Ep105. 父の足跡
本には、その人が残る。 前世の俺はそう考えていた。
書き方。考え方。知識。価値観。文字の向こうには必ず人間がいる。だから俺は本が好きだった。人は嫌いだったが、本は嫌いじゃなかった。
◇ ◇ ◇
そして今、俺は父の本を開いている。
もちろん堂々とは読めない。赤子だからだ。文字を追っていたら不自然すぎる。だから、ページをめくって遊んでいるふりをする。実際には読んでいる。非常に真面目に。
内容は初等教育用の読み物だった。地理、簡単な歴史、農作物、近隣地域の紹介。
なるほど、ここは辺境に近い農村らしい。王都からはかなり遠く、人口も少ない。魔術師はほとんどいない。医者も滅多に来ない。病人が出れば村人同士で支え合う。
前世の俺なら、医療環境の劣悪さに眉をひそめていただろう。だが今は違う。この村の人間たちは、案外幸せそうだった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、バーバラが食事の準備をしていた。俺は本を抱えている。離したくなかった。
「そんなに好きなの?」 バーバラが笑う。 「やっぱり似てるわね」
まただ。父の話。
最近になって気づいた。俺は父のことをほとんど知らない。名前も、仕事も、性格も、何も。
「まー?」 俺は声を出した。もちろん本当は質問したかった。父はどんな人だったのか、と。だが、今の俺にできるのはこの程度だ。
「お父さん?」 バーバラは少し驚いた顔をした。偶然だ。だが通じたらしい。
「そうねえ……」 手を止める。少し遠くを見る。
「優しい人だったわ」
その答えは、少し意外だった。優しい。曖昧な言葉だ。能力でもない。地位でもない。実績でもない。
「本が好きで」 「子供が好きで」 「困ってる人を放っておけなくて」
笑う。懐かしそうに。
「損ばっかりしてたけど」 「私は好きだったな」
その言葉を聞いて、なぜか少し考え込んでしまった。
前世の俺は、損を嫌った。利用されるのも嫌だった。だから人を遠ざけた。
だが、この父親は違ったらしい。
そして、バーバラの表情を見る限り、その生き方は間違いではなかったのだろう。
「ルークも」 バーバラが微笑む。 「お父さんみたいになるのかな」
ならない。たぶん、完全には。
俺は元々ひねくれている。疑い深い。性格も良くない。
だが、少しだけ。少しだけなら、そんな人間になってみるのも悪くない。
◇ ◇ ◇
窓の外では、夕日が雪を赤く染めていた。
知らない父。会ったことのない父。
だが、もしかすると、この人生で俺が目指すべき人間は、前世の自分ではなく、その人なのかもしれない。
そんなことを、生まれて初めて考えた。




