18真実
「え……?」
「、おい!」
振り返った友人が目を見開いて青年の名前を呼ぶ。山道は整備されておらず、柵もない。青年の飛び上がった先には、でこぼこした急な坂。その下にはまだ流れのはやい川が流れている。
青年の視界が反転する。
友人が駆けだすのが一瞬目に映った。しかしそれもすぐに見えなくなり、伸ばした右手から坂に叩きつけられる。追うように顔が地面に着いた。息が詰まるような鈍く大きな痛みが頬骨に走る。眼に舞い上がった土が入って、生理的な涙が溢れる。
青年の体は広大な自然の中で玩具のようにもてあそばれた。
彼の体は細い木々に打ち付けられながら坂をずり落ちていく。体の右側に飛び出た岩が強く当たれば、すぐに左側に小石が食い込む。回転し続ける視界に頭も働かず、何かを掴もうと藻掻けば、掴んだものごと滑り落ちる。彼のチェック柄のシャツが、灰色のズボンが湿った土で汚れ、元の色を失っていった。
友人は上から青年が落ちていく様を、目を見開いたまま見ることしかできなかった。何かしなくてはいけないと思うのに、足は止められない震えが走るばかりでびくともしない。思考も役に立たず、ただ早くなる呼吸を収めることすらできなかった。
あっという間に、先程まで当たり前のように隣を歩いていた青年は、湧水が合わさって白く泡立つ激流に飲み込まれていった。
「は……誰か、誰か」
カラカラに乾いた喉からやっと出たのは、掠れた小さな声。意志とは反して、震える足はしゃがみこむ。冷たく汗の滲んだ手で頭を抱え、友人は浅くなる呼吸音をただ聞いていた。
「警察……」
やっと思い至った、警察への連絡。ふらふらと立ち上がり、崖から離れて山道の真ん中でもう一度座り込む。震える手で鞄を開き、スマートフォンを開いた。汗ばむ手ではキーパッドが反応しなくて、不安に急かされながらズボンで手を拭く。
キーパッドから、イチ、という数字を探すのすら時間がかかって、見つけた瞬間二回押す。ゼロに指を移動する時間すら惜しかった。
「……山で、友人が……滑落しました」
すぐに繋がった電話から聞こえる、落ち着いた声に少しだけ安心しながら、友人は場所と連絡先を伝える。彼は、やっと収まってきた呼吸と、遅れて勝手にあふれて来た涙を呆然と感じていた。
その後、到着した警察や救助隊と落ち合ってまた崖まで戻ると、彼は後日に事情聴取をすると伝えられ、家に帰った。どうやってアパートまでたどり着いたのかは覚えていなかった。ただ、脳内をずっと今までの出来事が回っていた。アパートに帰っても何もする気が起きず、何を見ても頭が青年と結びつけてしまって落ち着けなかった。
そして、その日は大雨が降った。
全てを流そうとするような、記録的な大雨だった。守ろうとした自然に牙をむかれた青年の、無念が爆発したようにも思えた。しかし、何故か街の川は氾濫せず、死人も出なかったらしい。
友人は呆然と小さなテレビの中の、洗い流される街を見ていた。人々が傘を短く持って俯きながら歩いていくのを見ても、不思議と何の感情も浮かんでこない。アパートの薄い壁を叩く雨の音を別世界の物のように聞きながら、抜け殻みたいに座り込んでいた。
その一週間後、青年は捜査が区切られ行方不明者となった。
落ちた先が川へ続いていたこともあり、青年の捜索は困難だったらしい。捜査が区切られた後も友人は探そうとしたが、プロを動かせるほどの所持金も無ければ、青年の親は彼が高校生の際に亡くなっていた。
結局できたことと言えば彼の落ちた水流のつながった川をほとりから眺めることくらいだった。何かないかと、流れてくる木の葉一つにも一喜一憂して。
実際は、水に落ちていく際に突き出ていた岩々に命を既に奪われていたのかもしれなかった。
それから月日は流れ、公園の工事は終わった。あっけないほどにあっさりと、その公園は姿を現した。署名用紙は友人が持っていたのだが、その後も署名を行う気持ちにどうしてもなれず、塵は積もらず意味をなさないものとなった。彼の部屋には、机の上に戒めのように置かれたバインダーがいつまでも友人をもの言いたげに見ているのだ。
だから友人は、できたばかりの公園の無機質な階段の踊り場の横に、祠を作った。その中に、バインダーごと署名用紙を入れたのだった。
そこの山の所有者に相談もせず、勝手に組み立てて勝手に設置したその祠は、山の端の方にあるからか誰からも撤去されなかった。祠と言うのは神様だけでなく、霊も祀ることができるらしいと知ったのは、そのときだった。
それから友人——薫森はその祠の神様に、ミュオソティスという名前を付けた。




