19僕
その日は穏やかな日だった。草木も青々と茂り、森の呼吸が聞こえるような、そんな日。小鳥も家に帰るころ、ミュオは階段の踊り場から街へ足を放って、璃久を待っていた。
普段ならばミュオは神らしくもったいぶって、璃久が彼を呼んでからやっと出てくるのだが、今日は気まぐれで先に出てきて待っている。背後から射す西日を存分に身体に受け、目下の住宅街を人々が時々歩いていくのを眺めながら待っていた。
そろそろ璃久が来るかな、という絶妙なタイミングで出てきたはずなのに。来ない。何分待っても、階段の下に影一つ現れない。誤差はあれど、学校の帰りにそのまま来ているのだ。大幅に時間がずれることも無いだろう。
「うーん、信者第二号の癖に遅いなぁ」
少し退屈で、ミュオは立ち上がって踊り場を歩き回り始めた。するとふと視線の先に、いつもそこにあるはずの祠が目に入った。普段から自分の拠点として使っているくせに、実はちゃんと見たことがない。近づいてしゃがみ込み、まじまじと観察する。
「そこらの犬さんの小屋よりも余程苔が生えておりますな」
軒には紙垂が下がっており、白さを保ってはいるが少し茶色くなっている。全体的に手入れが行き届いていない。
「全く、折角私という素晴らしい神がいるのに、これは酷いんじゃない?」
独り言を呟いてみても、返事をする者はいない。ミュオは頬を膨らませて、階段の下を見た。残念ながら上がってくる影もない。祠に視線を戻すと、小さな扉が付いていることに気が付いた。中には御神体が入っているのだろう。そういえば今まで何を御神体とされているのか知らなかったことに気が付き、驚くと同時に、意識すると唐突に知りたくなってしまった。ミュオの祠なのだからミュオが見たとしても誰も咎めないだろう。
「さてさて、人間たちは私をどんな姿だと思っているのかなー? まさか熱烈なファンがフィギュア作ってたりして……」
呟いたミュオが扉を開ける。すると中に入っていたのは、バインダーにまとめられた書類だった。
「なにこれ……紙? 神と紙でかけてるのかな」
ミュオは中身を取り出し、まじまじと見た。紙には長方形が並んでおり、その中にインクで名前が書いてあった。筆跡は様々で、色々な人にもらったのだと言うことが分かる。つまりは署名用紙だ。一番下には、擦れた字で「田中璃久」と書かれていた。
「璃久くん……?」
幼い字で書かれた彼の字を見た瞬間、ミュオは唐突に頭痛に襲われた。
頭の後ろを中心に、鋭い痛みが弱くなったり強くなったりする。突然のできごとに訳が分からぬまま、しだいに頭の中に断片的な映像が流れ込んでくる。
知らない顔、知らない景色。
知らないはずなのに何故か見覚えがあるような気がして、ますます訳が分からなかった。そして、何故だかその顔に喜怒哀楽している自分。ミュオ自身も、その顔に呆れられたり感心されたりしている。
知らない声、知らない思い出。
この場には何もないはずなのに、頭の中で光が瞬いていた。景色が何か思い出そうとするのに、どうしてか思い出したくないと感じ、矛盾に戸惑っているうちに光が消えていく。
そうこうしているうちに頭痛は収まり、知らぬ間にかいていた冷や汗でうなじがじっとりと濡れていることに気が付いた。
「……?」
ミュオが訳のわからない現象に眉間にしわを寄せていると、下へ続く階段の方から声がすることに気が付く。一つは聞きなれた璃久の声だった。心細くて、彼の声に集中する。
誰かと話しているようだ。その声は耳をすませば鮮明に聞こえてくる。
「……あの祠に祀られてる……ミュオの歴史を知りたいんだったな」
聞きなれない声が璃久に言う。公園の管理人だろうか。どうやらミュオの話をしているらしいことがわかった。なおさらミュオは耳をすませる。
「じゃあまず、知らなくちゃいけないことがある」
管理人がいやに感情を殺した声で告げる。
「あいつはな、神じゃない」
「……え?」
璃久の声とミュオの声が重なった。ミュオはまたつきりと頭が痛むのを感じた。
「あいつは、この公園の地縛霊だ」
痛みが、管理人の声を聞くたびに増していく。呼吸が、浅くなる。
「で、でも、僕を神隠しに遭わせられるって言ってた……」
「……残念だが、あいつに向こう側へ連れていかれても、お前の魂はあいつを置いていくだろうな。お前の魂を留める力は、ない」
管理人はミュオのことなど知らずに言葉をつづける。
「この公園は、元々周りの住民の許可なく工事が進められようとしていたものなんだ。それを止めようとして、ここであいつは死んだ」
ミュオの呼吸がさらに早くなる。脳に酸素が足りなくなって、頭に高い音が響いていた。その後にも二人がなにかを話していたが、もう聞きたくなくて耳を塞いだ。頭に鋭い痛みが走る。
「神じゃ……ない?」
疑問でミュオの頭が埋め尽くされた。そこでふと、足元に置いたままだったバインダーを見る。璃久の名前にすがるように、痛みから逃れたくて璃久の名前を指でなぞった。
「……!?」
その瞬間、先程までとは比べ物にならない痛みがミュオを襲った。その痛みは頭だけでなく、体中に巡る。体中を打ち付けたように、痛い。思わずミュオは踊り場に倒れこむ。呼吸が早くなる。
知ってる。この顔、この景色、この声。
頭の中に、沢山の映像が、断片的にではなく流れ込んできた。その映像も、先程とは違い理解ができる。同時に、彼の心が曇っていく。この公園ができる前のことが、五年より前の記憶がミュオの頭に濁流のように入ってくる。
これは、「ミュオ」が生まれる前の話。
そうして、痛みは嘘のように引いていった。空虚で空っぽだった彼の中には、人間であった頃の記憶が始めからそこにあったようにすっぽりと収まっていた。
「そうかあ……」
ミュオは、倒れたまま膝を抱えて、空を横目に呟く。
「"僕"は、神じゃなかった」
自嘲的に笑った彼の目元の雫は、きっと降り出した雨だろう。




