Ep110. 気になる患者
医者には二種類いる。患者が来てから動く医者と、患者が来る前に異変を見つける医者だ。もちろん後者の方が優秀だ。前世の俺はそう思っていた。そして、それは今でも変わらない。
問題は、現在の俺が赤子だということだ。
◇ ◇ ◇
翌日、例の男がまた見えた。
窓の外、畑の近く。男は薪を運んでいた。俺は窓に張り付いたまま、その動きをじっと追った。やはり右腕だ。薪を持ち上げる瞬間、肩が上がらない。本来ならば滑らかに連動するはずの肩甲骨と上腕が、どこかで引っかかるように止まる。それを力任せに補っている。無意識の代償動作だ。
古傷か。炎症か。あるいは腱の損傷か。
正確なことは分からない。診察できるわけでも、触れるわけでもない。だが、良くない状態なのは確かだった。ああいう動きをする患者を、前世で何人も見てきた。痛みを庇いながら、庇い方が癖になって、やがて別の場所まで壊していく。
「んー?」
窓に張り付いていた俺を、オリヴィアが発見した。
「何見てるの、ルーク?」
お前だ。いや違う。向こうだ。俺は窓の外を指差した。
「ま!」
「ん?」オリヴィアが窓の外を覗き込む。「ガルドおじさん?」
名前が判明した。ガルド。覚えておこう。
「どうしたの?」
どうしたもこうしたも、肩だ。肩を見ろ。俺は必死に指差した。
「まー!」
「……?」
伝わらない。当然だった。俺は赤子で、医学用語を話せない。「肩甲上腕関節の可動域制限が見られます」などと言えるわけもなく、「まー」しか出てこない。もどかしい。本当に、骨の髄からもどかしかった。
「ルーク、ガルドおじさんのこと好きなの?」
オリヴィアが笑う。違う。患者候補だ。だが伝わらないものは仕方ない。
◇ ◇ ◇
その時だった。ガルドが薪を抱えたまま立ち止まった。肩を押さえ、僅かに顔をしかめる。一瞬のことだったが、隠しきれない痛みが表情に滲んだ。
オリヴィアもそれを見ていた。
「あれ?」
気づいたか。
「肩、痛いのかな?」
そうだ。その可能性が高い。「ま!」と俺は勢いよく頷いた。
「そうなの?」オリヴィアが不思議そうに首を傾げ、それから突然立ち上がった。「聞いてこよう!」
待て。その行動力はどこから来る。止める術はなく、オリヴィアは飛び出していった。
◇ ◇ ◇
数分後、オリヴィアが戻ってきた。
「本当に痛いんだって!」
やはり。
「冬の前からずっとだって」
俺は固まった。冬の前。つまり数か月以上。それだけの期間、症状が続いているということは、慢性化している。単純な打撲や筋肉痛ではない。慢性的な炎症か、あるいは腱板の損傷、もしくは関節内の問題。いずれにせよ、放置していい状態ではなかった。
「でも仕事できるから大丈夫だって」
大丈夫ではない。人間はそう言う。特に働き者ほど、そう言う。前世で何度も見た。大丈夫と言い続けて、悪化させる人間を。痛みに慣れて、痛みを基準値にして、ある日突然動かなくなる。そういう患者を、何人も診てきた。
胸の奥がざわつく。
まだ診察できない。治療もできない。言葉も話せない。俺にできることは何もない。ただ窓の外を見ることしかできない赤子だ。それは分かっている。
だが、見過ごしたくなかった。
◇ ◇ ◇
その感情がどこから来るのか、俺にはまだ分からなかった。前世の医魔術師としての責任感か。それとも、この村の人たちを大切に思い始めたからか。オリヴィアが毎日話しかけてくれること、外から聞こえる村人たちの声、薪を運ぶガルドの背中。気がつけば、それらが俺の日常の一部になっていた。
前世の俺は、感情で動く医者を好まなかった。感情は判断を歪める。冷静な観察と論理的な判断こそが、医者に必要なものだと思っていた。それは今も間違っていないと思う。
だが、医者が患者を診たいと思う動機は、冷静さとは別のところにある。誰かの痛みを見て、何かしたいと思う。その感情がなければ、そもそも医者になどなろうとは思わない。責任感と感情は、対立するものではなかった。
俺はもう、誰かの痛みを見て見ぬふりができる人間ではなくなっていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、ガルドはまた薪を運んでいた。
昨日よりも動きが硬い気がした。気温が下がったせいかもしれない。寒い日は関節の動きが悪くなる。炎症があれば、なおさらだ。それでも彼は休まない。薪を一束抱えて、歩いて、また戻ってくる。その繰り返し。
俺にできることは、今日も見ていることだけだった。
だが、見ることは無駄ではない。観察は診察の始まりだ。前世でそう習った。患者の動きを見る。呼吸を見る。顔色を見る。それだけで、言葉を交わす前に多くのことが分かる。
ガルドの右肩は、外転動作で制限が出ている。持ち上げる動きが特に辛そうだ。ということは、棘上筋か、あるいは肩峰下の問題か。痛みが冬前から続いているなら、急性の損傷ではなく、繰り返しの負荷による慢性障害の可能性が高い。農作業や薪割りを長年続けてきた体だろう。使いすぎによる腱の劣化。そこに寒さが加わって、症状が悪化した。
診断が正しいかどうかは分からない。触らなければ分からないことが多い。だが、考え続けることはできる。記憶し、観察し、仮説を立て続けることはできる。
今の俺にできるのはそれだけだ。それで十分だとは思っていない。だが、それしかないなら、せめてそれを精一杯やるしかなかった。
◇ ◇ ◇
「ルーク、また見てるの?」
オリヴィアが隣に来た。今日は俺を抱き上げて、窓の外を一緒に見る。
「ガルドおじさん、また薪運んでるね」
ああ。また運んでいる。
「昨日もそうだったけど、本当に大丈夫かな」
オリヴィアの声に、珍しく心配の色が混じっていた。昨日のことが、彼女の中にも残っていたらしい。
俺は何も言えない。「まー」と声を出すことしかできない。だが、オリヴィアは続けた。
「お母さんに言ってみようかな。なんか、いい薬草とか知ってるかもしれないし」
薬草。
俺は少し考えた。この世界にどんな薬草があるか、まだ把握できていない。前世の知識がそのまま使えるとは限らない。だが、消炎作用のある植物というのはどの世界にも存在するものだ。温めて血流を促すもの、痛みを和らげるもの。もしオリヴィアの母親が詳しいなら、それは有益な情報だった。
「まー」
「そうだよね、言ってみる」
オリヴィアは何かを決めたように頷いた。俺の「まー」を肯定と受け取ったらしい。まあ、実際肯定なのだが。
◇ ◇ ◇
この村で、俺は医者ではない。赤子だ。できることは何もない。それは分かっている。
だが、医者というのは資格や技術だけで成り立つものではない、と前世の師はよく言っていた。患者を見る目と、患者を気にかける心。その二つがあって初めて、技術が意味を持つ。
今の俺には技術がない。言葉もない。手も、まだ使い物にならない。
だが、見る目と、気にかける心は、ある。
それだけは、赤子であっても失っていなかった。
◇ ◇ ◇
ガルドが薪を積み終えて、ふと空を見上げた。曇り空だった。また冷える夜になるだろう。
彼の右肩が、何事もないように元の位置に戻る。痛みを抱えたまま、また明日も働くのだろう。それがこの村の人たちの生き方で、俺がとやかく言えることではない。
だが。
俺がちゃんと話せるようになったら。診察できるようになったら。その時には必ず、ガルドの肩を診る。慢性化した症状ほど、早めに介入した方がいい。取り返しのつかなくなる前に。
それが、今の俺にできる唯一の誓いだった。
話せるようになったら。動けるようになったら。医者として機能できるようになったら。
その日まで、俺はここから見続ける。
見ることを、やめない。




