17下山
青年と友人は、住宅街のある丘から離れ、帰るために件の山を歩いていた。間引きされていない木々が自由に生えている中、人々に長年踏まれ続けて道となった土の上を、小気味いい音を立てて進んでいく。
下り道は山を少し回るようにらせん状に続いており、下を見れば、崖のように急な坂の下にさらに道がのびていた。街を流れる川の元である細い急流が、くねる山道の外側に沿って流れていた。
青年はふと璃久にもらった署名を見て、気が付けば指でなぞっていた。彼の真摯な瞳を思い出す。幼い彼の、濃く書かれた文字が、大人たちが書いた興味なさげな走り書きよりも余程魅力的に見えた。
青年が紙から指を離すと、乾ききっていないインクが擦れて、細くグラデーションを作っていた。やっと青年はハッとして、急いでポケットティッシュを取り出し擦れた部分を拭く。しかし擦れた部分のインクは既に乾いていて、意味がなかった。
「……なにやってんだ」
立ち止まった青年に、前を歩いていた友人が一歩先で振り向く。木漏れ日が彼の顔に網目模様を落とす。
「璃久くんの文字が、擦れちゃって」
「あぁ……まぁ名前が読めるなら大丈夫だろ」
そう言いつつも友人は青年の方へ戻り、署名用紙の挟まったバインダーを受け取って文字を見た。名前の下側が少し擦れている。
「これぐらいなら平気だろ」
「でもさ、これで『王ク』とかになったら誰かわからなくない?」
「それはそれで伝説のキャラみたいでかっこいいだろ。『覇王・ク』とか」
「名前一文字じゃん」
青年は破顔する。友人もくすりと笑って、続けた。
「ま、気になるようならアパート帰って修正液で消そうぜ」
「そうだね……あ、でも修正液って使っていいのかな」
「じゃあそれも帰って調べよう」
友人はバインダーを持ったまま歩き出し、青年も一歩後からそれに続いた。中盤ほどになってきた署名活動を思い返しながら、さわやかな風が吹く山道を歩く。土の匂いと水の音が混ざり合った道は、歩いていると夏の真っ只中にいることを忘れそうになった。
都市部の人たちが流したであろう噂は、信じている人もいれば青年たちを見て考えを変える人もいた。しかし、元々興味のない人たちに署名をもらうことですら大変なのだ。その上の妨害は着実に彼らの心を疲弊させていった。
そんな、情熱を失いかけたときに見た、眩い光。
璃久という男子は、幼いながらに自身の眼で見て物事を判断しているように思えた。親から噂を聞いていないはずがないのに、彼自身の眼で見たものを信じようとしてくれたのだ。その結果彼は熱烈に署名を希望し、青年を心から応援してくれた。
それが、やりきれないほどに嬉しかった。
そこまで思考してふと前を見ると、体力のある友人は足が速く、考え事をしながら歩いていたせいか間が開いてしまっていた。青年は駆け足で友人の方へ向かう。
「あっ」
踏み出して地から離れようとした青年の足が、木の根に引っかかる。気分が上がっていたせいでかなりの全力をだして走ろうとしていたため、青年の体はふわりと浮いた。頭よりも背中が高く上がっているとぼんやり感じる。
そして次の瞬間。勢いよく地面に叩きつけられ、なかった。
咄嗟に地面につこうと伸ばした手は空に吸い込まれる。
「え……?」




