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第12章 ……で、どっちなの?

 合宿が終わってから、10日ほどが過ぎた。

 8月の藤沢は、相変わらず暑かった。

 昼間に外を歩けば、アスファルトから立ち上る熱気に息が詰まる。夕方になっても気温はなかなか下がらず、窓を開けても、入ってくるのはぬるい風ばかりだった。

 大学は夏休み。

 後期の授業が始まるまで、まだ1か月ほどある。

 8月いっぱいは大学の施設も自由に使えない。サークルの練習で普段の教室を借りることもできず、ototteの活動は、外部の音楽スタジオや公民館を利用することになっていた。

 スタジオを借りれば、それなりに金がかかる。

 公民館なら比較的安く済むが、予約が結構埋まっていてそう気軽に使えない。

 アルバイトをしているメンバーもいるし、帰省している人もいる。そもそも、夏休みまで毎日のようにサークル活動をしたい人間ばかりではなかった。

 俺は合宿後に少し帰省し、高校時代の友人に会ったりした。

 帰ってきてからは自宅でギターを弾いたり、久しぶりに作曲活動などをしていた。

 そして、合宿が終わってから、以前よりスマホを見る回数が増えた気がする。

 誰かから連絡が来ていないか。

 次に会う予定はないか。

 ほんの少し、忙しくなっていた。

     

「で、合宿どうだった?」

 駅前のファミレスで、沙耶が尋ねた。

 向かい側には知佳が座っている。

 俺たち3人で会うのは、合宿が終わってから初めてだった。

 きっかけは沙耶からの連絡だ。

『せっかく夏休みなんだから、どこかでお昼でも食べない?』

 大学の授業がない時期に、わざわざ学校へ行く理由もない。待ち合わせて食事をして、少し話すだけ。

「合宿はどうだったの?」

「楽しかったよ。最終日には知佳とも一緒に演奏したぞ」

 知佳はグラスを置き、

「……うん。楽しかった」

「なら、よし」

「へぇ」

 沙耶は満足そうに頷いた。

 合宿の最後、俺たちは真帆と3人で演奏した。

 あのときの音は、今でも耳に残っている。

 特別な演奏だったと思う。

「そういえば、合宿の写真、私にも見せてよ」

 沙耶が言った。

「知佳、持ってる?」

「……何枚か」

「葵も持ってる?」

「まあ、何枚かは」

「じゃあ、見せて見せて」

 その場で2人でスマホを取り出す。

 沙耶が興味深そうに見ている。

 知佳は、ほんの少し恥ずかしそうだ。

「あんたたち、結構一緒に写ってるね」

「まぁその撮影者と俺たちの3人でトリオ組んだしな」

 真帆の近くにいると、自然と写真の数も多くなる。

「今度の合同ライブも一緒だし」

「うん。後期に入ったらまた練習しないとね」

「まぁしばらくは個人練習メインだな」

「そうだね」

「それで、知佳」

 黙って写真を見ていた沙耶が画面を消した。

「夏休み、他に予定あるの?」

「……サークル以外は、特にない」

「じゃあ、今度どこか行こうよ」

「どこか?」

「映画とか、買い物とか」

「うん、行こう」 

 そうこうしていると注文した料理が運ばれてきた。

 それから他愛のない話で1時間ほど過ごす。

 沙耶が最近見た映画の話。

 知佳が家で聴いていた音楽の話。

 俺がギターの弦を張り替えた話。

 「本当に2人の雑談は音楽メインだね」

 沙耶は笑いながら、知佳の肩を軽く叩いた。

「まあ、2人が仲良くなっててよかったよ」

 知佳は返事をしなかった。


 数日後、俺はスタジオ練習に参加した。

 場所は、藤沢駅から少し離れたビルの2階。

 参加するメンバーで費用を割り勘にして、数時間だけ部屋を借りる。

 決して安くはない。

 けれど、家では大きな音を出せないし、ドラムも叩けない。

 楽器を持ち寄って合わせるなら、結局こういう場所が必要になる。

 受付を済ませ、ギターケースを背負ったまま廊下を歩く。

 防音扉の向こうから、ドラムの音が漏れていた。

 夏休みだというのに、ほかの部屋もそれなりに埋まっているらしい。

「葵くん、こっち」

 恵先輩が、部屋の前で手を振っていた。

「おはようございます」

「おはよう。暑かったでしょ」

「暑かったです。駅から遠いですね、ここ」

「そうなんだよね。だから、みんな来られるときだけ来る感じ」

 恵先輩は笑いながら、部屋の扉を開けた。

 中では、すでに美月先輩がドラムセットの準備をしている。

 恵先輩はベースのチューニング中だったらしい。

 知佳はキーボードの前で楽譜を見ている。

 いつもの部室とは違う、少し狭い空間だった。

 それでも、楽器が並んでいるのを見ると、自然と気持ちが落ち着く。

 ちなみに真帆は帰省中のため欠席。

「今日は何をやります?」

「前半は、みんなで合わせられる曲をざっと。そのあと、やりたい人が自由に練習する感じかな」

「わかりました」

 俺はギターを取り出した。

 手早くチューニングし、アンプにつなぐ。

 その間に、恵先輩がベースを肩に掛けた。

「ねえ、葵くん」

「はい?」

「この前話した曲、覚えてる?」

「ベースが格好いいやつですか?」

「そう、それ」

 恵先輩が楽譜を出す。

「この曲、ちょっと合わせてみたいんだよね」

「俺でよければ」

「もちろん」

 俺たちは、初めて合わせる曲に挑戦した。

 軽く個人練習していたので、意外と手は周った。

 最初は、短いフレーズに分けて何度か繰り返す。

「わりといい感じかも」

「なるほど。ベースがカッコいいですね」

「うん。ギターがメインのパートだけど、ここはベースの動きを生かしたいんだよね」

「確かに、そっちの方が気持ちいいですね」

「でしょ?」

 恵先輩は嬉しそうだった。

 音楽の話をしているときの先輩は、普段より少しだけ熱がこもる。

 綺麗な人だと思う。

 それは、もう当然のこととして。

 今はそれだけではなかった。

 5弦ベースを構えたときの姿は格好いいし、好きな音楽を話すときは、こちらまで楽しくなる。

「葵くん?」

「あ、はい」

「何か考え事?」

「いえ、何でもないです」

「ふうん?」

 恵先輩は不思議そうに首を傾げたあと、笑った。

「じゃあ、もう1回やろうか」

「いきましょう」

 俺たちは、再び楽器を構えた。

 言葉がなくても、音を出せば伝わることがある。

 恵先輩と合わせていると、そう思う。

 合宿で知佳と演奏したときにも、同じことを感じた。

 音楽は、そういうところが面白い。

 

 練習が終わる頃には、腕が少し疲れていた。

 スタジオ代を精算し、楽器を片づける。

 外へ出ると、あいかわらず街は暑かった。

「お疲れさま」

 恵先輩が言った。

「お疲れさまでした」

「今日、楽しかった?」

「はい。やっぱり、音を合わせるのは楽しいですね」

「よかった」

恵先輩は、ギターケースを背負う俺を見て、

「今度は、葵くんの好きな曲も聴かせてね」

「もちろんです」

「約束」

「約束です」

 先輩は満足そうに頷いた。

 それから、少しだけ声の調子を変えた。

「そういえば、知佳ちゃんとは最近どう?」

「……知佳?」

 美月先輩と知佳が少し離れた場所を歩いているのを見て、突然おかしなことを言う。

「うん。合宿で仲良くなったでしょ?」

「まあ、そうですね」

「一緒に演奏してるところ、楽しそうだったから」

 俺は少し考えた。

「知佳は、音楽の話をすると結構話してくれるんですよ。普段は口数少ないけど」

「そうなんだ」

「最初は、ちょっと怖そうだと思ってたんですけどね」

「ふふ。知佳ちゃん、目つきが鋭いもんね」

「そうなんですよ」

「でも、笑うとかわいいでしょ?」

 思わず、言葉に詰まった。

「……まあ」

 恵先輩は、俺の顔をじっと見た。

「へえ」

「何ですか」

「別に?」

 その言い方が、この前の沙耶にそっくりだった。

 俺は思わず眉を寄せる。

「何か、みんな同じ反応するんですけど」

「みんな?」

「あ、いや」

 恵先輩は、くすくす笑った。

「葵くんって、わかりやすいね」

「何がですか」

「さあ?」

 先輩はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、別れ際に一度だけ、俺の顔を覗き込むようにして言った。

「また一緒に弾こうね」

「はい」

 その笑顔に、俺は少しだけ胸が騒いだ。

    

 翌日、俺は知佳と2人で出かけた。

 きっかけは、合宿のときに話していた楽器屋のことだった。

『キーボードと、周辺機器も少し見てみたい』

 知佳からそんなメッセージが来たのだ。

 俺も弦を買いたかったので、横浜駅で待ち合わせることにした。

 待ち合わせ場所に着くと、知佳はすでに来ていた。

 黒い服に、いつもの長い黒髪。

 相変わらず、黙って立っていると少し近寄りがたい。

 けれど、俺を見つけると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。

「……おはよう」

「おはよう。すまん待たせたか?」

「ううん。今来たところ」

「そうか、じゃあ、行こうか」

「うん」

 楽器屋は、冷房がよく効いていた。

 俺はギターの弦を見に行き、知佳はキーボードのコーナーへ向かった。

 しばらくすると、知佳が俺を呼んだ。

「葵、これ」

「ん?」

「この音、どう思う?」

 知佳が鍵盤を押す。

 柔らかい音が店内に広がった。

「へぇ、こんな音も出せるんだ」

「なんていうか、柔らかい音」

「知佳が好きそう」

「え、なんで?」

「ちょっとオルガンっぽくて、メロディックにハマる音だと思うから」

「なるほど、そういう」

 店を出たあと、俺たちは駅まで並んで歩いた。

 人通りの多い西口を、2人でゆっくり進む。

 昼前の、ちょうど込み合う前だったから、食事に行くことに。

 …少し歩いて、ランチ1100円のピザ屋に入った。

 注文が済むと、会話は自然と、合宿の演奏のことに。

「また、あの曲やりたいな」

 すぐに頷く知佳。

「……うん。今度は、もっとちゃんと弾きたい」

「俺も練習しとくよ」

「……じゃあ、また一緒にやろう」

「ああ」

 それだけの約束だった。

 また一緒に。

 ただの音楽の話だ。

 けれど。

 好きな音の話ができる。

 自分が選んだ音を、葵がちゃんと聴いてくれる。

 何より、2人で出かけようと誘ってくれたのは知佳だった。

 特に意味はないかもしれない。

 けど、なんというか、もう少しだけ一緒にいたいと思った。

 すると、

「……葵」

「ん?」

「今日、楽しかった?」

「楽しかったよ」

 楽器見て、楽譜見て、ピザ食べて、たくさん話して。

「知佳と音楽の話するの、楽しいし」

「……そっか」

 知佳は顔を背けた。

「知佳?」

「何?」

「いや、急に黙るから」

「なんでもないよ」

「そうか」

 それ以上はやめておいた。

 知佳は、一見いつも通りだ。

 その顔を見て、俺は思った。

 もっと、こんな時間がほしい。

 ……どうして、そんなことを思ったのか。

     

 翌日、夜。

 俺は、真帆から届いたメッセージを見返していた。

 夏休み中に、また遊ぼう。

 真帆はそう言っていた。

 特に日程も場所も指定は無い。

 それなのに、俺は少しだけ楽しみにしている。

 真帆といると、気を張らなくていい。

 何でもない話をして、笑って、気がつけば時間が過ぎている。

 告白を撤回したあとも、真帆は以前と変わらない調子で接してくれた。

 だから、俺も以前のように接することができている。

 ……本当に、以前と同じなのだろうか。

 ふと、そんな疑問が浮かんだりもした。

 もし真帆が、もう一度気持ちを伝えてきたら。

 俺は、どうするのだろう。

 答えが出なかった。

 そもそも、まだ何も起きていない。

 真帆は、ただ遊びに行こうと言っただけだ。

 それなのに、先のことを考えている。

 

 俺はスマホを伏せた。

 窓の外では、蝉が鳴いていた。

 夏休みは、まだ続く。

 恵先輩と音を合わせる時間。

 知佳と好きな曲を共有する時間。

 真帆と以前のように笑える時間。

 それぞれが、少しずつ俺の日常になり始めていた。

 そして、気づけば。

 誰かから連絡が来ると嬉しい。

 次に会う約束ができると、少し楽しみになる。

 相手によって、楽しみ方も、胸のざわつき方も違う。

 その違いを、俺はまだうまく説明できない。

 恵先輩は、憧れの人だ。

 そう思っている。

 知佳は、気になる同級生だ。

 ……たぶん。

 真帆は、何でも話せる友達だ。

 そうであってほしい、とも思う。

 けど。

 それぞれの顔を思い浮かべると、どれも少しずつ、言い切れない気がした。

 俺はベッドに寝転がり、天井を見上げた。

 恋愛なんて、もっと簡単なものだと思っていた。

 好きなら好き。

 そうでないなら、そうでない。

 高校時代の友達が恋愛の話をしていたときも、俺はどこか他人事だった。

 誰かを好きになるというのは、もっとはっきりした感情なのだと思っていた。

 でも、今は違う。

 会いたいと思う相手がいる。

 もっと話したいと思う相手がいる。

 笑顔を見ると、なぜか嬉しくなる相手がいる。

 それが同じ人なら、簡単だったのかもしれない。

 けれど、俺の周りには。

 それぞれ違う形で、気になる人がいる。

 ……で、俺はどうしたいんだ?

 答えは返ってこない。

 スマホが震えた。

 画面には、知佳からのメッセージが表示されていた。

『この前話した曲、別のバージョンも見つけた。今度、聴いてみる?』

 俺は、すぐに返事を打った。

『聴きたい。今度聴かせて』

 送信してから、画面を見つめる。

 少しして、返信が来た。

『……うん。また連絡する』

 その短い言葉を、俺は何度か読み返した。

 そして、ふと思う。

 もし今、恵先輩から同じようなメッセージが来たら。

 もし真帆から、2人で出かける日を決めようと連絡が来たら。

 俺は、同じように嬉しくなるのだろうか。

 たぶん、なる。

 でも。

 その嬉しさは、同じなのだろうか。

 ……わからない。

 俺はスマホを胸の上に置いた。

 夏は、まだ長い。

 答えを出すには、少し早い。

 そう思う一方で。

 いつか真帆に言われた言葉を思い出す。


 ――で、どっちなの?



 合宿が終わってから、10日ほどが過ぎた。

 8月の藤沢は、相変わらず暑かった。

 昼間に外を歩けば、アスファルトから立ち上る熱気に息が詰まる。夕方になっても気温はなかなか下がらず、窓を開けても、入ってくるのはぬるい風ばかりだった。

 大学は夏休み。

 後期の授業が始まるまで、まだ1か月ほどある。

 8月いっぱいは大学の施設も自由に使えない。サークルの練習で普段の教室を借りることもできず、ototteの活動は、外部の音楽スタジオや公民館を利用することになっていた。

 スタジオを借りれば、それなりに金がかかる。

 公民館なら比較的安く済むが、予約が結構埋まっていてそう気軽に使えない。

 アルバイトをしているメンバーもいるし、帰省している人もいる。そもそも、夏休みまで毎日のようにサークル活動をしたい人間ばかりではなかった。

 俺は合宿後に少し帰省し、高校時代の友人に会ったりした。

 帰ってきてからは自宅でギターを弾いたり、久しぶりに作曲活動などをしていた。

 そして、合宿が終わってから、以前よりスマホを見る回数が増えた気がする。

 誰かから連絡が来ていないか。

 次に会う予定はないか。

 ほんの少し、忙しくなっていた。

     

「で、合宿どうだった?」

 駅前のファミレスで、沙耶が尋ねた。

 向かい側には知佳が座っている。それくらいなら気軽にできる。

 俺たち3人で会うのは、合宿が終わってから初めてだった。

 きっかけは沙耶からの連絡だ。

『せっかく夏休みなんだから、どこかでお昼でも食べない?』

 大学の授業がない時期に、わざわざ学校へ行く理由もない。待ち合わせて食事をして、少し話すだけ。

「合宿はどうだったの?」

「楽しかったよ。最終日には知佳とも一緒に演奏したぞ」

 知佳はグラスを置き、

「……うん。楽しかった」

「なら、よし」

「へぇ」

 沙耶は満足そうに頷いた。

 合宿の最後、俺たちは真帆と3人で演奏した。

 あのときの音は、今でも耳に残っている。

 特別な演奏だったと思う。

「そういえば、合宿の写真、私にも見せてよ」

 沙耶が言った。

「知佳、持ってる?」

「……何枚か」

「葵も持ってる?」

「まあ、何枚かは」

「じゃあ、見せて見せて」

 その場で2人でスマホを取り出す。

 沙耶が興味深そうに見ている。

 知佳は、ほんの少し恥ずかしそうだ。

「あんたたち、結構一緒に写ってるね」

「まぁその撮影者と俺たちの3人でトリオ組んだしな」

 真帆の近くにいると、自然と写真の数も多くなる。

「今度の合同ライブも一緒だし」

「うん。後期に入ったらまた練習しないとね」

「まぁしばらくは個人練習メインだな」

「そうだね」

「それで、知佳」

 黙って写真を見ていた沙耶が画面を消した。

「夏休み、他に予定あるの?」

「……サークル以外は、特にない」

「じゃあ、今度どこか行こうよ」

「どこか?」

「映画とか、買い物とか」

「うん、行こう」 

 そうこうしていると注文した料理が運ばれてきた。

 それから他愛のない話で1時間ほど過ごす。

 沙耶が最近見た映画の話。

 知佳が家で聴いていた音楽の話。

 俺がギターの弦を張り替えた話。

 「本当に2人の雑談は音楽メインだね」

 沙耶は笑いながら、知佳の肩を軽く叩いた。

「まあ、2人が仲良くなっててよかったよ」

 知佳は返事をしなかった。


 数日後、俺はスタジオ練習に参加した。

 場所は、藤沢駅から少し離れたビルの2階。

 参加するメンバーで費用を割り勘にして、数時間だけ部屋を借りる。

 決して安くはない。

 けれど、家では大きな音を出せないし、ドラムも叩けない。

 楽器を持ち寄って合わせるなら、結局こういう場所が必要になる。

 受付を済ませ、ギターケースを背負ったまま廊下を歩く。

 防音扉の向こうから、ドラムの音が漏れていた。

 夏休みだというのに、ほかの部屋もそれなりに埋まっているらしい。

「葵くん、こっち」

 恵先輩が、部屋の前で手を振っていた。

「おはようございます」

「おはよう。暑かったでしょ」

「暑かったです。駅から遠いですね、ここ」

「そうなんだよね。だから、みんな来られるときだけ来る感じ」

 恵先輩は笑いながら、部屋の扉を開けた。

 中では、すでに美月先輩がドラムセットの準備をしている。

 恵先輩はベースのチューニング中だったらしい。

 知佳はキーボードの前で楽譜を見ている。

 いつもの部室とは違う、少し狭い空間だった。

 それでも、楽器が並んでいるのを見ると、自然と気持ちが落ち着く。

 ちなみに真帆は帰省中のため欠席。

「今日は何をやります?」

「前半は、みんなで合わせられる曲をざっと。そのあと、やりたい人が自由に練習する感じかな」

「わかりました」

 俺はギターを取り出した。

 手早くチューニングし、アンプにつなぐ。

 その間に、恵先輩がベースを肩に掛けた。

「ねえ、葵くん」

「はい?」

「この前話した曲、覚えてる?」

「ベースが格好いいやつですか?」

「そう、それ」

 恵先輩が楽譜を出す。

「この曲、ちょっと合わせてみたいんだよね」

「俺でよければ」

「もちろん」

 俺たちは、初めて合わせる曲に挑戦した。

 軽く個人練習していたので、意外と手は周った。

 最初は、短いフレーズに分けて何度か繰り返す。

「わりといい感じかも」

「なるほど。ベースがカッコいいですね」

「うん。ギターがメインのパートだけど、ここはベースの動きを生かしたいんだよね」

「確かに、そっちの方が気持ちいいですね」

「でしょ?」

 恵先輩は嬉しそうだった。

 音楽の話をしているときの先輩は、普段より少しだけ熱がこもる。

 綺麗な人だと思う。

 それは、もう当然のこととして。

 今はそれだけではなかった。

 5弦ベースを構えたときの姿は格好いいし、好きな音楽を話すときは、こちらまで楽しくなる。

「葵くん?」

「あ、はい」

「何か考え事?」

「いえ、何でもないです」

「ふうん?」

 恵先輩は不思議そうに首を傾げたあと、笑った。

「じゃあ、もう1回やろうか」

「いきましょう」

 俺たちは、再び楽器を構えた。

 言葉がなくても、音を出せば伝わることがある。

 恵先輩と合わせていると、そう思う。

 合宿で知佳と演奏したときにも、同じことを感じた。

 音楽は、そういうところが面白い。

 

 練習が終わる頃には、腕が少し疲れていた。

 スタジオ代を精算し、楽器を片づける。

 外へ出ると、あいかわらず街は暑かった。

「お疲れさま」

 恵先輩が言った。

「お疲れさまでした」

「今日、楽しかった?」

「はい。やっぱり、音を合わせるのは楽しいですね」

「よかった」

恵先輩は、ギターケースを背負う俺を見て、

「今度は、葵くんの好きな曲も聴かせてね」

「もちろんです」

「約束」

「約束です」

 先輩は満足そうに頷いた。

 それから、少しだけ声の調子を変えた。

「そういえば、知佳ちゃんとは最近どう?」

「……知佳?」

 美月先輩と知佳が少し離れた場所を歩いているのを見て、突然おかしなことを言う。

「うん。合宿で仲良くなったでしょ?」

「まあ、そうですね」

「一緒に演奏してるところ、楽しそうだったから」

 俺は少し考えた。

「知佳は、音楽の話をすると結構話してくれるんですよ。普段は口数少ないけど」

「そうなんだ」

「最初は、ちょっと怖そうだと思ってたんですけどね」

「ふふ。知佳ちゃん、目つきが鋭いもんね」

「そうなんですよ」

「でも、笑うとかわいいでしょ?」

 思わず、言葉に詰まった。

「……まあ」

 恵先輩は、俺の顔をじっと見た。

「へえ」

「何ですか」

「別に?」

 その言い方が、この前の沙耶にそっくりだった。

 俺は思わず眉を寄せる。

「何か、みんな同じ反応するんですけど」

「みんな?」

「あ、いや」

 恵先輩は、くすくす笑った。

「葵くんって、わかりやすいね」

「何がですか」

「さあ?」

 先輩はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、別れ際に一度だけ、俺の顔を覗き込むようにして言った。

「また一緒に弾こうね」

「はい」

 その笑顔に、俺は少しだけ胸が騒いだ。

    

 翌日、俺は知佳と2人で出かけた。

 きっかけは、合宿のときに話していた楽器屋のことだった。

『キーボードと、周辺機器も少し見てみたい』

 知佳からそんなメッセージが来たのだ。

 俺も弦を買いたかったので、横浜駅で待ち合わせることにした。

 待ち合わせ場所に着くと、知佳はすでに来ていた。

 黒い服に、いつもの長い黒髪。

 相変わらず、黙って立っていると少し近寄りがたい。

 けれど、俺を見つけると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。

「……おはよう」

「おはよう。すまん待たせたか?」

「ううん。今来たところ」

「そうか、じゃあ、行こうか」

「うん」

 楽器屋は、冷房がよく効いていた。

 俺はギターの弦を見に行き、知佳はキーボードのコーナーへ向かった。

 しばらくすると、知佳が俺を呼んだ。

「葵、これ」

「ん?」

「この音、どう思う?」

 知佳が鍵盤を押す。

 柔らかい音が店内に広がった。

「へぇ、こんな音も出せるんだ」

「なんていうか、柔らかい音」

「知佳が好きそう」

「え、なんで?」

「ちょっとオルガンっぽくて、メロディックにハマる音だと思うから」

「なるほど、そういう」

 店を出たあと、俺たちは駅まで並んで歩いた。

 人通りの多い西口を、2人でゆっくり進む。

 昼前の、ちょうど込み合う前だったから、食事に行くことに。

 …少し歩いて、ランチ1100円のピザ屋に入った。

 注文が済むと、会話は自然と、合宿の演奏のことに。

「また、あの曲やりたいな」

 すぐに頷く知佳。

「……うん。今度は、もっとちゃんと弾きたい」

「俺も練習しとくよ」

「……じゃあ、また一緒にやろう」

「ああ」

 それだけの約束だった。

 また一緒に。

 ただの音楽の話だ。

 けれど。

 好きな音の話ができる。

 自分が選んだ音を、葵がちゃんと聴いてくれる。

 何より、2人で出かけようと誘ってくれたのは知佳だった。

 特に意味はないかもしれない。

 けど、なんというか、もう少しだけ一緒にいたいと思った。

 すると、

「……葵」

「ん?」

「今日、楽しかった?」

「楽しかったよ」

 楽器見て、楽譜見て、ピザ食べて、たくさん話して。

「知佳と音楽の話するの、楽しいし」

「……そっか」

 知佳は顔を背けた。

「知佳?」

「何?」

「いや、急に黙るから」

「なんでもないよ」

「そうか」

 それ以上はやめておいた。

 知佳は、一見いつも通りだ。

 その顔を見て、俺は思った。

 もっと、こんな時間がほしい。

 ……どうして、そんなことを思ったのか。

     

 翌日、夜。

 俺は、真帆から届いたメッセージを見返していた。

 夏休み中に、また遊ぼう。

 真帆はそう言っていた。

 特に日程も場所も指定は無い。

 それなのに、俺は少しだけ楽しみにしている。

 真帆といると、気を張らなくていい。

 何でもない話をして、笑って、気がつけば時間が過ぎている。

 告白を撤回したあとも、真帆は以前と変わらない調子で接してくれた。

 だから、俺も以前のように接することができている。

 ……本当に、以前と同じなのだろうか。

 ふと、そんな疑問が浮かんだりもした。

 もし真帆が、もう一度気持ちを伝えてきたら。

 俺は、どうするのだろう。

 答えが出なかった。

 そもそも、まだ何も起きていない。

 真帆は、ただ遊びに行こうと言っただけだ。

 それなのに、先のことを考えている。

 

 俺はスマホを伏せた。

 窓の外では、蝉が鳴いていた。

 夏休みは、まだ続く。

 恵先輩と音を合わせる時間。

 知佳と好きな曲を共有する時間。

 真帆と以前のように笑える時間。

 それぞれが、少しずつ俺の日常になり始めていた。

 そして、気づけば。

 誰かから連絡が来ると嬉しい。

 次に会う約束ができると、少し楽しみになる。

 相手によって、楽しみ方も、胸のざわつき方も違う。

 その違いを、俺はまだうまく説明できない。

 恵先輩は、憧れの人だ。

 そう思っている。

 知佳は、気になる同級生だ。

 ……たぶん。

 真帆は、何でも話せる友達だ。

 そうであってほしい、とも思う。

 けど。

 それぞれの顔を思い浮かべると、どれも少しずつ、言い切れない気がした。

 俺はベッドに寝転がり、天井を見上げた。

 恋愛なんて、もっと簡単なものだと思っていた。

 好きなら好き。

 そうでないなら、そうでない。

 高校時代の友達が恋愛の話をしていたときも、俺はどこか他人事だった。

 誰かを好きになるというのは、もっとはっきりした感情なのだと思っていた。

 でも、今は違う。

 会いたいと思う相手がいる。

 もっと話したいと思う相手がいる。

 笑顔を見ると、なぜか嬉しくなる相手がいる。

 それが同じ人なら、簡単だったのかもしれない。

 けれど、俺の周りには。

 それぞれ違う形で、気になる人がいる。

 ……で、俺はどうしたいんだ?

 答えは返ってこない。

 スマホが震えた。

 画面には、知佳からのメッセージが表示されていた。

『この前話した曲、別のバージョンも見つけた。今度、聴いてみる?』

 俺は、すぐに返事を打った。

『聴きたい。今度聴かせて』

 送信してから、画面を見つめる。

 少しして、返信が来た。

『……うん。また連絡する』

 その短い言葉を、俺は何度か読み返した。

 そして、ふと思う。

 もし今、恵先輩から同じようなメッセージが来たら。

 もし真帆から、2人で出かける日を決めようと連絡が来たら。

 俺は、同じように嬉しくなるのだろうか。

 たぶん、なる。

 でも。

 その嬉しさは、同じなのだろうか。

 ……わからない。

 俺はスマホを胸の上に置いた。

 夏は、まだ長い。

 答えを出すには、少し早い。

 そう思う一方で。

 いつか真帆に言われた言葉を思い出す。


 ――で、どっちなの?


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