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Ep102. 初めての脱走犯

前世の俺は、計画を立てるのが得意だった。




目標を決める。手順を組む。実行する。前世の仕事でも、プライベートでも、ことあるごとにこのサイクルを回してきた。習慣とはそういうものだ。繰り返すことで、考えなくても体が動くようになる。計画を立てることそのものが、もはや俺にとっては呼吸に近い行為だった。起きている間は何かしら考えていたし、眠る前には翌日のことを整理していた。そのせいで人付き合いが薄くなった面も、正直なかったとは言えない。でも後悔はしていない。そういう人間だったというだけだ。無駄なく、効率よく。それが成功への近道だった。迷いを排除し、余白を埋め、確率を上げる。そういう積み重ねが、少しずつ結果に繋がっていく。派手な一手より、地道な積み上げの方が、長い目で見れば安定する。前世では会社を経営していた。規模は小さかったが、それなりに成果を出してきたと思っている。成功の理由を一言で表すなら、計画力だった。思いつきで動くことを嫌い、感情で判断することを避け、データと論理で手順を組み立てる。そういうやり方を自分の信条にしてきた。計画とは、不確実性を削ぎ落としていく作業だ。起こりうるリスクを洗い出し、優先度を付け、対処の順序を決める。その積み重ねが、結果として確実性の高い行動へ繋がる。感覚や勘に頼る部分も当然あるが、それはあくまで計画の補助であって、計画そのものに代わるものではない。




だから今回も、完璧な計画を立てた。




目的は一つ。自分の力で外へ出る。以上。実にシンプルだ。シンプルすぎて、計画と呼べるかどうかも怪しいくらいだ。でも逆に言えば、それだけ余計なものを省いた計画だともいえる。無駄を削ぎ落とした先に残った、純粋な意図だ。シンプルな目標ほど、実は達成が難しいことは前世で嫌というほど学んだ。複雑な目標は複雑な手順を生むが、その複雑さの中にこそ達成への道筋が見えやすい。シンプルな目標は逆だ。方法が少ない分、一つ一つの判断に重みがある。余計なことを考える余地がない代わりに、一点突破の精度が問われる。それでも今回の場合、目標はシンプルで手順もシンプルだった。扉が開いた隙に這い出す。以上。




ただし問題は、今の俺の体にあった。




今生の俺は、赤ん坊だ。名前はルーク。何の因果か、前世の記憶を持ったまま、この異世界の小さな体に生まれてきた。赤ん坊に転生するというのは、つまり全てをゼロから出発するということだ。言語は一から覚え直し、体の使い方も一から覚え直し、この世界のことも全て見聞きして初めて知っていく。前世の知識がある分、理解は早いかもしれないが、体の能力という物理的な制約だけはどうにもならない。焦れったいと思うこともあるが、まあ仕方がない。今の俺には今の俺にできることをやるしかない。




村そのものは知っている。窓から何度も眺めた。室内から見える範囲ではあるが、家の前の道の様子、向かいの建物の外観、遠くに連なる山の稜線、そういったものは大体頭に入っている。オリヴィアに抱かれて外へ出たこともあるし、その時には雪景色も見た。白く積もった雪の中に、ユキまると呼ばれる雪だるまが佇んでいた。丸い体に、どこか愛嬌のある顔。オリヴィアが笑顔で話しかけていたのが印象に残っている。家の周囲がどうなっているのかも、おおよそ把握している。




しかし、それは全部、誰かに見せてもらった景色だった。受け取ってきた情報の量は決して少なくない。でも能動的に取りに行った情報ではない。その違いは、実際の体験に出てみて初めて分かる種類の違いだ。本を読んで知ることと、現場に行って肌で感じることが違うように。地図を見て道を知ることと、実際に歩いてみてその道の傾斜や路面の感触を知ることが違うように。同じ情報でも、どうやって得たかで、その重みが変わる。




抱き上げられたまま。守られたまま。与えられた視界の中だけで見た世界だ。視線の高さが違う。大人の腕の上から見る世界と、地面に近い場所から見る世界は、当然ながら全く違う。それだけじゃない。誰かに抱かれている状態では、向きたい方向を自由に向けない。見たいものを見に行けない。視界は常に抱いている人の意図に引っ張られる。「あそこに面白そうなものがある」と思っても、自分では動けない。ただじっと、与えられた方向を眺めるしかない。それは情報として不完全だ。




それでは足りない。




地面の感触を知りたい。風の匂いを知りたい。自分で進んだ先に何があるのかを、自分の目で確かめたい。前世の俺は、データや報告書よりも実地確認を重んじていた。どれだけ精度の高い情報があっても、足を運んで自分の五感で得たものには勝てないと信じていた。部下から上がってくる報告書を読むだけで済ませることもできたが、それでは足りないと感じていた。現場に行くと、報告書には書かれていないことが必ず見つかった。空気の重さ、人々の表情、言葉にならない緊張感。場の空気感というものは、数字や文章には乗りにくい。しかしそれが、実は判断の大事な材料になることが多かった。




だから何度も現場へ行き、何度も自分の目で状況を見て、判断を下してきた。その習慣は、どうやら今世にも引き継がれているらしい。転生というのは面白いものだ。体は全く新しい。言語も環境も文化も違う。魔法の存在する世界で、雪が積もる村に、ルークという名前で生まれた。前世のルールや常識が通じない場面も多い。それでも、考え方の核みたいなものは引き継がれている。現場を見たい、自分で確かめたい、データより体験を信じたい。そういう衝動は、どうやら体に宿るものではなく、もっと深いところにあるらしかった。こんな小さな体になっても、根っこのところは変わらない。いや、むしろ今世の方が、切実さが増している気がする。前世では自分の足で好きな場所へ行けた。今は違う。行きたい場所があっても、誰かに連れて行ってもらうしかない。自分の意志で動ける範囲が、驚くほど狭い。部屋の中を見渡しても、見えるものは全て既知だ。壁の染み、天井の木目、窓の外の同じ景色。飽きた、とは言わない。でも、その先が気になる。もっとあるはずだ。この世界には、まだ俺の知らないものがたくさんある。




だからこそ、その狭い範囲を少しでも押し広げたかった。ならば今も同じだ。この世界を、今度こそ自分の力で見てみたい。




この体で動ける範囲は、まだひどく限られている。立てない。歩けない。話すこともできない。前世の自分が聞いたら笑うかもしれないが、それでも今日、俺は外へ出ることを選んだ。できないことを数えるより、できることを一つやる方が、俺の性分に合っている。




この数週間、俺は室内でできる観察を徹底してきた。家の構造、住人の行動パターン、各人が一日にどの部屋をどの順番で移動するか。バーバラは朝一番に台所へ行き、次に洗濯の確認をする。オリヴィアは日によって違うが、午前中は比較的家の中にいることが多い。夕方になると二人とも台所周辺に集まってくる。こうした情報を集め、パターンを把握し、隙を見つける。地味な作業だが、計画の基礎はこういうところにある。そして今日、その観察が実を結んだ。







チャンスは突然やってきた。いや、突然というのは少し語弊がある。俺はずっと待っていた。チャンスというものは、何もせずにいたら来ない。準備をして、観察をして、その上で待っているからこそ、来た時に掴める。バーバラが洗濯物を外に出した瞬間から、俺はずっと様子を見ていた。扉がどの程度開いているか。バーバラの動きがどのくらいの間隔で繰り返されているか。今日が本番だと判断したのは、偶然ではない。




バーバラが洗濯物を取り込んでいる。今日の天気は曇り気味で、風がそれなりに吹いていた。洗濯日和かどうかは正直よく分からないが、外に干してあった布類が乾いたと判断したのだろう。バーバラの判断はいつも的確だ。家の中のことなら、彼女に任せれば間違いない、とオリヴィアも言っていた。




しかし今日は、うっかりしているらしかった。




洗濯物が多すぎたのかもしれない。それとも、空の雲行きが怪しくなってきていて、急いでいたのかもしれない。理由は分からないが、問題は扉だ。洗濯物を運ぶたびに玄関を行き来しているせいで、扉が中途半端に開いたままになっている。差し込む光の帯が、床の上に細長く伸びていた。外の風が、薄く流れ込んでくる。少し湿った、草の匂いがする風だ。ここまでは想定の範囲内だった。問題はオリヴィアの位置だが、さっきから声も気配もない。どこかへ行っているようだ。




監視者なし。扉、開放中。対象の注意は屋外の洗濯物に集中。今日までの観察の成果が、ここに結実している。地味な準備が、いざという時に効く。それも前世で学んだことだ。華やかな場面は、その前の地味な積み重ねで作られる。




完璧だ。作戦遂行の判断を下す時の、あの感覚が久しぶりに蘇った。胃の辺りが少し引き締まる感じ。前世でも、何か大きな決断をする前には必ずこうなった。体が、行動の開始を告げる合図を出す。




俺は動いた。静かに、素早く、音もなく、ハイハイで。




……いや、想像するとかなり間抜けだな。赤ん坊が忍び足で脱出を試みるというのは、絵面としてどう考えても締まらない。背後から見れば、小さな子供がよたよたと玄関へ向かっているだけだ。作戦会議もなく、武器も道具もなく、移動手段はハイハイのみ。前世の自分が見たら何と言うだろう。笑うか、それとも「効率が悪い」と眉をひそめるか。どちらにしても、あまりいい評価はもらえない気がする。




しかし実際問題、今の俺に使える移動手段はハイハイしかないのだから仕方がない。この体で使えるものを使う。文句を言っても始まらない。足がないなら這えばいい。這えるなら進める。進めるなら、どこかへたどり着ける。格好など気にしていられなかった。プライドを捨てて前へ進む。これも前世から変わらない処世術だ。状況が悪くても、手段が限られていても、できることをやり続ける。それだけだ。完璧な手段がないなら、手元にある手段で動く。動き始めれば、状況は変わる。机の前でああでもないこうでもないと考え続けるより、まず一歩を踏み出す方がいい。それは計画主義の俺が、計画を立てながら同時に学んできたことでもあった。




床の感触が手のひらに伝わってくる。板張りの冷たさ、木目の細かな凹凸。ついでに言えば、ハイハイというのは思ったより体力を使う。前に進むたびに、腕と足に体重がかかり、その感覚が全身に伝わってくる。赤ん坊の体は、体重こそ軽いものの、筋肉がまだほとんど発達していない。こういう動きを毎日繰り返してこそ、少しずつ体ができていくのだろう。成長とはそういうものだ。前世では当たり前に使っていた体が、実は長い時間をかけて鍛えられた結果だったということを、今になって実感する。




玄関まであと少し。光が近づいてくる。外の空気が、ひと呼吸ごとに強くなっていく気がした。冷たくて、草の匂いがする。知らない匂いだ。いや、正確には、窓越しや誰かの腕の中から嗅いだことはあるが、これほど直接的に鼻へ届いたことはなかった。草と土と、それから何か木のような匂い。湿った空気の匂い。この村の外の匂いだ。前世の感覚で言えば、山の中の遊歩道みたいな匂いに少し近い。でも全く同じではない。ここにしかない匂いだ。




玄関の段差を越える。思ったより大きな段差だった。体重をかけて、勢いをつけて越えた。手が土に触れた。冷たかった。思わず息を飲んだ。




そして。




外だ。




冷たい空気が頬を撫でた。思わず目を細める。広い。思った以上に広い。抱っこされて見た時とは全然違う。視線が低い。土が近い。草の匂いが濃い。風が直接頬を叩く。同じ場所のはずなのに、まるで別の世界だった。




空が大きかった。




見上げると、白い雲がゆっくりと流れていた。以前にも空は見ていたが、誰かの腕に抱かれながら見上げる空と、地面に手をついて自分の重さで体を支えながら見上げる空は、まるで別物だった。重力の感覚が違う。自分がここに存在している、という実感が違う。前者は空を「見せてもらっている」感覚で、後者は空の下に「いる」感覚だ。その差は、実際に体験してみるまでは分からなかった。感覚というのは、言葉で説明されても分からない。体で知るしかない。そのことを、改めて実感した。




土の冷たさが手のひらから腕へと伝わってくる。風が少し強くなって、草が揺れる音がした。葉と葉がこすれる、乾いた音だ。遠くで鳥が鳴いている。どこかから木の燃える匂いがした。誰かの家の竈だろうか。朝か昼かの食事の準備をしているのかもしれない。村の暮らしの匂いだ。視線を巡らせると、家々の屋根が連なり、その向こうに山の稜線が見える。窓から見た時と同じ山のはずが、角度が少し違うだけでまるで別の山に見えた。低い視点から見る山は、より大きく、より圧倒的だった。ここに住む人たちは毎日この山を見て暮らしている。前世で言えば、通勤路で毎日見ている山、みたいな感覚なのかもしれない。俺にとっては今初めて正面から見る山だ。




これだ。俺が見たかったもの。生きた世界だ。




手のひらで土の感触を確かめる。少し湿っていて、粒の細かい土だった。指を動かすと、土が少し崩れて指の間に入り込む。窓越しに見ていた時には、外の地面がどんな感触なのかなど考えたこともなかった。当たり前に存在しているものとして、ただ眺めていた。でも実際に触れてみると、一つ一つのものに固有の感触があって、それがこの世界の実在感を作っている。形のある世界だ。手で触れられる世界だ。




少し進んでみた。ハイハイで、家の玄関から二、三歩分だけ。土の感触が変わった。さっきより少し固い。日当たりの違いで、乾き方が違うのかもしれない。たった数歩で、地面の質感が変わる。地面というのは、均一ではないのだ。そしてこういう小さな発見が、積み重なって世界の理解になる。データで理解する世界と、体で理解する世界は、質が違う。どちらが優れているということではなく、両方があって初めて立体的な理解が生まれる。俺が求めているのは、その立体的な理解の方だ。




前世では、こういう何でもない瞬間を見落としていた気がする。忙しかったのか、それとも単純に興味がなかったのか。目の前のことをこなすだけで精一杯で、その途中にある小さなものを拾い上げる余裕がなかった。でも本当は、その小さなものの中にこそ、大事なものが詰まっていたのかもしれない。土の匂い。空の色。風の向き。そういうものを知っている人間と知らない人間では、世界の解像度が違う。俺はこれから、この世界の解像度を少しずつ上げていきたいと思っている。




常に次の目標を見ていて、今この場所にある些細なものに目を向ける余裕がなかった。風の匂いを意識したことなど、ほとんどなかった。地面の感触を楽しんだ記憶もない。出社途中に空を見上げたことが、果たして何度あったか。効率を追い求めるあまり、通り過ぎてきた景色がどれだけあっただろう。もったいないことをしてきたな、と、土の上に手をついたまま、少し思った。これは前世への後悔というより、今ここにある世界のすごさへの気づきだ。同じ場所でも、立つ位置が変わると、見えるものがこれほど変わる。




「ルーク?」




声がした。タイミングが悪い。いや、正確には、俺の情報収集が不完全だったということだ。オリヴィアの位置を確認していなかった。家の中にいないと思っていたが、どこかから戻ってきたのか、それとも別の場所にいたのか。どちらにしても、見落とした。次回への課題だ。




振り向く。




オリヴィアだった。どこから来たのか分からないが、家の傍らに立って、目を丸くしてこちらを見ていた。数秒、沈黙があった。彼女はしばらく俺を見て、俺も彼女を見た。彼女の表情が、驚きから、混乱から、何かを理解しようとする顔へと、目まぐるしく変わっていった。




「え」




「ええええええ!?」




しまった。




「バーバラさーん! ルークが脱走してるー!!」




裏切り者である。脱走とは失礼な。これは自主的な屋外調査だ。緊急性も悪意もない、ただの情報収集活動だ。本人に危害を加えるような意図は一切ない。そのくらいの区別はしてほしいと思う。




「えっ!?」




家の中から悲鳴が上がり、足音が近づいてきた。そしてバーバラが玄関から飛び出してきた。表情は見えなかったが、足音の速さと、玄関を飛び出す勢いで、かなり焦っていることは分かった。洗濯物を抱えたままだったが、そんなことは気にする余裕もないらしかった。




「ルーク!!」




抱き上げられる。一瞬だった。逮捕である。




バーバラの腕の中で、俺は空中に引き上げられ、あっという間に地面から遠ざかった。さっきまで自分の手で触れていた土が、またどこか遠い場所になった。理不尽な気がしないでもないが、まあ仕方がない。作戦の継続は断念する。今回は偵察に留まった、と前向きに解釈しよう。得られた情報は十分に価値があった。




「びっくりした……本当にもう……」




バーバラの声が震えている。ぎゅっと抱き締められる。強い力だった。痛いくらいではないが、それでも相当な力で抱き締めている。腕に力を込めながら、彼女はしばらく何も言わなかった。洗濯物がどこかに落ちた音がした。俺はされるがままになりながら、その震えを感じていた。こういう時、何か言えれば良いのだが、今の俺の言語能力では気の利いたことを口にするのは難しい。せめて暴れないでいることが、今の俺にできる精一杯だと思った。




その時、ふと気づいた。




怒っているのではない。心配していたのだ。




前世なら、理解できなかったかもしれない。誰かが心配するという感覚を、頭では分かっても腹の底では実感として掴みにくかった。計画が崩れることへの苛立ちや、予測外の事態への対処を考える方が先で、感情の機微を丁寧に受け取る余裕が薄かったのだと思う。仕事上の関係では特にそうだった。誰かが心配してくれている、その背後にある感情の重さを、きちんと受け取れていたかどうか、自信がない。今になって思えば、もう少し丁寧に受け取っても良かった場面が、いくつかあったかもしれない。




でも今は分かる。大切だから怖い。失うかもしれないから心配する。それは理屈ではなく、感情の話だ。俺はこの世界に来てから、少しずつ感情というものの重さを学んでいる気がする。前世では知識として知っていたことが、今は体の感覚として分かってくる。それが成長というものなのかもしれない。バーバラにとって、俺が一人で外へ出ていたという事実は、それだけで心臓が縮む出来事だったのだ。この世界には、俺が知らない危険がまだたくさんある。外に出れば安全とは限らない。ユキまるは雪だるまだから危険はないとしても、外の全てが安全とは限らない。大人たちがそのことをよく知っているから、慎重になっているのだ。それを理解せずに一人で出ていった俺を、怒る権利は十分にある。それでも彼女は怒らず、ただぎゅっと抱き締めていた。




「でもすごいね!」




オリヴィアが笑う。彼女はこういう時、本当に心から嬉しそうな顔をする。俺の小さな前進を、まるで自分のことのように喜ぶ。それが不思議で、でも少し温かい気持ちにもなる。前世では、他人の成長をここまで素直に喜べる人間に、あまり出会わなかった気がする。競争の中にいたからかもしれないし、俺自身が他人の喜びを受け取る感度が低かったのかもしれない。




「玄関まで一人で来たんだ!」




誇らしそうな顔をしている。なぜ君が誇るのか。褒めてくれる気持ちはありがたいが、今ここで褒められると、バーバラの気持ちが少し気になる。




「褒めないで! 次はもっと遠くまで行っちゃうから!」




バーバラが即座に否定した。




その通りである。実際その予定だった。だが今は黙っておこう。ここで同意するような素振りを見せれば、バーバラの心配をさらに増やすだけだ。俺にだって、相手の気持ちを読む程度の知恵はある。今は黙って、大人しくしているのが最善だ。バーバラの腕の震えが少しずつ収まっていくのを感じながら、俺は次の計画を頭の中で静かに修正し始めていた。今回分かったこと。扉が開くタイミングは再現性がある。ただし次は、オリヴィアの位置を先に確認する必要がある。彼女が家の中にいる状態では、バレる確率が高すぎる。それと、玄関から先の地面の状態についてもう少し情報が欲しい。今日は土の感触しか分からなかったが、雨の後は泥になるのか、石畳のような場所もあるのか。ハイハイで移動するには、足場の把握が重要だ。







こうして、俺の初めての脱走計画は失敗に終わった。所要時間、玄関から外まで数分。屋外滞在時間、体感では二、三分程度。その後、即座に確保された。作戦遂行時間としては短すぎるが、得られた成果は想定以上だった。




しかし失うものより、得るものの方が遥かに多かった。失ったのはせいぜい、大人しくしていたという実績くらいだ。外の空気を知った。風の匂いを知った。自分の力で進む楽しさを知った。土の冷たさと、低い視線から見える世界の広さを知った。そして、山が思っていたよりずっと大きく見えることも。




それから、心配されるということが、怒られることとは全く違う感触を持つということも。これは頭で理解していたことだが、今日はじめて体で理解した。バーバラの腕の震えは、俺に向けた怒りではなく、俺を失うかもしれないという恐怖から来ていた。その怖さを、彼女は言葉にしなかった。ただぎゅっと抱き締めるだけだった。言葉にしないことで、かえってその気持ちの重さが伝わってきた。バーバラが腕を震わせていたあの感触は、しばらく忘れないだろうと思う。怒りなら、それはそれで分かりやすい。しかし心配というのは、もっと静かで、もっと重い。言葉にならない部分に、相手の気持ちが詰まっている。それを受け取るには、こちらも静かでいなければならない。




自分が誰かに心配される存在であるということを、前世ではあまり意識してこなかった。誰かに迷惑をかけないこと、足を引っ張らないことを優先していたが、心配させることへの想像力は薄かった。それは少し孤独な在り方だったかもしれない、と今になって思う。心配してくれる人がいるということは、自分が誰かと繋がっているということだ。その繋がりを、前世の俺はどこかで遠ざけていた気がする。効率を重視するあまり、関係の重みを軽く扱っていた。




この世界に生まれてきて、少しずつ、そういう感覚が育ってきている気がする。それは悪いことではないと思っている。むしろ、前世で足りなかったものが、今ここで補われているような気さえする。バーバラの腕の震えが教えてくれたことは、どんな計画にも書き込めない種類の知識だ。体で覚える、感情の話だ。




バーバラの腕の中で、俺は空を見上げた。腕の中から見る空は、さっきとは違う。でも同じ空だ。同じものを、違う場所から見ている。それがどれだけ視界を変えるか、今日ほど実感したことはなかった。雲が流れていた。さっき地面から見た空と、今ここから見る空は、やはり違って見えた。どちらが正しいということはない。ただ、どちらも同じ空だ。見る場所が変わると、同じものがこれほど違って見える。それはある意味、この世界の広さの証明でもある。もっと色んな場所から、色んな角度で、この世界を見てみたい。そう思った。




次は、もっと遠くまで行こう。今日一歩を踏み出したことで、次の一歩が見えてきた。計画とはそういうものだ。動いてみて初めて、次に何が必要かが分かる。




計画は既に始まっている。今日得た情報を整理して、次の隙を探す。オリヴィアの行動パターンを再確認する。玄関の先の地面がどう続いているか、もう少し観察が必要だ。それと、どこまで行けば「遠く」と言えるのかも考えなければならない。今日は玄関の数歩先までしか行けなかった。次は、少なくとも家の角まで。その次は、道の向こうまで。一歩ずつだが、確実に進む。




もちろん、今度は見つからないように。

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