Ep106. 父の本棚
人は死ぬ。それは当たり前の事実だ。医魔術師だった前世の俺は、誰よりもそれを知っていた。救えなかった命、間に合わなかった患者——そんなものを、何度も見てきた。
だから、死者について考えることは少なかった。考えても戻らない。そう割り切っていた。
だが、最近の俺は少し違う。
父。顔も知らない男。会ったこともない男。それなのに、なぜか気になっていた。
◇ ◇ ◇
翌日、俺は例の本棚の前にいた。もちろん立派な理由がある。知識の収集だ。決して父親探しではない——たぶん。
箱の中には十冊ほどの本があった。農業、地理、歴史、子供向けの物語。そして、一冊だけ異質なものがあった。古い手帳だ。
革表紙で、角は擦り切れている。何度も使われた跡がある。興味を引かれた。非常に。
俺は手帳を開く。中身は日記ではなかった。覚え書きや走り書き、買い物の予定、畑の記録といったものばかりだ。
実につまらない。だが、妙に人間臭かった。
『今年は西の畑の出来が良い』 『マルタ婆さんに野菜を届ける』 『オリヴィアがまた木から落ちた』
……待て。オリヴィア?
俺はもう一度読む。間違いない。オリヴィアだ。年齢的にも合う。つまり、父はオリヴィアを知っていた。当たり前か。同じ村なのだから。
だが、妙な感覚だった。自分の知らない場所で、父とオリヴィアが同じ時間を生きていた。
さらにページをめくる。
『バーバラが風邪』 『薬草を取りに行く』 『無理をしすぎるなと言ったが聞かない』
思わず笑いそうになった。今と変わらない。まったく変わらない。
そして、最後の方のページで、俺は手を止めた。
『子供が生まれる』 『男の子でも女の子でもいい』 『元気ならそれでいい』
文字が少し乱れている。嬉しかったのだろう。
『本を読んでやりたい』 『色々な場所を見せたい』 『幸せになってほしい』
そこで終わっていた。それ以上はない。続きは書かれていない。
たぶん、俺が生まれる前に死んだのだろう。
静かな部屋で、俺はしばらく動けなかった。
前世の俺は、母親に愛されなかったと思っていた。だから、親というものに期待していなかった。
だが、この父親は違ったらしい。会う前から、俺を楽しみにしていた。会う前から、幸せを願っていた。
知らなかった。そんなもの。前世では、一度も知らなかった。
◇ ◇ ◇
「ルーク?」
声がした。振り向く。バーバラだった。
彼女は手帳を見る。そして、少しだけ目を細めた。
「見つけたのね」
その声は、どこか優しかった。どこか寂しかった。
俺は手帳を抱きしめる。前世なら、こんな感情は理解できなかった。
だが今は、少しだけ分かる。会ったこともない父親が、少しだけ近くなった気がした。




