第250話「院というかいぬというか(肆)」
二階堂行春の中には、なにか妙な予感があった。
「久々なのだ、遠回りしてゆるりと話ながら帰ろう」
頼遠がこのようなことを言ってくるのは珍しかった。
礼節は弁えているがそれにこだわることはなく、何事にも頓着しないさっぱりとした気質の男と思っていた。
だから、もっとゆっくりと語り合おうという提案に些細な違和感を覚えたのである。
とは言え、その違和感はひどく小さなものだった。
だから行春は、若干奇妙な感覚を抱きつつ、特に反対せず付き合うことにしたのである。
既に陽は落ちかけており、ほとんど見えなくなっている。
郎党が持っている松明の灯りが頼りだが、そこまで先が見えるというわけでもない。
「何者だ」
誰かの誰何する声が聞こえてきた。
皆が足を止めている。どうやら先頭の郎党が、他の集団と遭遇したらしい。
この京において、自分たちの立場はあまり強い方ではない。
揉め事になったら、後々まずいことになる可能性があった。
かと言って、最初から平身低頭でいっては舐められてしまう。
舐められるということは面子が損なわれるということだ。
面子を重んじる武士にとっては、重大な問題である。
「大事にならねば良いが」
そう言って隣にいた頼遠の表情を見る。
頼遠は、闇の先にいる何かを凝視するように、双眸を大きく開いていた。
さながら、獲物を狙う狩人のような眼差しである。
「頼遠殿?」
問いかけるも、こちらの声が届いていないのか、頼遠は一切反応しない。
「そちらこそ何者か。問いかける前に己が名乗られよ」
先頭からは、かなり語気荒く言い争っていそうな気配を感じた。
何か、ただごとではないことが起きようとしているのではないか。
そんな懸念に駆られて、行春は冷や汗をたらした。
「こちらは御幸である。早く下馬して道を空けるが良い」
苛立ち混じりの言葉が聞こえてきて、行春はいよいよ肝を冷やした。
御幸ということは、相手は院か帝、あるいは女院ということになる。
いずれにしても、自分たちと比べたら雲の上の存在だった。
下手に歯向かおうものなら、所領や職を失うことに繋がりかねない。
「頼遠殿、ここは下馬しよう」
声をかけながら、行春は慌てて馬を降りて道の端に寄った。
だが、頼遠は微動だにしない。
黙って闇の先を見据えている。
「頼遠殿」
もう一度声をかけると、頼遠はようやく行春の方を見た。
「すまぬな、行春殿」
「なに?」
「最初からこうと決めていたわけではなかった。会うかどうかは運次第。駄目だったらまた別の日でも構わぬ。何度か繰り返せばそのうち機会が巡ってくるであろう――そういう腹積もりだった」
頼遠が何を言っているか、行春にはさっぱり理解できなかった。
ただ、本能的に察したことがある。
どうやら自分は、とんでもない外れをつかまされたらしい。
「なに、行春殿は偶々私と一緒にいただけで、何も知らず巻き込まれたということになるだろう。そう酷いことにはなるまいよ」
「頼遠殿、そなたは何を言っている?」
「聞かぬ方が良い。下手に事情を知ると、罪が重くなる可能性がある」
そう言うと、頼遠は下馬するどころか馬に乗ったまま前へと進み始めた。
「ま、待て頼遠殿!」
「さらばだ行春殿。そなたとの交流はなかなかに楽しかった。それ自体に嘘偽りはない。恨みたいだけ、恨んでくれ」
それだけ言い残して、頼遠は闇の先へと消えていく。
追いかけることもできず、行春は呆然とその背中を見送ることしかできなかった。
気高き理想というものが、西園寺公重には理解できなかった。
昔からずっと、余裕というものがない。
大局的な視野を持てていない。その点については自覚があった。
だから、せめて正しくあろうとした。
父が亡くなった後は、精一杯兄を補佐しようと努めた。
兄の後醍醐暗殺計画を知ったとき、公重は一度諫めようとした。
あまりに無謀だし、成功したとしても下手人として名が知られれば終わりである。
西園寺家の名声に瑕がつき、兄は今後ずっと帝殺しの悪名を背負うことになる。
懸命に訴えたとき、兄の口から出たのは「そういうときのためにお前がいる」という言葉だった。
兄の真意は分からない。ただ、そのときの公重は「帝殺しの罪を背負わされる」と受け取った。
あとは、衝動である。
恐怖に突き動かされるまま後醍醐の元に飛び込み、すべてを白状した。
それが間違いだったとは思わない。ただ、我が身可愛さがなかったとも言えないところに、公重の後ろ暗さがあった。
今でもふと思う。
兄の言葉は、もしかしたら違う意味を持っていたのではないかと。
そして、後悔の念からそれ以上考えるのをやめてしまうのが常だった。
だから、それ以降はより正しくあろうとした。
十分にできているとは思わない。時折、人間としての自分の弱さや醜さが露呈していることは分かっている。
そういう自覚があるからこそ、西園寺公重は理想を追いかけることができない。
目の前のことで、自分のことだけで手一杯なのだ。
先頭から、何か揉めているような声が聞こえてくる。
どうもどこかの集団とぶつかってしまったらしい。
こちらは院の一行なのだから譲る必要などないのだが、念のため状況を確認しておいた方が良いかもしれない。
「少々揉めているようです。私が様子を見てまいります」
「うむ」
光厳院はまだ法華八講の余韻に浸っているのか、どこか上の空で返事をしてきた。
おそらく院の中には、今後の天下のことがいろいろと描かれているのだろう。
公重からすると、未知の世界である。
「どうした。何事だ」
供奉していた者たちをかき分けて先頭に進みながら、公重は周囲に問いかけた。
周囲は薄暗い。
すぐ近くにいる者の顔なら分かるが、少し離れてしまうとよく見えなくなる。
「は。どうもどこぞの武士団と思しき連中と鉢合わせまして。こちらのことを伝えてもなかなか退く様子がなく」
「怖いもの知らずかよほどの田舎武士、ということか?」
すぐに先頭で言い争っている者たちのところに辿り着く。
「おい、そこの者。今は院が伏見殿から戻られるところだ。今すぐ下馬して道を開けよ。さすれば今回の無礼については追及せぬ」
公重としては、かなり温情をかけたつもりである。
しかし、相手はありがたがるところか公重の顔を見て嘲笑してきた。
「院? 院がなんだというのだ。足利がいなければ吉野院の陰で細々と過ごすことしかできなかったではないか」
「なに」
「自分ではさして苦労もしていないのに、我が物顔で天下を好き放題している。そんな相手に敬意を払うだとか道を開けるなんてことは、とてもじゃあないが出来そうにない」
あまりの言い草に、さすがに怒りが湧いてきた。
「院が苦労していないなどとうそぶくとは、事情も知らぬ田舎者と見える。今すぐ道を開けよ。今ならお前一人の首で済むかもしれんぞ」
「院の従者が随分と物騒なことを言う」
「礼節を弁えた人間相手にこのようなことは言わぬ。分を弁えぬ獣相手だから言っているのだ」
言いながら、公重は刀を抜いた。
他の従者たちも、相手のあまりの言葉に剣呑な表情を浮かべている。
そのとき、相手の集団の中から一人の騎馬武者が進み出てきた。
「一触即発というところか」
見覚えのある顔である。
それを見た瞬間、公重の中で何かが動いた。
驚きではない。不思議なほどに落ち着いている。
正直なところ、いつかはこんなことになると思っていた。
あえて言葉にするなら、それは覚悟というものであろうか。
「思いのほか血の気が多いな、公重卿」
「――頼遠殿」
薄暗い京の道で、西園寺公重と土岐頼遠が相対した。





