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第7章 俺、こんな綺麗な人と一緒に歩いてるよ

 ある土曜日。


 俺は少し緊張しながら、横浜駅にいた。

 待ち合わせの時間まで、あと10分。

 スマホを確認する。

 まだ来ていない。

 もう一度確認する。

 やっぱり来ていない。

 ……落ち着かない。

 今日は――恵先輩と2人で出かける。

 それだけなのに、いつもの大学へ行くときとは違って、妙にそわそわしていた。

「お待たせ、葵くん」

 横から声をかけられて、振り返る。

「……」

 思わず、言葉が止まった。

「どうしたの?」

 恵先輩が首を傾げる。

 いつもの大学で見る姿とは、少し違っていた。

 淡い色のブラウス。

 膝丈のスカート。

 肩にかかる茶色の髪は、いつもより柔らかくまとまっている。

 大学ではベースを背負っていることも多いからだろうか。

 今日は妙に――女の人、という感じがした。

「……綺麗ですね」

「ふふ」

 恵先輩が笑う。

「朝からそれ?」

「いや、普通にそう思ったので」

「葵くんって、そういうところあるよね」

「どういうところですか?」

「思ったことを、そのまま言うところ」

「変ですか?」

「ううん」

 恵先輩は少しだけ嬉しそうに笑った。

「私は好きだよ」

「……」

 今のは。

 どういう意味だろう。

 聞き返そうとしたけれど、恵先輩はもう歩き始めていた。

「今日は楽器屋さんだよね」

「はい」

「そのあと、シーバス乗りたい」

「シーバス?」

「うん。船で赤レンガまで」

「いいですね」

「それからご飯食べて、みなとみらいを歩いて……」

「完全にデートですね」

 何気なく言った。

 恵先輩が立ち止まる。

「……デート?」

「え?」

「今、デートって言った?」

「言いましたけど」

「そっか」

 恵先輩は、ふっと笑った。

「じゃあ、今日はデートだね」

「……」

 なんだろう。

 自分で言っただけなのに。

 恵先輩に認められると、急に本物になった気がした。

     

 楽器店に入る。

 店内にはギターやベースが壁一面に並んでいた。

「うわ……」

 思わず声が漏れる。

「葵くん、嬉しそう」

「だって、こんなにありますよ」

「私はいろんな店で見てるけどね」

「先輩、5弦ですよね」

「うん」

「5弦、カッコいいなあ」

「弾いてみれば?」

「いいんですかね?」

「もちろん」

 恵先輩は店員さんに声をかけ、1本の5弦ベースを手に取った。

「ほら」

 差し出される。

「弾いてみて」

「はい」

 受け取って、ストラップを肩にかける。

 低い音を鳴らす。

 4弦とは違う。

 身体の奥まで響くような低音だった。

「どう?」

「いいですね」

「でしょ?」

 恵先輩が俺の横から覗き込む。

「でも、葵くんにはギターのほうが似合うかも」

「そうですか?」

「うん」

「先輩は?」

「私?」

「ベース以外だったら、何が似合います?」

「えー?」

 恵先輩は少し考える。

「なんだろう」

「ピアノとか?」

「私、ピアノもやってたよ」

「そうなんですか?」

「小さい頃から」

「じゃあ、先輩、ピアノ似合いそうですね」

「本当に?」

「はい」

「じゃあ、今度、葵くんにだけ弾いてあげる」

「……」

「どうしたの?」

「いや」

 こういうことを、さらっと言う。

 それが恵先輩だった。


 次の店ではギターを見る。

 俺がFenderのムスタングを手に取ると、恵先輩が後ろから覗き込んだ。

「それ好きなの?」

「好きですね」

「どこが?」

「音もそうですけど、見た目が」

「ふーん」

「先輩は何か気になります?」

「ううーん」

 恵先輩はギターではなく、俺の顔を覗き込んだ。

「葵くんが楽しそうだから、見てる」

「……それだけですか?」

「それだけ」

 笑っている。

 近い。

 いつもより、ずっと近い。

 姉が2人いるから、年上の女性と話すこと自体には慣れている。

 子供の頃から、姉の友達が家に来ることもあった。

 上の姉なんて、近所でも評判になるくらいの美人だった。

 だからなのか。

 美人な女性を見ると、どうしても構えてしまう――という感覚が、俺にはあまりない。

 もちろん、恵先輩が綺麗なのは分かっている。

 ものすごく綺麗だ。

 それでも、だからといって別世界の人に感じるわけではなかった。

「葵くん?」

「はい?」

「ぼーっとしてた」

「ちょっと考え事してました」

「私のこと?」

「まあ」

「ふふ」

 恵先輩が嬉しそうに笑った。


 エフェクターのコーナーでは、2人で試奏した。

「これ、どう?」

 恵先輩がスイッチを踏む。

「おお……」

「こっちは?」

「こっちのほうが好きです」

「私も」

「好み合いますね」

「ね」

 恵先輩が笑う。

「なんか、こういうのいいね」

「何がですか?」

「葵くんと楽器屋さん」

「楽器屋ですよ?」

「うん」

「普通の楽器屋です」

「だからいいの」

 恵先輩はそう言って、またエフェクターを眺め始めた。

 楽譜のコーナーでは、2人でバンドスコアを眺めた。

 弦を見れば、どのメーカーがいいとか。

 ピックを見れば、厚さがどうとか。

 ギターを見つければ、また足を止める。

 気がつけば、かなり時間が経っていた。

「……楽しい」

 俺が言う。

「私も」

 恵先輩が答えた。

 その笑顔が、妙に嬉しかった。

     

 昼を過ぎた。

「お腹空いたね」

「はい。俺もです」

「何食べたい?」

「パスタなんてどうです?」

「いいね」

「この辺、パスタの店がいくつかあるみたいです」

 スマホを見せる。

「へえ。私、あんまり横浜って来ないから、こういうの嬉しいかも」

「じゃあ、この店なんてどうです?」

「いいね。そこにしよう」

「俺、最後の晩餐はカルボナーラがいいくらい好きなんです」

「ははっ」

 恵先輩が笑う。

「私もクリーム系好きだよ」

「じゃあ、ちょうどいいですね」

「うん」

 その笑顔を見ていると、また少しだけ硬くなった。

 やっぱり綺麗だ。

 笑うと、もっと綺麗になる。

 店に入り、俺はカルボナーラ。

 恵先輩は海老とトマトのクリームパスタを注文した。

 料理が届く。

「いただきます」

「いただきます」

 一口食べる。

「美味しい」

「ね」

 恵先輩が嬉しそうに頷く。

 こうしていると、本当に普通の食事だった。

 綺麗な先輩と2で食事をしているということを除けば。

「葵くんって、普通だよね」

「どういう意味ですか?」

「秘密」

「今日、秘密多くないですか?」

「だって、葵くんにはまだ内緒にしておきたいことがあるから」

「なんですか、それ」

「そのうちね」

 恵先輩は笑った。

 食事を終えて店を出る。

「美味しかったですね」

「うん」

「先輩、意外と食べますね」

 言ってから、少し失敗したかと思った。

「それ、どういう意味?」

「いや、いい意味で」

「だからどういう意味?」

「もっと小食なのかと思ってました」

「私だってお腹空くよ」

「そうですよね」

「何、その納得した顔」

「いや……」

 俺は少し考えてから言った。

「なんか、可愛いなと思って」

「……」

 恵先輩が止まった。

「先輩?」

「今の、もう一回言って」

「え?」

「可愛いって」

「可愛いですよ」

「……そっか」

 恵先輩は少し照れたように笑った。

 その表情は、大学で見るよりずっと可愛いく見えた。

     

 14時。

 シーバスに乗った。

 海から見る横浜は、いつもと違って見えた。

「気持ちいいね」

「はい」

 恵先輩が船の外側に寄る。

 風が吹く。

 鴨が船の後ろを追いかけてくる。

 茶色の髪が大きく揺れた。

「先輩、髪」

「大丈夫」

「飛んでいきそうですよ」

「じゃあ、葵くんが捕まえて」

「髪を?」

「うん」

「どうやって?」

「知らない」

 恵先輩が笑う。

 大学で見るより、ずっとよく笑う。

 そして――ずっと可愛い。

 しばらくして、恵先輩は海を眺めた。

 その横顔が、少しだけ静かになった。

「……私ね」

「はい」

「こういうところに、男の人と来るの、嫌だったんだ」

「え?」

「なんとなく」

「嫌だった?」

「うん」

 恵先輩は海を見たまま続けた。

「中学生くらいの頃からかな」

「何かあったんですか?」

「いろいろ」

 少し間があった。

「私、小さい頃から顔だけは褒められてたの」

「顔だけ?」

「そう。顔だけ」

 恵先輩が笑う。

「赤ちゃんの頃、子供服のチラシに載ったこともあるんだって」

「モデルじゃないですか」

「1回だけ。近所のお店のチラシ」

「それでもすごいですよ」

「小学生になると、近所ではちょっと有名だったみたい」

「やっぱり」

「芸能事務所の人から声をかけられたことも何度もあったよ」

「そんなに?」

「うん」

 恵先輩は肩をすくめる。

「親もね、最初はすごく喜んでた」

「そりゃそうですよね」

「『せっかく綺麗に生まれたんだから』って」

 その言葉だけ、少し声が小さくなった。

「私は普通に暮らしたかったんだけどね」

「普通に?」

「友達と遊んで、学校行って。帰りに寄り道して。そういうの」

「……」

「でも、中学生になったら、簡単じゃなくなった」

 恵先輩の横顔を見る。

 さっきまでの笑顔は消えていた。

「学校の先輩に待ち伏せされたり」

「……」

「同級生に突然告白されたり。他校の人が駅で待ってたり」

「それは……」

「正直、嫌だった」

 恵先輩は、はっきりそう言った。

「それに、女の子からは『いいよね、恵は』って言われたり」

「嫉妬ですか?」

「……どうなんだろうね」

 少しだけ間があった。

「そういうふうに受け取るようになってたんだと思う」

「……」

「男の人と話せば、どうせ私の顔を見てるんだろうって」

「……」

「女の子と話せば、どうせ私のことを良く思ってないんだろうって」

 恵先輩は、少しだけ目を伏せた。

「そう思ってたほうが、楽だったのかもしれない」

「……」

「最初から期待しなければ、傷つかないから」

 海風が吹いた。

 恵先輩の髪が揺れる。

「だから、だんだん自分の顔が嫌いになった」

「……」

「綺麗だって言われても、嬉しくなかった」

 その言葉に、俺は何も返せなかった。

「褒められてるのにね」

 恵先輩は少し笑った。

「変だよね」

「変じゃないと思います」

「……そう?」

「はい」

「そっか」

 恵先輩は海へ視線を戻した。

     

 船を降りる。

 みなとみらいを歩く。

 しばらく、2人とも話さなかった。

 海風が気持ちいい。

 休日の街は人が多い。

 店から聞こえる音。

 遠くを走る車。

 誰かの笑い声。

 そんな普通の街の音の中を、俺たちは歩いた。

「でもね」

 恵先輩が突然言った。

「大学に入ってから、ちょっと楽になった」

「どうしてですか?」

「誰にでも同じようにするって決めたから」

「同じように?」

「うん」

 恵先輩は歩きながら話す。

「男の人だからって特別にしない。女の人だからって警戒しない。先輩だからって距離を取らない。後輩だからって甘やかさない」

「徹底してますね」

「そうしないと、私が疲れるから」

「なるほど」

「それでototteがピッタリだった」

「ああ」

「音楽なら、顔じゃなくて音を聴いてもらえるから」

 恵先輩が少し笑う。

「美月が最初に普通に話してくれたとき、すごく楽だった」

「美月先輩らしいですね」

「うん」

「俺も、美月先輩と話しやすいです」

「知ってる」

「なんでですか?」

「葵くん、美月と話してるとき、私と話してるときと同じ顔してるから」

「同じ?」

「うん」

 恵先輩が俺を見る。

「変に気を遣ってない」

「そうですか?」

「そうだよ」

 少しだけ笑う。

「私、そういうの好き」

「……」

 まただ。

 恵先輩は、こういうことをさらっと言う。


 俺たちは歩き続けた。

 そして、いつの間にか恵先輩が俺のすぐ隣を歩いていた。

 肩が触れそうな距離。

「葵くん」

「はい?」

「私ね」

「はい」

「葵くんといると、楽」

「楽?」

「うん」

 恵先輩は少し考えてから続けた。

「私が美人だからとか、先輩だからとか、そういうのを気にしなくていいから」

「俺、そんなに気にしてないですか?」

「うん」

「でも、綺麗だとは思ってますよ」

「知ってる」

「じゃあ……」

「それでもいいの」

 恵先輩は笑った。

「葵くんが私を綺麗だと思ってることと、私を綺麗だからって特別扱いすることは、別だから」

「……」

「そこが、いい」

 俺は返事に困った。

 すると恵先輩がほんのり笑う。

「葵くん、今ちょっと照れてる?」

「照れてません」

「嘘」

「本当です」

「顔、赤いよ」

「先輩だって赤いじゃないですか」

「え?」

「耳」

「……もう」

 恵先輩が耳を隠す。

「見ないで」

「自分から言ったのに」

「葵くんの意地悪」

 そう言って笑う。

 その笑顔が、あまりにも可愛かった。

     

 それから俺たちは、あてもなく歩いた。

 店を覗いた。

 海を眺めた。

 アイスを食べた。

 恵先輩が俺のアイスを見て、

「一口ちょうだい」

と言った。

「いいですよ」

「やった」

 一口食べる。

「美味しい」

「ですよね」

「もう一口」

「一口だけですよ」

「分かってる」

 そして、二口目。

「先輩」

「なに?」

「二口ですよ」

「一口が大きかっただけ」

「それは一口じゃないです」

「細かいなあ」

 恵先輩が笑う。

 俺も笑う。

 こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。

 夕方になる。

 空の色が少しずつ変わっていく。

 俺たちは桜木町へ向かって歩いた。

「今日、楽しかったね」

「はい」

「楽器屋さんも」

「楽しかったです」

「シーバスも」

「はい」

「ご飯も」

「美味しかったです」

「アイスも」

「二口食べられました」

「まだ言う?」

 恵先輩が笑う。

 そして、少しだけ俺の腕に自分の腕を寄せた。

「……ねえ」

「はい?」

「今日は、ありがとう」

「何がですか?」

「一緒にいてくれて」

「俺も嬉しかったですよ」

「うん」

 恵先輩は前を向いた。

「それなら、よかった」

 桜木町駅が見えてくる。

 楽しかった時間が、終わりに近づいている。

「じゃあ、ここで」

「はい」

「また大学で」

「はい」

「葵くん」

「なんですか?」

「今日は、本当に楽しかった」

「俺もです」

「……よかった」

 恵先輩が笑う。

 その笑顔は、大学で見るものよりずっと柔らかかった。

「じゃあね」

「はい」

 恵先輩が歩き出す。

 1歩。

 2歩。

 3歩。

 そして――。

「……あ」

 恵先輩が振り返った。

「どうしました?」

「ううん」

 恵先輩が戻ってくる。

 俺の目の前まで。

「先輩?」

「葵くん」

「はい」

「今日、楽しかったから」

「……はい?」

 恵先輩が少し背伸びをした。

 頬に、柔らかいものが触れた。

「……」

 一瞬だった。

 恵先輩はすぐに離れる。

 そして、少し照れたように笑った。

「じゃあね」

「……」

「また月曜日にね」

 そう言って、今度こそ歩いていく。

 俺は、その場に立ち尽くしていた。

 頬に手を当てる。

「……」

 何が起きた。

 いや。

 何が起きたかは、わかる。

 わかるけど。

 頭が追いつかない。

 少し先を歩いていた恵先輩が、振り返った。

 目が合う。

 恵先輩は笑った。

 俺も、なんとなく笑い返して手を振る。

 そして恵先輩は、また前を向いて歩いていく。

 その背中を見ながら思った。

 今日一日。

 俺は、恵先輩とずっと一緒にいた。

 楽器を見て。

 海を見て。

 ご飯を食べて。

 くだらない話をして。

 何度も笑った。

 そして今。

 頬に、恵先輩のキスが残っている。

 たぶん俺は、今日まで知らなかった。

 恵先輩は、こんなによく笑う人だった。

 こんなふうに甘える人だった。

 こんなくだらないことで笑って。

 こんなふうに照れる人だった。


 大学で見る恵先輩は、いつも綺麗だった。

 誰から見ても綺麗で。

 誰に対しても優しくて。

 どこにいても目を引く人だった。

 でも今日、俺が見た恵先輩は違った。

 特別に綺麗な人だ。

 それは間違いない。

 だけど、それ以上に――。

 可愛い人だった。

 そして。

 俺の隣で笑っているときだけは。

 ただの20歳の女の子に見えた。


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