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第8章 なんか怖そうな同級生と渋谷で日曜日

「東京の楽器屋って、やっぱり違うのかな」

 講義が終わったあと。

 葵が、そんなことを言い出した。

「横浜にも楽器屋あるでしょ」

 私が言うと、葵は頷いた。

「あるけど、渋谷とか新宿のほうに行くと、品揃えが違うらしいんだよ」

「そんな違うもの?」

「うん。ギターとかベースだけじゃなくて、楽譜もいっぱいあるし。エフェクターとかも、横浜じゃ見たことないやつが置いてあるらしい」

「へぇ…」

「だから、一回行ってみたいんだよな。大きい店」

「……そう」

 それだけの会話だった。

 なのに。

 私はなぜか、葵の言葉を何度も思い出していた。

 渋谷。

 新宿。

 大きな楽器店。

 いろんな楽器。

 たくさんの楽譜。

 考えていると、胸が弾む。

 それは、とても魅力的だ。

     

「美月先輩」

「ん?」

 その日のサークル活動中、美月先輩に聞いてみた。

「東京の楽器屋に行ったりします?」

「東京の?」

「渋谷とか新宿の大きいとこ」

「ああ」

 美月先輩は少し考えた。

「大きい店、けっこうあるね」

「横浜より?」

「品揃えを見たいなら、行ってみる価値あるかもね」

「楽譜とかも?」

「うん。楽譜なら専門店もあるし、エフェクターとか機材も選択肢は多いと思う」

「そうなんだ……」

「どうしたの? 急に」

「葵が行きたいって言ってたんです」

「ふぅん」

「…?」

「そんな遠くないし、行ってみればいいじゃん」

「はい、そうですね」

     

 その日の夜。

 夕食を終えた頃、スマホが鳴った。

「姉ちゃん、今大丈夫?」

 茉優だった。

「暇だけど」

「じゃあ、ちょっと話そ」

「どうしたの?」

「なんとなく」

 茉優は、いつもこんな感じだ。

「最近、大学どう?」

「特に事件は無いよ。普通」

「友達できた?」

「……まぁ、学科もサークルもあるし」

「男の子は?」

「まぁ、いるよ」

「へえ」

 茉優の声が、少しだけ弾んだ。

「葵くんとか?」

「うん。今日もお昼一緒だったよ」

「何の話したの?」

「楽器屋の話とか」

「楽器屋?」

「東京の大きい店に行きたいって」

「へえ…」

 少しだけ沈黙。

「だったらさ」

「何?」

「せっかく近いんだし、渋谷とか行けばいいじゃん」

「……」

「東京の大きい楽器屋見て、古着屋とかセレクトショップとか見て」

「服屋行くの?」

「うん」

「私、そんなに服見ないけど」

「だから行くんだよ」

「何で?」

「女子大生で東京に遊びに行くならオシャレご飯と服でしょ!」

「いや、ちょっとよくわかんない」

「せっかく都会近いんだから休日キラキラしようよ」

「え、と……まぁ言いたいことはわかった」

「週末だし、葵くんとでも行ってくれば?」

「…なんで葵?」

「楽器屋でおもっきり一緒に楽しめるじゃん?」

「…まぁ、そうだけど」

「そのあとご飯食べたり、ショップ回ったりしてさ」

「……」

「服、選んでもらったり」

「……」

「絶対楽しそうじゃん」

 ――それは。

「……んー」

 私はベッドに寝転がった。

 天井を見上げる。

 うーん…そんな休日も…

「それもいいかも」

「でしょ?」

「うん」

「じゃあ誘えば?」

「……」

 そこで、私は黙った。

 自分から誘う。

 それを考えると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。

「姉ちゃん?」

「なに?」

「葵くんと行くの、嫌?」

「別に嫌じゃないよ」

「じゃあ、いいじゃん」

「……そうだけど」

「姉ちゃんって、ほんと難しく考えるよね」

「茉優にはわからないよ」

「うん、わからない」

 茉優は

「でも、姉ちゃん葵くんと一緒、楽しそうだったし」

「……」

「じゃ、頑張って」

「何を?」

「おやすみ」

「ちょっと、茉優――」

 通話が切れた。

「……もう」

 私はスマホを見つめた。

     

 その頃。

 別の場所で、茉優はもう一つの行動に出ていた。

 スマホに登録された連絡先。

 そこにある名前。

 ――如月葵。

 オープンキャンパスの日交換した連絡先。

『葵くん、今大丈夫です?』

 しばらくして返信が来る。

『大丈夫だよ。ちょっと久しぶりだね』

『なんか、姉ちゃん、最近大学と家の往復ばっかりみたいで』

『そうなの?』

『ほっとくと腐りそうなんで』

『それは良くないな』

『だから葵くん、今度渋谷あたり誘ってあげてくださいよ』

『俺が?』

『葵くんなら楽器屋で一緒に遊べるでしょ』

『それはまぁ、そうだね』

『ついでに服とか見てあげてくださいよ』

『俺、服なんて全然詳しくないぞ』

『見てあげることが大事なんで』

『そんなものか?』

『そんなものです』

 少し間があって。

『うーん…じゃぁ一応誘ってはみるよ。どうなるかわからないけど』

『はい、姉ちゃんをよろしく!』

    

 スマホが鳴った。

『日曜、新宿と渋谷の楽器屋行こうと思ってるんだけど、一緒に行かない?』

 思わず画面を見つめた。

 誘おうか悩んでいたら。

 先に誘われてしまった。

 ……

『行ってみたいかも』

 返信。

『じゃあ一緒に行こう』

『うん。行く』

 短いやり取り。

 それだけのことだけど、少しだけ落ち着かなかった。

   

 そして、ある日曜日。

 午前10時の中央林間。

「おはよ」

「おはよう」

 待ち合わせ場所で会った知佳は、いつもと少しだけ違って見えた。

 黒を基調とした服。

 長い黒髪。

 相変わらず、少し鋭い目。

 ぱっと見ただけなら、やっぱり――。

 なんか怖そう。

「今日は服もちょっと見たい」

 開口一番、知佳が言う。

「もちろんいいぞ。せっかくだし」

「楽器屋と」

「そっちが本命だろ」

「……うん」

 少しだけ笑顔。

 気のせいか、今日の知佳は、いつもより少し楽しそうだ。

     

 最初に向かったのは、大型の楽器店だった。

 ギターやベース。

 アンプ。

 エフェクター。

 そして、壁一面の楽譜。

「すごい……」

 知佳が立ち止まる。

「だろ?」

「横浜にも楽器屋はあるけど……」

「大型店はやっぱり違うな」

「うん」

 2人で店内を見て回る。


 楽譜売り場で、知佳が何冊か手に取った。

「これ、昔弾いたことある」

「へえ」

「中学生の頃」

「また弾けばいいじゃん」

「……そうだね」

 知佳は楽譜を見つめた。

 この子、本当に音楽好きなんだな。再認識。

     

 13時ごろ、楽器屋を出た。

 俺たちは駅から少し離れた路地にあるビストロに入った。

 大通りから一本外れただけなのに、店内は思ったより静かだった。

 木目のテーブルに、壁に並んだワインのボトル。

 厨房の方からは、肉を焼いた香ばしい匂いが漂ってくる。

「ここ、ローストビーフが売りだって」

「へえ」

「……私、これにする」

 知佳が指差したのは、ローストビーフランチだった。

「じゃあ、俺は……」

 メニューを眺めていると、牛頬肉の赤ワイン煮が目に入った。

「これ」

「うん。美味そう」

 …15分ほどで、料理が運ばれてきた。

 俺の前には、赤ワイン色の濃厚なソースに包まれた牛頬肉。

 ナイフを入れると、ほとんど力を入れていないのに肉がほろりと崩れた。

「うわ……」

 思わず声が出る。

 向かいの知佳の前には、薄く切られたローストビーフが綺麗に並んでいた。

「……美味しそう」

「そっちも」

「うん」

「じゃあ、食べようか」

「うん」

 まず俺は牛頬肉を1口食べた。

 柔らかい。

「ここ、かなり当たりかも」

 知佳が俺の皿を見る。

 そして、自分の皿を見る。

 また俺の皿を見る。

「……」

「ん?」

「……葵」

「なに?」

「それ……」

 知佳の視線が、牛頬肉に向いている。

「ああ」

 俺はすぐに気づいた。

「食べてみる?」

「……いい?」

「どうぞ」

 そう言ってから、俺は肉を一口分に切った。

 フォークに乗せる。

 そして――。

 知佳の皿の端に置こうとして。

「……」

 手が止まった。

 なんだろう。

 急に、変な感じがした。

 いつも大学で話している知佳なのに。

 今日は二人きりで出かけている。

 その知佳の皿に、自分のフォークで切った肉を置く。

 それだけなのに。

 妙に意識してしまう。

「……どうしたの?」

「いや」

 俺は肉を知佳の皿へそっと置いた。

「どうぞ」

「……ありがとう」

 知佳はフォークを持った。

 けれど、すぐには食べない。

 一度だけ俺を見る。

 目が合った。

「……」

「……」

 なぜか2人とも黙ってしまった。

 先に目を逸らしたのは知佳だった。

「いただきます」

 小さな声で言ってから、牛頬肉を口に運ぶ。

「……」

 ゆっくり噛んで。

「美味しい」

「だろ?」

「うん」

 知佳は少しだけ笑った。

 その笑顔を見ていると、さっきまで感じていた妙な緊張も少し消えた。

「じゃあ、今度はこっち」

 知佳が、自分のローストビーフを1枚取った。

「え?」

「交換」

「……ああ」

 知佳のフォークの先に、ローストビーフが乗っている。

 そっと俺の皿に置く。

「……どうぞ」

「ありがとう」

 俺はローストビーフを食べた。

「うん。美味い」

「……よかった」

 知佳が水を一口飲む。

 俺もつられてグラスを持つ。

 目が合った。

 今度は、2人とも笑った。

「……なんか」

「ん?」

「こういうの、ちょっと恥ずかしいね」

「……まあ」

 俺も笑う。

 窓の外では、渋谷の街を人が行き交っている。

 店内には、食器の触れ合う小さな音。

 そんな静かな昼の時間の中で。

 俺たちは、少しだけ照れながら。

 それぞれの料理を食べていた。


「次、服とか見る?」

「うん」

 知佳が頷く。

 俺たちは古着屋へ向かった。

 そこからは、完全に予定外だった。

 古着屋。

 セレクトショップ。

 小さな雑貨店。

 気になる店があれば立ち寄る。

「これ、どう思う?」

 知佳が一着の服を手に取った。

「いいと思うよ。知佳のイメージに合ってる」

「じゃあ……買おうかな」

「俺が選んだみたいになってるけど」

「葵が似合うって言ったから」

「責任重大だな」

「そうだね」

 知佳が笑った。

 その笑顔を見て。

 俺も、なんとなく嬉しくなった。

     

 夕方。

 2人でカフェに入った。

 窓際の席。

 渋谷の街を眺めながら、知佳がアイスティーを飲んでいる。

「今日は楽しかったよ」

 俺が言うと。

「うん」

 知佳は即答した。

「私も楽しかったよ」

「それはよかった」

 そして。

「葵」

「ん?」

「私、中学の頃ね」

 知佳が、静かに話し始めた。

「真由美っていう友達がいたの」

 いつも一緒だった。

 休み時間も。

 昼休みも。

 帰り道も。

 何でも話せる友達だった。

 何でも話して、何でも笑いあってた。

「でね、真由美には好きな男の子がいたの」

「うん」

「告白しようか、どうしようかって相談もされて」

「うん」

「でも、ある時にその男の子に呼び出されて、私を好きって」

「……」

「…私は何もしてないの」

「うん」

「本当に何も」

 それでも。

 彼は知佳に話しかけるようになった。

 帰り道で待っていることもあった。

 そのたびに、真由美の表情が変わった。

「最初は大丈夫だったの」

 でも。

 少しずつ。

 真由美が離れていった。

 話しかけてこなくなった。

 一緒に帰らなくなった。

 メッセージを送っても、返事が来なくなった。

「喧嘩したわけじゃない」

 知佳はグラスを見つめた。

「だから、どうしていいかわからなかった」

「……」

「私が何かしたのかなって」

「知佳は何もしてないんだろ?」

「うん」

「じゃあ」

「それでも、友達じゃなくなった」

 静かな声だった。

「それが辛くて、男の人が怖くなって」

 誰かと仲良くなる。誰かと近づく。

 それだけで、何かが壊れる。

「高校は女子校だったから、平和だったの」

「男子がいなければ、そういうことも起きないから?」

「うん」

 知佳は少し笑った。

「自分を抑えていれば、何も起きないって」

 高校でも。

 大学に入ってからも。

 しばらくは、それを続けていた。

「でも」

 知佳が言葉を続ける。

「沙耶が話しかけてくれて、亘一くんとも仲良くなって」

「いつメンだな」

「ototte行くと、恵先輩や美月先輩が優しくしてくれて」

「うん」

「真帆も」

「真帆は、最初からあんな感じだよな」

 そして。


「葵といるのも、好きだよ」


「……」

 俺は返事ができなかった。

 知佳自身も、言ってから驚いたようだった。

「葵って、変に考えなくていいから」

「何を?」

「どう思われるとか」

 知佳は窓の外を見る。

「嫌われないかなとか。変に思われないかなとか」

「うん」

「そういうの、あまり考えなくていいから」

 前に、恵先輩にも同じようなこと言われた気がする。

 俺は少し考えてから言った。

「俺も、知佳といるの楽だよ」

「……本当?」

「うん」

 知佳の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

     

 カフェを出る。

 夕方の渋谷は、人でいっぱいだった。

 知佳は隣を歩く俺に合わせて、ゆっくり歩いている。

「そろそろ帰る?」

「……うん」 

 駅へ向かう。

 今日1日を思い返す。

 楽器を見て。

 楽譜を見て。

 エフェクターを見て。

 服を見て。

 古着屋を回って。

 カフェで話して。

 思った以上に、楽しかった。

 いや。

 楽しかったというより。

 ――帰りたくない。

 そう思っていた。


 駅が近づく。

「じゃあ、また大学で、だな」

「うん」

 葵が歩き出す。

 私は、その背中を見た。

 昔なら。

 ここで何も言わなかった。

 帰りたくても。

 もっと一緒にいたくても。

 自分の気持ちを抑えていた。

 そうすれば、何も起きない。

 何も壊れない。

 ずっと、そう思っていた。

 でも。

「……葵」

 気がつけば、手が伸びていた。

 葵の袖を掴む。

「知佳?」

 振り返った葵と目が合う。

 心臓が、大きく鳴った。

 怖い。

 少しだけ。

「……もう少し、一緒にいよう」

 言ってしまった。

 顔が熱い。

 葵の顔をまともに見られない。

 それでも、袖をつかんだ手は離さなかった。

 葵は少し驚いた顔をしていた。

 それから。

「うん」

 笑った。

 葵は、私の歩幅に合わせるように隣に戻ってきた。

「じゃあ、少し歩くか」

「うん」

 私たちは駅前の人混みを離れ、ゆっくりと歩き始めた。

 袖をつかんでいた手を、いつ離せばいいのかはわからなかった。

 駅とは反対方向へ。

 今日1日が、まだ終わらない。


 誰かと仲良くなることが怖かった。

 近づけば、いつか離れてしまうかもしれない。

 自分の気持ちが、誰かを困らせてしまうかもしれない。

 ずっと、そう思っていた。

 でも。

 今は、もう少しだけ近くにいたい。

 そう思う自分の気持ちを、大切にしてみたかった。

 

「……葵」

「ん?」

「今日は、楽しかった」

「俺も」

「また行こう」

「うん。また行こう」

 たぶん私は。

 この人と一緒にいる時間を、もう少しだけ大切にしたいと思い始めていた。



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