第6章 講義が終わって夕方からが本番っていうモラトリアム
6月も下旬になると、日常生活のパターンが固まってくる。
朝7時に起きて、8時15分に家を出て、いつもの席で講義を受ける。
そして昼休み。
「葵、今日の昼どうする?」
俺の隣に座った亘一が聞いてくる。
「学食かな」
「OK。知佳ちゃんは?」
「私も学食でいい」
そこへ沙耶がやってきた。
「お待たせー」
「遅い」
「ごめんごめん。ちょっと質問に行ってて」
「よし、じゃあ行こう」
4人で学食へ向かう。
いつものメンバー。
食べ始めたころ、
「2人は今日もサークル?」
沙耶が聞いてくる。
「ああ、基本毎日」
「じゃあ、また夜まで?」
「そうだよ」
「よく続くね」
「実際やってみると楽しいぞ」
「私は根気ないから向いてないかも」
「ああ、そうかもな」
亘一が即答する。
「なんでよ」
「自分で言っといて」
そんな他愛もない会話。
それだけのことなのに。
昼休みが終わるのが、少しだけ惜しいと思うようになっていた。
午後の講義を終える。
サークルが始まるまでは、図書館で課題をやったり、カフェテラスで友達と喋ったりする。
18時前。
俺はギターケースを背負って、いつもの教室へ向かった。
「お疲れさまでーす」
扉を開ける。
「お、葵。お疲れ」
美月先輩がドラムの準備をしていた。\
「知佳は?」
「もうすぐ来ると思います」
美月先輩がスティックを回す。
「恵先輩は今日来れるんですか?」
「うん。ちょっと遅れるらしいけど」
「じゃあ、先に音出しときますか」
「そうだね」
俺はギターを取り出してチューニングする。
美月先輩はスネアのテンションを調整する。
それから互いに音を出し始めた頃。
「ごめん。ちょっと遅れた」
恵先輩が入ってきた。
「大丈夫ですよ」
「知佳は?」
「まだです」
「じゃあ、3人でやれるところからやろうか」
「はい」
ドラムが鳴る。
ベースが重なる。
俺もギターを合わせる。
3つの音だけでも、前よりずっと自然に合うようになっていた。
「葵くん」
「はい?」
「ちょっとギター、音下げてもらっていい?」
「あ、はい」
「うん。そんなもんかな」
恵先輩はそう言って、またベースを弾く。
その音を聞きながら、俺はストロークを微調整する。
少しずつ。
相手の音を聞く。
自分の音を合わせる。
仲間と作る音楽って、そういうものだ。
「遅くなりました」
知佳が入ってきた。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
知佳がキーボードの前に座る。
その顔は、以前よりずっと自然だった。
最初の頃は、サークルに来るだけでも少し緊張していた。
今では、
「今日は何やります?」
と、自分から聞いてくる。
そんな知佳を見るのが、俺は少し嬉しかった。
「じゃあ、今日は通しでやってみよう」
恵先輩が言う。
「真帆ちゃんは?」
「もうすぐ来るって」
美月先輩が答えた。
その直後。
「すいませーん!」
扉が開いた。
「遅れました!」
「お疲れー」
「あれ、走ってきた?」
「髪すごいよ」
「えっ」
真帆が慌てて髪を整える。
「鏡見る?」
「見たいです」
美月先輩がスマホを差し出す。
「ありがとうございます」
「はい」
真帆が画面を覗き込む。
「……ほんとだ。ひどい」
「別にそこまでじゃないって」
「でも、恥ずかしいです」
「真帆ちゃんらしいじゃん」
「どういう意味ですか、それ」
みんなが笑う。
俺も笑った。
こういう時間が、最近は当たり前になっていた。
練習は、思っていたより順調だった。
前なら何度も止まっていたところも、今は一発で通る。
5つの音が、それぞれの場所に収まっていく。
5人で作る音。
それが、少しずつ形になっていた。
「……いいね」
曲が終わったあと、恵先輩が言った。
「だいぶ形になってきた」
「ほんとです?」
真帆が嬉しそうにする。
「うん」
知佳も頷いた。
「前より合わせやすくなった」
「そう?」
「うん」
真帆が俺を見る。
「葵もそう思う?」
「思うよ」
「ほんと?」
「ああ」
「やった」
真帆が笑った。
その笑顔を見て。
俺も自然に笑っていた。
最近、真帆はよく笑うようになった気がする。
大学に入ったばかりの頃よりも。
それはたぶん、俺だけじゃない。
みんなと一緒にいる時間が増えたからだ。
と、いつの間にか20時45分。
「じゃあ、今日はここまでにしようか」
美月先輩が言う。
「お腹空いた」
真帆がすぐに言った。
「やっぱり?」
「だってもう9時だよ」
「確かに」
「今日はどうする?」
恵先輩が聞く。
「じゃあファミレス」
「昨日行ったでしょ」
「じゃあラーメンどーです?」
「私はラーメンでいい」
知佳が言う。
「知佳が珍しく積極的だ」
「……私だってラーメンくらい食べる」
「いや、そういう意味じゃなくて」
真帆が笑った。
「じゃあラーメンにしようよ」
「賛成」
美月先輩が言う。
「じゃあ決まり」
恵先輩が頷いた。
「私は辛みそラーメン10辛」
知佳の口から不穏な言葉が出る。
「辛いの好きだったっけ?」
「うん、結構。茉優はもっと好きだよ」
親が酒飲みで娘は辛党。
なんとなく納得できる親子だな。
「恵先輩は?」
「よくわからないから一番人気のやつ」
「あー、じゃあ私もそれでいいや」
美月先輩は適当に合わせている。
俺は今日は塩の気分だ。
「真帆は?」
「うーん……」
真帆がメニューを見つめる。
「ちょっと待って。迷う」
真帆はいつも結構悩む。
その横で、知佳が辛みそラーメンを即決している。
こういうところも、2人は正反対だった。
ラーメンを食べ終えて。
コンビニでお菓子と飲み物を買い込んで。
真帆の家へ向かう。
最近では、もう定番の流れだった。
「ただいまー」
真帆が玄関を開ける。
「お邪魔します」
「お邪魔ー」
「お邪魔します」
「はいはい、どうぞ」
靴を脱いで部屋へ入る。
いつもの部屋。
俺たちが何度も来るせいで、真帆の部屋は少しずつ「みんなの部屋」みたいになっていた。
ソファには美月先輩が置いていったクッションがある。
テーブルの端には、前に俺が使ったピックが置きっぱなしになっている。
知佳が座る場所も、なんとなく決まっている。
気づけば、俺たちの居場所になっていた。
「なんか、ここ来ると落ち着くな」
俺が言うと。
「ほんと?」
「うん」
真帆が嬉しそうに笑った。
「私も」
知佳のその言葉も、少しだけ嬉しそうだった。
その夜。
恵先輩と美月先輩は、途中で帰った。
「じゃあ、また明日ね」
「お疲れさまでした」
「お疲れー」
扉が閉まる。
残ったのは俺と知佳と真帆だった。
「葵、文化人類学のレポート書いた?」
「もう一息ってとこだな」
「なんか先生の好みがあって、評価変わるんだって」
「ああ。亘一に聞いて、ちゃんと考えたぞ」
「私も聞けばよかった」
「知佳ならちゃんと書けば大丈夫だろ」
「そうかな」
「真面目だし」
「……そういうの、あんまり嬉しくない」
「なんで?」
「なんとなく」
知佳が少しだけ笑う。
その横で、真帆は黙ってお菓子を食べていた。
「2人とも、泊まっていけば?」
真帆が言った。
「明日も大学あるぞ」
「わかってる」
「じゃあ、なんで?」
「もう遅いし」
時計を見る。
23時半。
確かに遅い。
でも、それだけじゃない気がした。
「知佳は?」
「私は……」
知佳が少し考える。
「真帆がいいなら」
「もちろん」
真帆が嬉しそうに頷いた。
その表情を見て、俺も笑う。
こうして三人でいるのも、悪くない。
床に座って、コンビニで買ったお菓子を広げる。
「そういえば」
知佳が言った。
「何?」
「真帆って、大学入ったら彼氏欲しいって言ってなかった?」
「えっ」
真帆が固まる。
「言ってたな」
俺も覚えていた。
「言ってたけど……」
真帆がポテトチップスを一枚取る。
「で、今は? 考えてる人とかいるの?」
「んー……どうだろ」
真帆が少し考える。
「今は今で楽しいし」
そう言ってから、ほんの少しだけ俺を見る。
すぐに視線を戻した。
俺は気づかなかったことにした。
……たぶん。
実際、最近の真帆は楽しそうだった。
大学に来て。
サークルに入って。
恵先輩や美月先輩と仲良くなって。
知佳とも友達になった。
そして、俺たちと一緒に過ごす時間が増えた。
最初に言っていた「キラキラした大学生活」は、もう十分に始まっている。
「葵」
「ん?」
「……なんでもない」
「?」
真帆は笑った。
その笑い方が、ほんの少しだけ照れているように見えた。
そのとき、知佳が立ち上がった。
「私、歯磨きしてくる」
「うん」
「洗面所借りるね」
「どうぞ」
知佳が部屋を出ていく。
部屋に、俺と真帆だけが残った。
「……」
「……」
なんとなく、気まずい。
さっきまで3人で喋っていたのに。
2人になっただけで、空気が少し違う。
「葵」
「ん?」
「今、楽しい?」
「何が?」
「大学」
「ああ」
俺は少し考える。
「楽しいよ」
「そっか」
「真帆は?」
「私も」
真帆が笑った。
「すごく楽しい」
「それならよかった」
「うん」
また沈黙する。
真帆が俯く。
何か言いたそうなのに、なかなか口を開かない。
「どうした?」
「……なんでもない」
「さっきから、そればっかりだな」
「だって……」
「だって?」
「……ううん」
真帆が首を振る。
そして、少しだけ俺を見る。
「ねえ、葵」
「ん?」
「私ってさ」
「うん」
「……可愛い?」
「え?」
思わず聞き返した。
「いや、だから」
真帆が少しだけ顔を赤くする。
「私って、可愛いかなって」
「……」
どう答えればいいんだ。
変に考えると、余計におかしくなりそうだった。
「可愛いと思うけど」
「ほんと?」
「ああ」
「そっか」
真帆は俯いた。
「……よかった」
その声は、いつもの真帆より少し小さかった。
どうしてそんなことを聞いたのか。
俺には、まだよくわからなかった。
知佳が戻ってきた。
「お待たせ」
「おかえり」
「何話してたの?」
「別に」
真帆が答える。
「そう?」
「うん」
知佳は俺と真帆を交互に見る。
何か言いたそうだった。
けれど、何も言わなかった。
「……もう寝る?」
知佳が欠伸をする。
「うん」
「じゃあ、布団どうする?」
「3人で?」
「さすがに狭いでしょ」
「じゃあ、知佳はベッド使って」
「でも真帆が」
「私は大丈夫。親が使う客用布団がある。」
「そっか。葵は?」
「俺は床でいいよ」
「そう、男は床で寝ろ」
真帆が即答した。
「おうよ。男の泊まりなんてそんなもんだ」
「そういうものなんだ」
知佳は無理やり納得している。
「じゃ、そろそろ寝よっか」
「うん。明日も1限からだし」
「おやすみ」
「おやすみ」
そう言って、2人は床に就く。
俺は同級生女子2人と一つ屋根の下の状況に、すぐ眠れそうにない。
テーブルの小さなランプの下で、楽譜を読む。
「ねぇ、葵……どうする?」
真帆が俺を見る。
「どうするって……」
「私たちも寝よ」
真帆が布団をめくる。
「ほら」
俺は少し迷って。
「……わかった」
「うん」
布団に入る。
狭い。
思った以上に狭い。
真帆の肩がすぐ隣にある。
「……近いな」
「狭いからね」
「そうだな」
「嫌?」
「いや……」
俺は天井を見る。
心臓が妙にうるさい。
「葵」
「ん?」
「こっち向いて」
「え?」
振り向く。
真帆と目が合った。
いつもの笑顔じゃない。
少し緊張した顔。
でも。
逃げるような目ではなかった。
「真帆?」
「……」
真帆が少しだけ近づく。
そして。
唇が触れた。
「……」
一瞬だった。
真帆が離れる。
顔が真っ赤だった。
「……おやすみ」
「え?」
「おやすみ」
「真帆」
「……なに?」
「今の……」
「もう遅いよ。寝よう」
そう言って、真帆は電気を豆球にした。
そして、二人で同じ布団にくるまった。
翌朝。
大学へ向かう準備をしていると、真帆が俺の前に立った。
「葵」
「うん」
「昨日のことなんだけど」
「……うん」
真帆も少し緊張している。
それでも、俺の目を見る。
「ねぇ、私たち、付き合わない?」
「……」
頭が真っ白になった。
「……考えといて」




