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Ep107. 父が残したもの

遺産という言葉がある。

前世の俺がその言葉を思い浮かべるとき、頭に浮かぶのはいつも決まっていた。

金。土地。研究資料。

価値のある物。残された者が利用できるもの。それが遺産だと、ずっとそう思っていた。命を終えた人間が、後に続く者へ何かを渡すのだとすれば、それは形のある、誰の目にも明らかな価値を持つものでなければならない――そんな考えが、いつのまにか当たり前のものとして染み付いていたのだと思う。

だが。

父が残した手帳を抱えながら、俺は少し違うことを考えていた。

革の表紙はあちこちが擦れ、角は丸くなっている。何年も、何年も使い込まれた手帳だった。重さは大した物ではないのに、抱えていると妙にしっくりとくる。それが不思議だった。

「懐かしいなあ」

バーバラが隣に座る。手帳を見つめる目は優しい。そして、少しだけ遠い。何かを思い出しているような、そんな目だ。

「本当に何でも書く人だったの」

「忘れないようにって」

ページをめくる。走り書き。買い物のメモ。畑の予定。村人への頼まれ事。

確かに、重要なことばかりではない。むしろ、どうでもいいことの方が多い。明日は誰それの家の屋根を見に行く、種をどこで買ったか、薪を切る順番――そういった、誰の人生にもありそうな、ありふれた記録が延々と続いている。

「でもね」

バーバラが笑う。

「その人らしさって、こういうところに残るのよね」

その言葉に、俺は少し考える。

前世の俺は優秀だった。少なくとも医魔術師としては、間違いなくそうだったと思う。長年の研究、数えきれない症例、積み上げてきた理論。誇れるものはいくつもあった。

だが、もし誰かが俺の遺品を見たら、そこに何が残っていただろう。

研究記録。症例報告。魔術理論。

優秀さは分かるかもしれない。だが、俺という人間は、そこに残っていただろうか。

誰が好きだったのか。何を考えていたのか。何を大切にしていたのか。

――何も。

そこまで考えて、少しだけ寒気がした。

人間は死ぬ。それは仕方のないことだ。だが、存在した痕跡まで消えてしまうのは、少し寂しい。父の手帳のような、何でもない記録の一つさえ、前世の俺は残していなかった。誰かが死後にそれを開いて、「その人らしさ」を感じるようなものを、何一つ。

「ルーク?」

考え込んでいたらしい。バーバラが首を傾げた。

◇◇◇

その時、玄関の扉が開いた。

「こんにちはー!」

聞き慣れた声。オリヴィアだ。勢いよく入ってきて、俺を発見する。

「ルーク!」

「大変!」

大変。この少女の言う大変は、正直なところ信用できない。ユキまるの首が落ちた時も、彼女は同じ顔で「大変」と言っていた。あの時は単に飾りの首がずれていただけだった。

「何があったの?」

バーバラが聞く。オリヴィアは真剣な顔で言った。

「トムが木から落ちた!」

またか、と思う。トムはよく木に登る。そしてよく落ちる。何度目だろう、これは。

「今度は本当に!」

前回も本当だったはずだ。少なくとも、トム自身は本当に痛がっていた。

「足が痛いって!」

その瞬間、俺の意識が切り替わった。

患者。怪我。診察。

頭の中で、ずらりと言葉が並ぶ。久しぶりだった。前世の感覚が、こんなにも鮮明に蘇るのは。

「どのくらい痛いの?」

バーバラが尋ねる。

「歩ける?」

「歩けるけど変な歩き方!」

打撲。捻挫。あるいは軽い骨折。頭の中で可能性が並んでいく。歩けるという情報だけでも、ある程度の絞り込みはできる。だが、それだけでは判断できない。実際に見なければ分からないことの方が多い。

そして、俺は気づく。

この村には医者がいない。医魔術師もいない。

子供が木から落ちて足を痛めても、誰も専門的に診ることができない。様子を見て、湿布を貼って、治るのを待つ。それがこの村の「治療」のすべてだ。今までは、それで何とかなってきたのかもしれない。だが、それで本当に良いのか、という疑問が、今になって初めて頭の中に浮かんでくる。

もし。

もし本当に怪我だったら。

前世の知識が、初めて誰かのために使えるかもしれない。

胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。

それはきっと、医魔術師ルーク・E・オリバーとしての人生が、本当の意味で再び始まる音だった。

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