20願い
出て行った璃久にハッとした薫森も追いかけようとしたが、強くなるばかりの風が、璃久が出て行った途端に大きな音を立てて扉を閉ざしてしまった。開けようとしても風が強くて扉が何倍もの重さになっている。
それでも璃久は振り返らずに走った。すぐに息が切れる自分に腹が立ってくる。今日の天気予報は晴れなのに、既に曇り空からぽつぽつと大粒の雨が降っている。加えて初夏だと言うのに強く冷たい風。そして何より、璃久の直感が早くミュオのところに行かなくてはいけないと叫んでいた。
階段を数段飛ばしで駆けあがる。これまでに一度だってない必死の全力疾走だった。その思いに反して、風は強く吹き、彼の体に絡みつくように重みを増して、璃久が前に進むのをはばもうとする。雨足も強くなり、小雨の域をとうに超えていた。傘を持っていたとしても無意味なのではないかというほどの強い雨風。
風が、気体であるはずなのにまるで液体の様に璃久の体にまとわりついた。夢の中で走っている時のように、足を必死に動かしても前に進めないようで。璃久はもどかしさに叫びたくなる。眼鏡が風に飛ばされないように俯き加減で、でもしっかりと階段の上を見据えて、手すりにつかまりながら足を動かした。
「ミュオ!」
吹き荒れる雨風に翻弄されながら、璃久はミュオを呼ぶ。返事はない。代わりに風が璃久を横殴りにした。拒絶されているのは明らかだった。
眼鏡があっても目を開けているのが困難で、璃久は歯を食いしばってゴールを薄目に見ながら、ほとんど手すりにしがみつくようにして階段を上り続けた。
「ミュオ……!!」
ついに階段を上りきると、台風の目に入ったかのように風がぱたりと止み、雨が音を立てて踊り場に打ち付けられる音だけが響いていた。璃久が乱れた髪やずり落ちた眼鏡を気にも留めずに祠の方へ走ると、祠の横、木の下の土にミュオは、居た。
横たわっていた彼の顔は、髪が覆っていて見えない。動物の死に際のように丸くなっていることがまた璃久の不安を煽り、璃久は水音をたてて駆け寄った。
「ミュオ……? ミュオ……!」
「……さっきから私を呼びすぎじゃないかい」
ミュオが口元だけに笑みを浮かべて気だるげに言った。その声があまりにも弱々しかったもので、璃久は思わずしゃがみこんで手を伸ばし、ミュオの腕に触れた。しかしその手は彼の服をすり抜け、腕すらも触ることはできなかった。璃久は息を呑む。
彼には、実体がなかった。
しかし、何もないように感じるミュオの居る場所は、どうしてか暖かく感じた。
思えば璃久がミュオに触れたのはこれが初めてだったように思う。ミュオに触れられそうになったことはあるが、結局そのときは彼がやめてしまったのだ。
当たり前だ、彼は幽霊なのだから。
「ねえ、いつまでそうしているの?」
ミュオの頭が少し動いて、髪の隙間から灰色の眼が璃久を見据えたもので、璃久はやっと手を引っ込めた。その眼にいつものような表情はなく、冷たく無機質な色に璃久には見えた。
「で、君はどうしてここに来たのかな。生憎、一人になりたい気分なのだけど」
また頭が動いて、眼は見えなくなった。掠れた声には璃久を歓迎しないという負の色が乗っている。
「……僕と薫森さんの話を、聞いていたでしょう?」
「うん、ついでに御神体のこれも見つけてさ。全部思い出したよ」
彼が示した場所には、雨と土で汚れたボロボロの署名用紙が転がっていた。「田中璃久」という文字が雨に滲んでいる。璃久は顔を歪めた。
ミュオの全部思い出したという口調とは裏腹に、とても、良かったと言える雰囲気ではなかった。それに璃久も、そんな野暮なことは言わない。
その事実が、どうせなら思い出さない方が幸せだったかもしれないと言うことくらい、薫森から話を聞いたばかりの璃久にも分かっていた。
「記憶喪失になった理由も、思い出したよ。今日みたいに大雨を振らせた後、一度力尽きたんだ。祠を作ってもらって回復したけどさ」
「力、尽きた?」
「うん。寂しかったなあ、暗くて、一人で、痛いんだ」
迷子の子供のように怯えた声で言うミュオの表情は見るに堪えず、璃久まで胸が締め付けられた。寂しそうに笑ったミュオをどうしても助けたくて、璃久はずっと考えていたことを口にする。
「僕、ミュオに連れて行ってほしいって言ったでしょ。でも、それはもういいんだ」
「……私が、神じゃないから?」
「違うよ。……ミュオの辛さを長引かせたくないから」
ミュオは、この世にとどまるほどの強い思念を持ってしまった「地縛霊」だ。浮遊霊とは違い、この場所にとどまることしかできない。今までの、自身を神様だと思い込んでいたミュオならばこの世にとどまることもそう苦ではなかったのかもしれないが、今は彼の気持ちを一瞬で爆発させたほどに辛い事実と共に、永遠にこの地にとどまらなくてはならない。
「友達に、辛い思いしてほしくないでしょ」
雨の音に負けないように少し声を張って、璃久は言った。だから、と続ける。
「僕は君を成仏させたい」




