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Ep109. 小さな違和感

医療というものは、病気を治す技術ではない。


前世の師――白髪交じりの、いかにも頑固そうな老医師――が、研修医だった俺にそう言ったのは、確か梅雨の夜だった。病院の廊下、魔光灯の青白い光の下で、彼は湯呑みを両手で包みながら、ひどく静かな声で言った。


まず観察だ。次に判断。そして処置。


当時の俺は、そんなことは当然だと思っていた。教科書にも書いてある。実習でも習う。医師なら誰でも知っていることだ。だから俺は「はい」と答えて、その言葉の重さをほとんど考えなかった。


だが、今になって分かる。観察とは意外と難しい。


「見る」ことと「観察する」ことは、まったく別の行為だ。目に映っているものを、ただ映像として受け取るだけなら、誰でもできる。しかし、その映像の中から意味のある情報を拾い上げ、解釈し、仮説を立てるには、訓練と経験と、何より意識が必要だ。


前世で俺はそれを何千時間もかけて身につけた。外来で患者が診察室に入ってくる瞬間、歩き方を見る。表情を見る。手の動きを見る。椅子に座る時の重心の取り方を見る。患者が「どうも最近だるくて」と言い出す前に、すでにいくつかの仮説が頭の中に並んでいる。それが習慣になった頃、ようやく俺は師の言葉の意味を理解した。


そして今、俺はその技術を、この小さな体に宿したまま生きている。


   ◇ ◇ ◇


翌日、俺は窓際に座っていた。


最近はつかまり立ちも安定してきた。窓枠に両手をかけて立ち上がり、そのまましばらく外を眺めるくらいのことは難なくできる。座るのも楽だ。最初の頃は床に座るだけで体幹がぐらついていたのに、今はずいぶん楽になった。この体は順調に育っている。


もっとも、精神が追いついていないのは相変わらずだ。前世の記憶と今の体の間にある落差は、日常のあらゆる場面で顔を出す。自分の意思を言葉にできない。思考は大人のそれなのに、表現できるのは喃語と泣き声だけだ。


それでも、見ることはできる。


観察することはできる。


外の景色が、今日もよく晴れていた。春の光が村全体に柔らかく降り注いで、草の緑が鮮やかだった。前世では忙しすぎてこういう景色をほとんど意識しなかったが、今はたっぷり時間がある。否応なく、ゆっくりと世界を眺めることになる。


外ではオリヴィアが歩いている。その隣にはトム。


   ◇ ◇ ◇


案の定だった。


オリヴィアは昨日も一昨日も、トムをつれてこの辺りを歩いていた。トムは先日、木から落ちて足を痛めた子どもだ。俺が診たわけではない――この体ではどうしようもない――が、様子は窓から観察していた。打撲と軽い捻挫、おそらくそんなところだろうと見立てていた。


そのトムが、今日は普通に歩いている。いや、普通ではない。よく見ると、少しだけ右足をかばっている。体重のかけ方が、左右でわずかに違う。踏み出す時の力の入れ方が、右だけ控えめだ。普通の人間なら絶対に気づかない、本当に微細な差異だ。


だが、木登り禁止を言い渡された患者の動きではない。あれは元気だ。走り出す気配すら感じる。


元気だな。本当に。


子どもの回復力というのは、いつ見ても驚かされる。前世でも何度も目にしてきた。大人なら数週間かかるような怪我が、子どもだと数日で嘘のように治ってしまう。成長ホルモンの分泌量の違いもあるし、組織の再生能力の差もある。ただそれだけではなく、子どもはそもそも痛みを引きずることが少ない。昨日泣いていたことを今日はもう忘れている。それはある意味で、大人が失った能力かもしれなかった。


「こらー!」


遠くから母親の声が飛んでくる。甲高くて、よく通る声だ。


「走るなー!」


走った。あの患者。


予想通りだった。禁止されれば余計やりたくなる、それが子どもというものだ。トムは母親の声を聞いた瞬間、むしろ速度を上げたように見えた。右足をかばいながら、それでも全速力で駆けていく。


オリヴィアが笑う。声は聞こえないが、肩を揺らして笑っているのが分かる。トムが逃げる。ちらちらと後ろを振り返りながら、したたかに距離を取っている。母親が追いかける。エプロンの裾を翻して、本気の形相で。


平和だった。


本当に、何の変哲もない、ありふれた村の昼下がり。俺はそれをガラス越しに眺めながら、不思議な気持ちになっていた。前世では、こういう光景を外から眺める余裕がなかった。病院の中にいるか、帰宅して寝るかのどちらかで、こうして誰かの日常をただ見守るという経験がほとんどなかった気がする。


   ◇ ◇ ◇


そして、その平和な光景の中で、俺は一つの違和感に気づいた。


村人たちだ。何人かが畑仕事をしている。鍬を振るって土を耕している者、作物の間を丁寧に歩きながら草を抜いている者。薪を運んでいる者もいる。太い丸太を両腕で抱えて、小屋の脇に積み上げている。井戸から水を汲んでいる者もいる。重そうなバケツを両手で持ち、ゆっくりと歩いている。


村の日常というのは、こうしていつも何かしら動いている。誰かが何かをしている。静止している人間を探す方が難しいくらいだ。


その中に、一人だけ、妙に動きの悪い男がいた。


四十代くらいだろうか。背が高い。肩幅も広い。見るからに体を使って生きてきた人間の体格だ。日焼けした肌、分厚い手のひら、太い首。農作業には向いた体だ。実際、彼は畑の端で鍬を持ち、土を耕そうとしていた。


だが、右腕をかばっている。ほんの僅かに。


意識してやっているわけではないだろう。本人も気づいていないかもしれない。体が痛みを避けようとして、無意識のうちに動きを調整している。そういう「代償動作」というのは、長く痛みを抱えていると自然と身につく。本人は普通に動いているつもりなのに、傍から見ると明らかにどこかをかばっているように見える。


普通なら気づかない。だが、俺は何千人も診てきた。


どこが痛いのか。肩か。肘か。あるいは筋肉か。鍬を握る動作で痛みが出るなら、前腕の筋肉か手関節の可能性がある。腕を振り上げる動作で顔をしかめるなら、肩関節か腱板の問題かもしれない。腕全体をまとめてかばうような動きなら、神経が絡んでいることもある。


痛みがある。間違いなく。


その男は薪を持ち上げようとした。傍らに積んであった丸太を、両腕で抱え上げようとした瞬間、僅かに顔をしかめる。眉間に皺が寄り、唇の端がわずかに引きつる。ほとんど一瞬のことで、次の瞬間にはもう元の表情に戻っている。


やはりだ。


腕を伸ばして物を持ち上げる動作で痛む。ということは、肘から肩にかけてのどこかに問題がある可能性が高い。前腕の筋肉の過負荷、いわゆる上腕骨外側上顆炎――テニス肘と呼ばれるものだ――もあり得る。あるいは棘上筋などの腱板損傷か。農作業を長年続けてきた男の体には、積み重なった疲労と小さな損傷がいくつも潜んでいるはずだ。


だが、誰も気にしていない。本人も。周囲も。


他の村人たちは、各々の仕事に集中していて、その男の動きに目を向ける者は一人もいない。男自身も、痛みがあることを誰かに告げている様子はない。こちらで折り合いをつけながら、仕事を続けている。


前世なら診察を勧める。「少し右腕の使い方が気になりました、一度診せてもらえますか」と声をかける。外来に来てもらって、問診して、触診して、必要なら画像を撮って、原因を突き止める。治療法を説明して、場合によっては安静を指示する。


しかしこの村では、多少の痛みなど日常なのだろう。体を使って生きている人間にとって、どこかが痛むことは当たり前すぎて、わざわざ誰かに話すことでもない。痛みと付き合いながら、それでも動き続ける。それがこの時代の、この場所での生き方だ。


その時、男が薪を落とした。


持ち上げようとした丸太が、腕からするりと滑り落ちた。どすん、と重い音がして、土の上に転がる。


「おっと」


男は苦笑いをした。照れくさそうに、あるいは自嘲するように。周囲の村人たちがちらりと目を向けて、同じように笑う。「気をつけろよ」と誰かが言った気がした。男は「ああ」と短く答えて、もう一度丸太を拾おうとする。


誰も深刻には考えていない。


それが正常な反応だということは、俺にも分かる。薪を落とすくらいのことで、村人全員が心配の目を向けていたら、それはそれで異常だ。日常の中に小さなミスはいくらでもある。笑って流せることの方が、よほど健全な社会だ。


だが、俺は気になった。


些細な異変。小さな兆候。多くの重症患者は、そういうところから始まる。「最近ちょっとだるくて」「なんか食欲ないんですよね」「階段が少しきつくなった気がして」。そういう小さな訴えを丁寧に拾い上げた時、思わぬ疾患が見つかることがある。逆に、流してしまった時に、後から「あの時もっとちゃんと聞いていれば」と悔やむことになる。


もちろん、あの男の場合はただの筋肉痛かもしれない。重い物を持ちすぎて、腕に疲労が溜まっているだけかもしれない。一週間も休めば治るようなものかもしれない。疲労かもしれない。


だが、医者は気になる生き物だ。


「気にしすぎだ」と言われても、気になる。「たいしたことないだろう」と言われても、確認したくなる。それは職業病とも言えるし、使命感とも言える。あるいは単なる性分かもしれない。どちらにせよ、俺はどうやら今でも医者らしかった。


   ◇ ◇ ◇


窓の外を見ながら、俺は静かに思う。


この村には病人がいる。怪我人もいる。苦しんでいる人もいる。そして誰もそれを「病気」とは呼ばない。「苦しみ」とも認識しない。生きていれば体は痛むものだ、それだけのことだ、と思っている。それは間違いではない。だが、防げる苦しみというものも、確かに存在する。


前世で俺が救えなかった患者がいる。もっと早く来てくれれば、もっと早く気づいてさえいれば、と思った患者が何人もいる。手遅れという言葉を、俺は医師として何度も経験した。そのたびに、もっと早い段階で誰かがこの人の変化に気づいていれば、と思った。


観察の話に戻る。


医療とは観察だ、と師は言った。俺はようやくその意味が分かってきている。見ること、気づくこと、それ自体が医療の出発点だ。問診票に書かれた症状だけを追うのではなく、診察室に入ってくる患者の全体を見る。歩き方、顔色、声のトーン、手の動き。その人が今どういう状態にあるのかを、できるだけ正確に把握しようとすること。それが観察であり、医療の根本だ。


俺にはその目がある。


この小さな体の中に、何千人もの患者を診てきた経験が宿っている。理論だけではない。感覚として、体に染み付いた観察の習慣がある。遠くから見ただけで、あの男の腕に問題があることが分かる。走っているトムの足が完全には回復していないことが分かる。それは特別な能力ではなく、訓練の結果だ。


まだ何もできない。


それが今の現実だ。この体では言葉も満足に発せられない。立って歩くことすらやっとだ。診察はもちろん、「少し見せてもらえますか」と声をかけることさえできない。どれだけ異変に気づいても、今の俺にはどうすることもできない。


それがもどかしい。前世では、気になったらすぐに動けた。聴診器を手に取り、触診し、検査を指示できた。今は窓の外から見ているだけだ。


だが、いつか。


本当にいつか、この体が育ち、言葉を操れるようになり、手が道具を扱えるようになった時。そして、この世界の医療の水準と限界を把握して、できることとできないことを整理した時。


その目が誰かを救う日が来るかもしれない。


前世でやってきたことを、この世界でも同じようにできるとは思っていない。使える薬も、使える機器も、前世とはまったく違う。検査室はないし、手術室もない。抗生剤も麻酔薬も、この世界では存在しないか、存在したとしても全く別の形をしているはずだ。


それでも。


観察はできる。判断はできる。この世界なりの処置を探すことはできる。草や木の実から作られる薬があるなら、それを学べばいい。この世界の医者がどんな方法を使っているのか、観察して学べばいい。前世の知識と今の世界の素材を組み合わせれば、できることが必ずある。


そんな予感が、春の訪れと共に少しずつ膨らみ始めていた。


窓から差し込む光が、床の上に柔らかな四角形を描いていた。外ではあの男がまた鍬を手に取り、土を耕し始めていた。痛みをこらえながら、それでも働いている。その背中を見ながら、俺は一つのことを心に決めた。


せめて、見続けよう。


今できることはそれだけだ。気づき続けること。観察し続けること。あの男の腕が悪化するかどうか。トムの足が完全に治るかどうか。この村に暮らす人々が、日々どんな体の状態で生きているかを、できる限り正確に把握し続けること。


それが今の俺にできる、唯一の医療だった。


医療というものは、病気を治す技術ではない。まず観察だ。


師の言葉が、春の光の中で静かに響いた。

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