そのつもりだった。

「歩いてる!」

どこかで誰かが叫んだ。

俺は気にせず歩き続けた。

◇ ◇ ◇

翌日も俺は家の前に出た。昨日と同じように、ゆっくりと、自分のペースで。石畳の感触を確かめながら、春風に揺れる木の葉を眺めながら。

すると、どこからともなく子供たちが集まってきた。

五人。六人。いや、もっといる。

気づけば俺の周りをぐるりと囲まれていた。それぞれの顔に好奇心があふれていて、まるで珍しい生き物でも発見したかのような目でこちらを見ている。何だこれは。

「かわいい」「ちっちゃい」「歩いてる」

口々に言う。

歩くくらいする。人間だからな。

俺が内心でそうつぶやいていると、見知った顔が前に出てきた。オリヴィアだ。この村の子で、以前から俺のことを気にかけてくれている女の子だった。

「ルークだよ!」

オリヴィアが得意げに紹介する。なぜ君が誇らしげなんだ。俺は君の所有物ではないし、君が育てたわけでもない。しかしそのあたりの細かいことを赤子が口に出せるはずもなく、俺はただ黙って周囲を見回した。

「知ってる。バーバラさんの子だろ」

黒髪の少年が言った。八歳くらいだろうか。見覚えがあった。

トムだ。以前、木から落ちて足を怪我した子だった。母のバーバラが診た患者のひとりで、俺も傍らで一部始終を見ていた。ずいぶん泣いていた記憶がある。

「足、治ったのか」

思わず視線が向く。職業病だ。前世で医師だった名残か、怪我人や病人を見ると経過が気になって仕方がない。

トムは元気よく走り回っていた。完治だな。よかった。

「なんだ?」トムが首を傾げた。

いや、なんでもない。気にするな。

「歩けるならこっち来いよ」

トムが手招きした。

行く。当然だ。俺は一歩、また一歩と踏み出した。子供たちが固唾を呑んで見守っている。何だろう、この空気。まるで研究発表会か綱渡りの実演でも見るような目をしている。歩くだけだぞ。

一歩。二歩。三歩。

そして、石につまずいた。

「あ」

転ぶ。そう思った瞬間、誰かが支えた。

「おっと」

トムだった。しっかりとした手つきで俺の体を受け止め、「気をつけろよ」と言った。

その言葉に、少しだけ驚いた。

前世なら、こんな場面で誰かに助けられた記憶はほとんどない。いや、正確には、助けられていたのかもしれない。ただ気づいていなかっただけで。いつも自分のことしか考えていなかったから、周囲の親切に目が向かなかった。距離を置いていたのは、傷つきたくなかったからか、それとも最初から人間というものを信用していなかったからか。今となっては判然としない。

「トム優しい」

オリヴィアがにこにこしながら言った。

「うるさい」

トムが顔を赤くして顔を背けた。

なるほど。こういう年頃か。観察対象として興味深い。照れを怒りで誤魔化すのは、洋の東西も時代も関係なく共通らしい。前世でも同僚の研修医がそういうところがあったな、と思い出した。

◇ ◇ ◇

「ルーク!」

今度は別の女の子が近づいてきた。オリヴィアより少し年上で、おさげの髪をしていた。名前は確か、エマだったか。

「しゃべれる?」

失礼な質問だ。しゃべれるに決まっている。ただ、赤子の口と舌と肺ではまだ思うように音が出せないというだけで、頭の中では普通にしゃべっているんだが。

「る」

とりあえず言ってみた。

「しゃべった!」

大騒ぎになった。

だから、なぜそんなに騒ぐ。

周りの子供たちが口を開けてこちらを見ている。まるで奇跡でも目撃したかのような顔だ。赤子がひとつ音を発しただけで、これほど大げさに反応する生き物なのか、子供というのは。

でも、と俺は思った。

前世の俺なら、こういう状況を鬱陶しいと感じたはずだ。なぜ見知らぬ子供たちに囲まれなければならないのか。なぜ自分の一挙手一投足をじろじろ観察されなければならないのか。そう思って、さっさとその場を離れようとしたはずだ。

しかし今の俺は、特に逃げ出したいとは思っていなかった。

むしろ。

気づけば俺は笑っていた。

子供たちがいる。騒がしい。落ち着きがない。効率も悪い。話の脈絡もない。さっきまで俺の歩き方に感動していたと思えば、次の瞬間には誰かが転んで泣き出して、それを見た別の子が笑って、笑われた子が怒って、なぜか全員で虫を追いかけ始める。めちゃくちゃだ。

だが、悪くない。

むしろ、少し楽しい。

その事実に、誰よりも俺自身が驚いていた。

◇ ◇ ◇

前世の俺は、感情というものをひどく非効率なものだと思っていた。喜怒哀楽、すべては判断を鈍らせる雑音だ。医師として働いているあいだ、感情は邪魔だった。患者の死に泣いていたら仕事にならない。誰かに怒りをぶつけていたら連携が崩れる。誰かに好意を抱けば、その人を失ったときに揺らぐ。だから感情を切り捨てた。少なくとも、そうしようとしていた。

しかし、今この瞬間、春の陽射しの中で子供たちに囲まれながら、俺は思う。

あの頃の自分は、何かをひどく勘違いしていたのかもしれない。

感情は確かに厄介だ。でも、それは関わるからこそ生まれるものだ。関わらなければ傷つかないが、関わらなければこういう温かさも生まれない。どちらがいいかは一概には言えないが、少なくとも今の俺には、この騒がしさが心地よかった。

「ルーク、こっち来て」

オリヴィアが手を引いた。子供の手は小さくて温かかった。

連れていかれた先には、大きな木の根元があった。子供たちが輪になって座れるくらいの広さがある。どうやらここが彼らの秘密基地のようなものらしい。

「ここがみんなのたまり場なんだ」とトムが言った。ちょっと誇らしそうに。さっき顔を赤くしていたのとは打って変わって、今は自信満々な顔をしている。切り替えが早い。

子供というのは感情の振れ幅が大きい。前世でも、病棟で子供の患者を診るとき、ひどく泣いていたと思えばすぐ笑い出す姿に戸惑ったものだ。でも今は、それがむしろいいと思えた。引きずらないということだ。

「ルークはまだちっちゃいから座ってろよ」

トムが木の根に俺を座らせた。気遣いなのかなんなのか、口調はそっけないが行動は丁寧だ。さっき助けてくれたときもそうだった。照れているのだろう。

エマが隣に座った。「何歳?」と聞いてくる。

一歳だ。と言えれば楽なのだが、「い」と言うのが精一杯だった。

「一歳?」とエマが言って、「まだ赤ちゃんだね」と笑った。

赤ちゃんで何が悪い。前世では何十年も生きたベテランだ。まあ、それは誰にも言えないが。

「でも歩いてるし、しゃべってるし、すごいよ」

エマが言った。素直に褒める子だ。悪い気はしない。

その後、子供たちはとりとめのない話をした。誰かが昨日川で大きな魚を見たとか、村の外れに見知らぬ馬車が来たとか、パン屋のおばさんが新しい焼き菓子を作ったとか。どれも俺には直接関係のない話だったが、聞いていると世界の輪郭が少しずつ見えてきた。

この村がどんな場所で、どんな人たちが暮らしていて、何が日常で何が非日常か。医師だった前世の習慣で、俺は話を聞きながら情報を整理していた。ただの子供の雑談の中にも、この世界を理解するためのヒントがたくさんある。

「ルーク、眠い?」

オリヴィアが心配そうに覗き込んだ。

眠くはない。ただ考えていた。

でも赤子がそんなに真剣な顔をしていたら、眠そうに見えるかもしれない。俺は少し口角を上げた。笑ったつもりだ。

「笑った!」

また大騒ぎになった。

本当に騒がしい連中だ。

◇ ◇ ◇

陽が傾いてきた頃、子供たちは三々五々帰り始めた。「また明日」「また来いよ」「転ぶなよ」と口々に言って去っていく。

最後まで残ったオリヴィアが、俺を家の前まで送ってきた。

「またね、ルーク」

そう言って走って行く後ろ姿を見ながら、俺は思った。

人間関係は面倒だ。それは今でも変わらない。利害があり、嫉妬があり、期待があり、裏切りがある。それは子供の世界でも同じだろう。これから先、あの子供たちと関わっていく中で、面倒なことも起きるだろう。

でも。

春の陽射しの下、村の子供たちの輪の中で、俺は生まれて初めて、同年代の友人というものを手に入れようとしていた。そしてその事実が、思っていたよりずっと、悪くなかった。

前世の俺が聞いたら笑うかもしれない。あれほど距離を置いていたくせに、と。

でも今の俺には、それでいいと思えた。

一歩、また一歩。石につまずいても、誰かが支えてくれるなら。それくらいの人間関係なら、面倒でも悪くない。

そう思いながら、俺はゆっくりと家の扉をくぐった。

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