第9章 ちょっと冷静になろうか
「あの告白、やっぱナシで」
17時すぎ。俺は寺沢真帆の言葉を聞いて、しばらく意味が理解できなかった。
「……え?」
「だから」
真帆は、いつものまま。
「あのときの告白、ナシにして」
「……」
俺は固まった。
頭の中では、先日の真帆の言葉が何度も蘇っている。
――ねぇ、私たち、付き合わない?
あのとき。
俺は、すぐに答えを出さなかった。
でも。
断るつもりはなかった。
真帆といる時間は楽しい。
話していて気を遣わない。
一緒にご飯食べたり。
くだらない話をしたり。
真帆の部屋で、だらだら過ごしたり。
そういう時間が、俺は好きだった。
だから。
もし真帆と付き合うことになったら。
今までより少しだけ近くなって。
今までより少しだけ、一緒にいる時間が増えて。
それはそれで、楽しいんだろうな。
そんな風に考えていた。
それなのに。
「……なんで?」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
「んー……」
少し思案して。
「なんとなく?」
「なんとなくって……」
「うん。なんとなく」
真帆は笑顔を崩さない。
「ちょっと、冷静になろうかなって」
「……」
「ほら。私、勢いで言っちゃったところもあったし」
嘘だ。
少なくとも、俺にはそう見えた。
あの夜の真帆は、勢いだけで告白したようには見えなかった。
だから、余計に、わからなかった。
「俺は……」
言いかけて、止まる。
手を上げ、止められた。
断るつもりなんてない。
そう言いたかった。
俺も真帆のことを――。
そこまで考えて、言葉を飲み込んだ。
今、それを言ったら。
真帆は、どうするんだろう。
わからない。
「……ごめん」
真帆が小さく言った。
「葵が悪いわけじゃないから」
「真帆」
「本当に」
いつもの表情で、口調で、断固たる態度。
「私が勝手に告白して、勝手に取り消してるだけだから」
「……それ、余計わからないんだけど」
「うん。実は私も、よくわかってない」
「じゃあ、なんで……」
「でもね」
真帆は、少しだけ窓の外を見る。
「ちょっと冷静になって、考えたんだよね」
「なにを?」
「私と葵のこと」
夏の気配を含んだ風が、窓から入ってくる。
真帆の髪が、ふわりと揺れた。
「葵といるの、楽しい」
「……うん」
「連絡が来ると嬉しいし」
「うん」
「一緒にご飯食べたり、遊びに行ったりするのも楽しい」
「……うん」
「だから、もっと近くにいたいって思った」
真帆はそこで一度、言葉を切った。
「でもさ」
「うん」
「恵先輩いるじゃん」
「……」
「それに、知佳もいる」
胸の中で、何かがざわついた。
「2人と、すごい仲いいし」
「いや、それは……」
「違わないでしょ?」
恵先輩。
知佳。
2人との時間を思い出す。
俺自身がどう思っているのか。
真帆の言葉を完全に否定できないのは、そうか。
「だからね」
真帆が笑った。
「私、3番手なんじゃ……って思っちゃった」
「……3番手?」
「うん」
「いや、そんな順位つけたことないぞ」
「わかってるよ」
真帆は苦笑した。
「葵が順位つけてるなんて思ってない」
「じゃあ……」
「私が勝手に思っただけ」
「……」
「わかってるけど、私、こういうの経験ないから」
「……」
「恋愛とか、まともに経験してきてないからさ」
そう言って、真帆は肩をすくめる。
「恵先輩は大人だし、綺麗だし。知佳も、なんだかんだ可愛いし」
「……」
「私は、勢いで告白しただけだから」
「そんなこと……」
「あるよ」
今度は、真帆の声が少しだけ優しかった。
「だから、ちょっと冷静になろうかなって」
「……」
「私、葵のこと好きだよ」
俺は顔を上げた。
「だからこそ、今のままは違うかなって思ったんだよね」
「真帆……」
「だってさ」
俺を見て。
「せっかく好きになったんだから、幸せな気持ちでいたいじゃん」
「……」
「葵と付き合えたら嬉しいと思う」
「うん」
「たぶん、すごく嬉しい」
「……ああ」
「でも、そのあとずっと不安になるのは嫌かな」
真帆は少しだけ目を伏せた。
「葵が恵先輩と話してるの見て、知佳と話してるの見て」
少し、表情が曇る。
「私より、あっちの方がいいんじゃないかなって考え続けるの、たぶん無理」
「……」
「だから」
ほんの少しの笑顔をつくって。
「あの告白はナシ」
「……本気でか?」
「うん」
胸が、少し痛くなった。
自分の気持ちを、自分で少しずつ整理していた。
……
「後悔しないのか?」
「すると思うよ」
「するのかよ」
「そりゃするよ」
真帆は笑った。
「だって、好きなんだから」
「……」
「でも、それでいいの」
「私、葵と付き合う夢を見られただけでも、結構幸せだったんだ」
「夢?」
「うん」
「……」
「もし付き合ったら、どんな感じかなって」
真帆は楽しそうに話す。
「一緒に買い物行ったり、ご飯食べたり」
「うん」
「葵の部屋でゲームしたり」
「俺、ゲームそんなにしないぞ」
「じゃあ、動画見る」
「それも俺、あんまり……」
「じゃあ、何もしない」
「何もしないのかよ」
「うん」
真帆は笑った。
「一緒にいて、何もしない」
その笑顔は、少しだけ寂しそうだった。
「それだけでも、たぶん楽しいから」
「……」
「そういうの、想像してた」
真帆は一度だけ、目を閉じた。
「今が楽しくて、ちょっと欲張っちゃった」
目を上げる。
「だから、今はこのままでいいの」
俺は何も言えなかった。
やがて。
「……わかった」
「うん」
真帆は頷いて。
「じゃあ、これからも普通に友達ね」
「普通じゃないよ、真帆とは」
「それでいいよ」
その顔を見て。
俺は、少しだけ安心した。
けれど。
同時に実感する。
俺が思っていた以上に、真帆は俺のことを好きでいてくれたということ。
そして……俺も、真帆のこと。
「葵くん」
ototteが使っている講義室に入ると、恵先輩が声をかけてきた。
「はい?」
「ちょっと意見がほしいんだけど」
「なんです?」
「この前の曲のBメロ」
恵先輩がスマホを差し出してくる。
「ベースライン、ちょっと弄ってみたんだけど」
「ほうほう」
俺は画面を覗き込んだ。
「結構グリグリ動くんですね」
「そうなの」
「先輩、こういうの好きそう」
「わかる?」
「5弦ガンガン鳴らせますしね」
「そう、そうなの」
恵先輩が笑う。
距離が近い。
スマホを一緒に見ているせいで、肩が触れて、美しい顔が目の前に。
少し目線を動かせば、美しい恵先輩がすぐそこにいる。
「ここもちょっと悩んだんだよね」
「あぁ、サビ前はあんま前出ない方がバランスいいかもですね」
「なるほど、やっぱそうか」
恵先輩はベースを手に取った。
「じゃあ、ちょっとやってみるね」
軽く弦を鳴らす。
低く、柔らかな音がサークル室に響いた。
「どう?」
「いいと思いますよ」
「葵くんがそう言うなら、これでいこうかな」
「俺の意見だけで決めていいんですか?」
「いいよ」
恵先輩はさらっと答える。
「そのつもりで意見聞いたから」
「光栄だけど、プレッシャーですね」
「別に思った通りでいいんだよ。結局、決めるのは私なんだし」
「まぁ、それはそうですけど…」
少し、間があって。
「葵くん」
「はい?」
「また、楽器屋付き合ってほしいんだけど」
「え?」
「ちょっと見たいものあって。美月は週末バイトだし、1人はちょっと寂しいし」
「そうですか。…まぁ、楽器屋だったらいくらでも」
「付き合ってくれる?」
「もちろんです」
「なら、また行こう」
真帆の言葉を思い出す。
俺は。
この人のことを、どう思っているんだろう。
それから数日。
7月後半。
大学は、急に慌ただしくなった。
理由は単純。
試験だ。
「終わった……」
4限終了時。
亘一が机に突っ伏していた。
「まだ初日だぞ」
「その1日で俺は死んだんだよ」
「お前、昨日勉強した?」
「した」
「何時間?」
「1時間」
「何やった?」
「過去問見て、答え覚えた」
「それは勉強とは言わない」
「厳しい意見ありがとう」
向かいでは沙耶が水を飲んでいる。
「沙耶はどんな感じ?」
「私は大丈夫。昨日4時間やったから」
亘一が遠い目をする。
「俺の1週間分じゃん」
「それでよく試験受けようと思ったね」
隣では知佳が黙々とノートを見ている。
「知佳」
「なに?」
「文化人類学、この辺が出るらしいって」
「どこ?」
「ここ、前の講義のとこ。印刷された問題用紙の目撃談が…」
「……ここ?」
「そう」
「ありがとう。押さえとく。」
「どういたしまして」
すると、知佳はカバンから基礎数学の資料を取り出す。
「葵」
「ん?」
「これ、わかる?」
「どれ?」
俺はノートを覗き込んだ。
「あぁ。…ここはこう」
「……ああ」
「ほら」
「なるほど」
「数学系なら任せろ」
「そうだったね」
知佳が笑う。
その横で亘一が呟いた。
「なんか2人、いつの間にか普通に仲いいよな」
「そう?」
「そうだよ」
「まあ、サークルでも毎日会ってるしな」
「……うん」
知佳は小さく頷いた。
…それから2週間。
永遠に続くかと思われた試験期間が、今、終わった。
「終わったー!」
亘一が叫ぶ。
「夏休みだ!」
「お前、結果大丈夫なの?」
「知らん!」
「威張るな」
「夏休みが来たことが重要なんだよ!」
沙耶が後ろから声をかける。
「2人とも元気だねぇ」
「沙耶も嬉しいだろ?」
「まあね」
キャンパスの空気も、どこか軽くなっている気がした。
これから長い夏休みが始まる。
「サークルで夏休み何かイベントあるの?」
沙耶が知佳と俺に言う。
「合宿行くよ」
「合宿?」
「言わなかったか?」
「聞いてない」
「来週だよ」
「マジで?」
「マジ」
亘一が割り込んでくる。
「河口湖の民宿らしい」
「河口湖?」
「うん。楽器持って行って、朝から朝まで練習したり、地元の公民館で演奏したり」
「それ、寝てないじゃん」
「まぁ、合宿だし」
「お、おう、合宿!って感じだな」
「湖畔でテント張って、釣りしたり、飯盒炊爨したり」
「なんだそれ?メチャクチャ楽しそうじゃねーか!」
「だろ?俺もそう思う」
その少し後ろ。
知佳がこちらを見ていた。
「知佳も」
「…なに?」
「合宿、もちろん来るよな」
「うん。行くよ」
「知佳も河口湖行くのは初めて?」
「うん」
「キャンプとか飯盒炊爨とかも?」
「うん。…茉優とピクニックなら何回か行ったけど」
知佳は控えめに言う。
「本当なら小学校で野外学習ってあるはずだったけど、中止になっちゃって」
「ああ、それはしょうがないな」
「茉優も行きたいって言ってた」
「マジで来ればいいのに。誰も不幸にならないし」
「…ちょっと、待って」
沙耶がなにやら見覚えのある反応をしている。
「えっと…マユって、誰?」
「知佳の妹。高校2年生」
「え、なに?知佳の妹?会ったことあるの?」
「5月のオープンキャンパスに来てて、俺が案内したんだ」
「その後ウチに泊まった」
沙耶の様子が更におかしくなる。
なにやら悩まし気な表情かと思ったら、大声で
「…呼んでよ!」
「え?」
「知佳の妹とか、超会いたいじゃん!」
「そうだ!」
なぜか亘一が力強く同意する。
「知佳ちゃんの妹の現役JKとか、超会いてぇ!」
「あんたはかなり不純だ」
「沙耶とは相性いいかもしれんぞ。ノリが」
「へ、そうなの?」
「初対面の俺が『葵くん』で」
「ん?」
「今度は個人的に遊びに来るから、かまってって」
「……うーん…その子は知佳とどういったご関係?」
「だから姉妹だ」
「うーん…やっぱりいっぺん会ってみたい」
「俺も俺も!」
知佳がとても困った顔をしているので、この話は終わらせるか。
「まあ、そのうち紹介するよ」
「本当?」
沙耶が食いついてくる。
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「いや、知佳に聞かないとわからないし」
俺が知佳を見る。
「……」
知佳は、少し考えてから。
「……茉優に聞いてみる」
「よし!」
沙耶が小さくガッツポーズをした。
「楽しみ!」
「何をそんなに楽しみにしてるんだよ」
「だって、知佳の妹でしょ?」
「それが?」
「知佳の妹なら、絶対面白いじゃん」
「その理屈はよくわからない」
「私もよくわからない」
知佳が真顔で言った。
「普通の高校生だよ」
「普通かどうかはやや疑問だが…」
「え?」
すると亘一も隣で、
「俺も楽しみだ」
「お前は黙ってろ」
「なんでだよ」
「さっきの発言が不純だったから」
「いや、妹で、現役JKだぞ?」
「だからそれをやめろ」
…というわけで、次に茉優ちゃんが来るときは一応連絡してやるか。
少なくとも沙耶には。
「恵先輩」
サークル開始前。
「合宿なんですけど」
「うん?」
「何持ってけばいいんです?」
「えーと…楽器と、消耗品と、身の回りのもの、あと気になる楽譜とか」
「楽譜?」
「夜中までってか朝まででも練習室使えるから、遊び半分で合わせたりもできるよ」
なんて楽しそうな話なんだ。
「恵先輩、気が向いたら付き合ってくださいよ」
「私たちには美月というドラマーもいるから、セッション絶対楽しいだろうね」
「最高ですね」
ぜひ知佳にも参加してもらおう。
キーボードがいると音楽の幅がグッと広がる。
「…あ、あと、1年生は知らないと思うけど…」
「はぁ…」
「初日の夕食は、湖畔でバーベキューだよ」
「なんですと」
「魚が釣れたら塩焼きにしたりできるよ」
「なんて素敵」
「1日中楽器弾けるし、湖で遊べるし、毎晩宴会するし…1週間、ずっと寝不足だよ」
「ザ・合宿って感じですね」
大学の夏休みは、想像していたより長い。
実質2か月くらい講義が無い。
帰省したり、バイトを入れたり、意外と友人と会えない期間だったりする。
毎日が楽しくなってきた俺には、ちょっと寂しい時間だ。
…だが、少なくとも来週には河口湖に行く。
楽器を持って、仲間と一緒に。
その中には恵先輩がいて、知佳がいて。
真帆も美月先輩も、同級生も先輩もいる。
いっぱい音楽をして、きっといっぱい遊ぶ。
俺たちの初めての夏は。
きっと忙しくて、楽しい時間になりそうだ。




