Ep111. 伝えられない診断
知識だけでは人は救えない。
前世で嫌というほど学んだことだった。正しい診断。正しい治療法。正しい薬。それらをすべて知っていても、患者に届かなければ意味がない。
今の俺は、まさにその状態だった。
◇ ◇ ◇
ガルドの肩が気になる。非常に気になる。
だが俺にできることは、窓から眺めることだけだった。
この身体はまだ二歳にもなっていない。言葉はほとんど出ない。出たとしても「がー」とか「まー」とか、そういった類いのものだ。前世では当たり前のように使っていた言語というツールが、今の俺にはない。失って初めて分かる。人間の言語とは実に便利なものだったのだと。
バーバラが首を傾げてこちらを見た。
「ルーク? どうしたの?」
どうしたもこうしたもない。肩だ。肩を診せろと言いたい。しかし出てくる言葉は「がー!」だけで、俺は仕方なく窓の外を指差した。ガルドがいる方向だ。半分は合っている。
「外? 遊びたいの?」
違う。全然違う。
バーバラは俺を抱き上げようとしたが、俺は首を横に振った。彼女は少し困った顔をして、それでもやさしく頭を撫でてくれた。こういう時、彼女の穏やかさが少しもどかしい。悪意がないぶん、余計に伝わらない。
◇ ◇ ◇
その日の午後、俺は本を読んでいた。いや、読んでいるふりをしていた。実際には考え事だ。
慢性的な肩の痛み。数か月の継続。力仕事による負荷。可動域の低下。これだけの情報が揃えば、前世の記憶を持つ俺には候補がいくつか浮かぶ。腱板損傷。肩峰下滑液包炎。あるいは石灰沈着性腱板炎の可能性もある。どれも放置すれば悪化する。特に腱板は、断裂が進行すると保存療法では追いつかなくなる。手術が必要になるケースだって珍しくない。
だが診察なしでは断定できない。それは分かっている。分かっているからこそもどかしい。
どうにかして、誰かに気づかせられないか。バーバラでもいい。オリヴィアでもいい。ガルドの周囲にいる誰かが、あの肩の異常に気づいて、診せるよう促してくれれば、それでいい。
この世界に医術がどこまで発達しているかは分からない。前世の医術と同じ治療が受けられるとは限らない。それでも放置よりはずっとましだ。適切な安静と負荷を減らすだけでも、進行を遅らせることはできる。
問題は、ガルド自身が隠していることだった。
窓から彼の様子を見ていて気づいていた。薪を割るとき、荷物を運ぶとき、右腕を庇うような動きが混じっている。顔には出さない。声にも出さない。村人に心配をかけないように、あるいは弱みを見せたくないという矜持から、痛みをなかったことにしている。こういう患者は厄介だ。前世でも何人も見てきた。自分から症状を申告しない。悪化してから、ようやく重い腰を上げる。その頃にはもう、手遅れに近い状態になっていることが多い。
俺はため息をついた。ため息をついたつもりだったが、出てきたのは「ふー」という間の抜けた音だった。バーバラが顔を上げたので、俺は視線を本に戻した。
何か手はないか。身振り手振りで伝えようとしても、二歳児の動作は語彙が少なすぎる。「肩」という概念を指差しだけで伝えるのは難しい。自分の肩を触っても、バーバラには痒いのか遊んでいるのか、そういう解釈しかされない。言葉が出ないということは、それほどまでに制約が多いということだ。
考えながら、俺はいつの間にかうとうとしていた。
◇ ◇ ◇
玄関から声が聞こえたのは、夕方近くのことだった。
「こんにちはー」
聞き覚えのある声だった。顔を上げると、ガルド本人だった。
「薪持ってきたぞ。先週の分、ようやく割れた」
「助かるわ、ありがとう」
バーバラが笑顔で出迎える。なるほど、村の助け合いか。この村ではそういう文化が根付いているらしく、バーバラの家にも何かと人が訪ねてくる。俺はそれを観察しながら、この世界の人間関係と距離感を少しずつ学んでいた。
ガルドが薪を運ぶ。束を抱えて、玄関から土間へと運び込む。その動作を俺はじっと見ていた。
やはり、右肩が上がらない。
左腕で大部分の重さを支えて、右腕は添えるだけだ。慣れた動作に見えるが、慣れているということはそれだけ長い間、こうやって庇い続けてきたということでもある。代償動作が習慣化すれば、今度は別の部位に負荷がかかる。首や背中、腰にまで影響が出てくることもある。
顔には、やはり出ていない。
ガルドは笑っている。バーバラと何か話しながら、普通に、元気そうに笑っている。だからこそ周囲は気づかない。あるいは気づいていても、本人が平気そうにしているから、大げさに心配するのも悪いと思って黙っているのかもしれない。それが一番、たちが悪い。
◇ ◇ ◇
薪を運び終えたガルドがこちらに気づいて、顔をほころばせた。
「ルーク坊、大きくなったな」
近づいてくる。大きな手が俺の頭の上に伸びてくる。その瞬間だった。
俺は反射的に手を伸ばした。ガルドの右肩へ。
触れた。薄い布越しに、肩の輪郭が分かる。思ったより筋肉がある。この世界で力仕事をしてきた男の身体だ。だが肩峰のあたりに指が触れた瞬間、ガルドの表情がわずかに変わった。ほんの一瞬だ。すぐに笑顔に戻った。だが俺は見逃さなかった。
「ん?」
ガルドが止まる。
俺は肩を叩いた。一度。二度。三度。叩くというより、確認するように触れた。圧迫したとき、ガルドの肩に走ったあの微細な強張りを、俺は感じ取っていた。
「まー!」
言葉にならない。なれない。でも伝えたかった。そこだ。そこが悪いんだろう。診せろ。無理をするな。一人で抱え込むな。
ガルドは目を丸くした。そして苦笑した。少し困ったような、それでいてどこか温かみのある苦笑だった。
「なんだ、肩が気になるのか?」
俺は全力で頷いた。首が取れそうなくらい、全力で。
ガルド、バーバラ、そして近くにいたオリヴィアの三人が固まった。
「……え?」
オリヴィアが呟く。
「ルークもそう思ったの?」
そうだ。やっと伝わった。
オリヴィアの言葉の意味が、俺にはよく分かった。つまり彼女は前から気づいていたのだ。ガルドの肩のことを。ただ言い出せなかっただけで、あるいは言っても本人が「大丈夫だ」と笑うから、それ以上追えなかっただけで。二歳児の俺が肩を触ったことで、彼女の中に溜まっていた言葉が出てきた。そういうことだろう。
ガルドはまだ苦笑していた。だが今度の苦笑は少し質が違った。隠し事を見透かされた人間の、あの、観念したような顔だった。
「……なんで分かるんだ、この子」
「さあ」
バーバラが首を傾げながら、でも少し誇らしそうに俺の頭を撫でた。
◇ ◇ ◇
その後、オリヴィアがガルドを問い詰めた。いつからか。どのくらい痛いのか。動かすと引っかかる感じがあるか。夜に疼くことはあるか。俺が聞きたかったことを、代わりに聞いてくれた。
ガルドは最初、「たいしたことない」「力仕事をしてきたから筋が張っているだけだ」と言い訳めいたことを言っていたが、オリヴィアが引かなかった。俺も頷いたり首を振ったりして、なるべく援護した。二歳児の援護がどこまで有効かは分からないが、少なくともガルドは「この子まで心配している」という顔になっていた。
やがてガルドは、渋々といった様子で認めた。
「……三月くらい前からかな。薪を割っていたら急に痛くなって、それからずっと」
三か月。やはりそれくらいか。急性の発症から慢性化しているとすれば、腱板への影響は無視できない。
「重いものを持つとき、特に上に持ち上げるときが辛い」
インピンジメントのパターンに近い。肩峰下での衝突が起きているとすれば炎症が継続していることになる。
「夜、寝ていると疼くことがある」
夜間痛は腱板損傷のサインの一つだ。断定はできない。だが可能性は高い。
俺は顔を上げてガルドを見た。この世界に、腱板という概念があるかどうかも分からない。適切な診療ができる医術士がいるかどうかも分からない。だが少なくとも今日ここで、ガルド本人の口から症状が語られた。それだけで、前進だ。
オリヴィアが腕を組んで言った。
「明日、ラジウスのところへ行きなさい。前に父が肩をやったとき、診てもらったことあるから」
「大げさだろう」
「大げさじゃない。三か月も放っておいて何が大げさよ」
ガルドは唸った。反論できない様子だった。
◇ ◇ ◇
夕暮れが近づいた頃、ガルドは帰った。出がけに俺の頭をもう一度撫でて、「ルーク坊にまで心配かけるとは情けないな」と苦笑いをした。でもその顔は、さっきより少しだけ軽そうだった。隠し続けることの疲れが、少し下りたのかもしれない。
バーバラが窓を閉めながら俺を見た。
「ルーク、本当に肩が気になってたの?」
俺は頷いた。
バーバラはしばらく俺の顔を見ていた。不思議そうな、でもどこか安堵したような表情だった。「そっか」とだけ言って、夕飯の支度に戻っていった。
俺はその場でしばらく、窓の外を眺めていた。ガルドが歩いていった方向。もう姿は見えない。
ほんの少しだけ、ほんの偶然かもしれない。俺が肩を触ったことで何かが変わったのか、それともオリヴィアがもともといつか言い出すつもりだったのか、本当のところは分からない。俺の行動がどこまで効いたのかなんて、確かめようがない。
だが初めてだった。
この世界で、前世の知識が、誰かへ届いた気がしたのは。
言葉がなくても。診察ができなくても。ただ手を伸ばすことだけが今の俺にできることだった。それでも、届いた。気がした。
それだけで今日は十分だった。




