第12章 ……で、どっちなの?
合宿が終わってから、10日ほどが過ぎた。
8月の藤沢は、相変わらず暑かった。
昼間に外を歩けば、アスファルトから立ち上る熱気に息が詰まる。夕方になっても気温はなかなか下がらず、窓を開けても、入ってくるのはぬるい風ばかりだった。
大学は夏休み。
後期の授業が始まるまで、まだ1か月ほどある。
8月いっぱいは大学の施設も自由に使えない。サークルの練習で普段の教室を借りることもできず、ototteの活動は、外部の音楽スタジオや公民館を利用することになっていた。
スタジオを借りれば、それなりに金がかかる。
公民館なら比較的安く済むが、予約が結構埋まっていてそう気軽に使えない。
アルバイトをしているメンバーもいるし、帰省している人もいる。そもそも、夏休みまで毎日のようにサークル活動をしたい人間ばかりではなかった。
俺は合宿後に少し帰省し、高校時代の友人に会ったりした。
帰ってきてからは自宅でギターを弾いたり、久しぶりに作曲活動などをしていた。
そして、合宿が終わってから、以前よりスマホを見る回数が増えた気がする。
誰かから連絡が来ていないか。
次に会う予定はないか。
ほんの少し、忙しくなっていた。
「で、合宿どうだった?」
駅前のファミレスで、沙耶が尋ねた。
向かい側には知佳が座っている。
俺たち3人で会うのは、合宿が終わってから初めてだった。
きっかけは沙耶からの連絡だ。
『せっかく夏休みなんだから、どこかでお昼でも食べない?』
大学の授業がない時期に、わざわざ学校へ行く理由もない。待ち合わせて食事をして、少し話すだけ。
「合宿はどうだったの?」
「楽しかったよ。最終日には知佳とも一緒に演奏したぞ」
知佳はグラスを置き、
「……うん。楽しかった」
「なら、よし」
「へぇ」
沙耶は満足そうに頷いた。
合宿の最後、俺たちは真帆と3人で演奏した。
あのときの音は、今でも耳に残っている。
特別な演奏だったと思う。
「そういえば、合宿の写真、私にも見せてよ」
沙耶が言った。
「知佳、持ってる?」
「……何枚か」
「葵も持ってる?」
「まあ、何枚かは」
「じゃあ、見せて見せて」
その場で2人でスマホを取り出す。
沙耶が興味深そうに見ている。
知佳は、ほんの少し恥ずかしそうだ。
「あんたたち、結構一緒に写ってるね」
「まぁその撮影者と俺たちの3人でトリオ組んだしな」
真帆の近くにいると、自然と写真の数も多くなる。
「今度の合同ライブも一緒だし」
「うん。後期に入ったらまた練習しないとね」
「まぁしばらくは個人練習メインだな」
「そうだね」
「それで、知佳」
黙って写真を見ていた沙耶が画面を消した。
「夏休み、他に予定あるの?」
「……サークル以外は、特にない」
「じゃあ、今度どこか行こうよ」
「どこか?」
「映画とか、買い物とか」
「うん、行こう」
そうこうしていると注文した料理が運ばれてきた。
それから他愛のない話で1時間ほど過ごす。
沙耶が最近見た映画の話。
知佳が家で聴いていた音楽の話。
俺がギターの弦を張り替えた話。
「本当に2人の雑談は音楽メインだね」
沙耶は笑いながら、知佳の肩を軽く叩いた。
「まあ、2人が仲良くなっててよかったよ」
知佳は返事をしなかった。
数日後、俺はスタジオ練習に参加した。
場所は、藤沢駅から少し離れたビルの2階。
参加するメンバーで費用を割り勘にして、数時間だけ部屋を借りる。
決して安くはない。
けれど、家では大きな音を出せないし、ドラムも叩けない。
楽器を持ち寄って合わせるなら、結局こういう場所が必要になる。
受付を済ませ、ギターケースを背負ったまま廊下を歩く。
防音扉の向こうから、ドラムの音が漏れていた。
夏休みだというのに、ほかの部屋もそれなりに埋まっているらしい。
「葵くん、こっち」
恵先輩が、部屋の前で手を振っていた。
「おはようございます」
「おはよう。暑かったでしょ」
「暑かったです。駅から遠いですね、ここ」
「そうなんだよね。だから、みんな来られるときだけ来る感じ」
恵先輩は笑いながら、部屋の扉を開けた。
中では、すでに美月先輩がドラムセットの準備をしている。
恵先輩はベースのチューニング中だったらしい。
知佳はキーボードの前で楽譜を見ている。
いつもの部室とは違う、少し狭い空間だった。
それでも、楽器が並んでいるのを見ると、自然と気持ちが落ち着く。
ちなみに真帆は帰省中のため欠席。
「今日は何をやります?」
「前半は、みんなで合わせられる曲をざっと。そのあと、やりたい人が自由に練習する感じかな」
「わかりました」
俺はギターを取り出した。
手早くチューニングし、アンプにつなぐ。
その間に、恵先輩がベースを肩に掛けた。
「ねえ、葵くん」
「はい?」
「この前話した曲、覚えてる?」
「ベースが格好いいやつですか?」
「そう、それ」
恵先輩が楽譜を出す。
「この曲、ちょっと合わせてみたいんだよね」
「俺でよければ」
「もちろん」
俺たちは、初めて合わせる曲に挑戦した。
軽く個人練習していたので、意外と手は周った。
最初は、短いフレーズに分けて何度か繰り返す。
「わりといい感じかも」
「なるほど。ベースがカッコいいですね」
「うん。ギターがメインのパートだけど、ここはベースの動きを生かしたいんだよね」
「確かに、そっちの方が気持ちいいですね」
「でしょ?」
恵先輩は嬉しそうだった。
音楽の話をしているときの先輩は、普段より少しだけ熱がこもる。
綺麗な人だと思う。
それは、もう当然のこととして。
今はそれだけではなかった。
5弦ベースを構えたときの姿は格好いいし、好きな音楽を話すときは、こちらまで楽しくなる。
「葵くん?」
「あ、はい」
「何か考え事?」
「いえ、何でもないです」
「ふうん?」
恵先輩は不思議そうに首を傾げたあと、笑った。
「じゃあ、もう1回やろうか」
「いきましょう」
俺たちは、再び楽器を構えた。
言葉がなくても、音を出せば伝わることがある。
恵先輩と合わせていると、そう思う。
合宿で知佳と演奏したときにも、同じことを感じた。
音楽は、そういうところが面白い。
練習が終わる頃には、腕が少し疲れていた。
スタジオ代を精算し、楽器を片づける。
外へ出ると、あいかわらず街は暑かった。
「お疲れさま」
恵先輩が言った。
「お疲れさまでした」
「今日、楽しかった?」
「はい。やっぱり、音を合わせるのは楽しいですね」
「よかった」
恵先輩は、ギターケースを背負う俺を見て、
「今度は、葵くんの好きな曲も聴かせてね」
「もちろんです」
「約束」
「約束です」
先輩は満足そうに頷いた。
それから、少しだけ声の調子を変えた。
「そういえば、知佳ちゃんとは最近どう?」
「……知佳?」
美月先輩と知佳が少し離れた場所を歩いているのを見て、突然おかしなことを言う。
「うん。合宿で仲良くなったでしょ?」
「まあ、そうですね」
「一緒に演奏してるところ、楽しそうだったから」
俺は少し考えた。
「知佳は、音楽の話をすると結構話してくれるんですよ。普段は口数少ないけど」
「そうなんだ」
「最初は、ちょっと怖そうだと思ってたんですけどね」
「ふふ。知佳ちゃん、目つきが鋭いもんね」
「そうなんですよ」
「でも、笑うとかわいいでしょ?」
思わず、言葉に詰まった。
「……まあ」
恵先輩は、俺の顔をじっと見た。
「へえ」
「何ですか」
「別に?」
その言い方が、この前の沙耶にそっくりだった。
俺は思わず眉を寄せる。
「何か、みんな同じ反応するんですけど」
「みんな?」
「あ、いや」
恵先輩は、くすくす笑った。
「葵くんって、わかりやすいね」
「何がですか」
「さあ?」
先輩はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、別れ際に一度だけ、俺の顔を覗き込むようにして言った。
「また一緒に弾こうね」
「はい」
その笑顔に、俺は少しだけ胸が騒いだ。
翌日、俺は知佳と2人で出かけた。
きっかけは、合宿のときに話していた楽器屋のことだった。
『キーボードと、周辺機器も少し見てみたい』
知佳からそんなメッセージが来たのだ。
俺も弦を買いたかったので、横浜駅で待ち合わせることにした。
待ち合わせ場所に着くと、知佳はすでに来ていた。
黒い服に、いつもの長い黒髪。
相変わらず、黙って立っていると少し近寄りがたい。
けれど、俺を見つけると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。
「……おはよう」
「おはよう。すまん待たせたか?」
「ううん。今来たところ」
「そうか、じゃあ、行こうか」
「うん」
楽器屋は、冷房がよく効いていた。
俺はギターの弦を見に行き、知佳はキーボードのコーナーへ向かった。
しばらくすると、知佳が俺を呼んだ。
「葵、これ」
「ん?」
「この音、どう思う?」
知佳が鍵盤を押す。
柔らかい音が店内に広がった。
「へぇ、こんな音も出せるんだ」
「なんていうか、柔らかい音」
「知佳が好きそう」
「え、なんで?」
「ちょっとオルガンっぽくて、メロディックにハマる音だと思うから」
「なるほど、そういう」
店を出たあと、俺たちは駅まで並んで歩いた。
人通りの多い西口を、2人でゆっくり進む。
昼前の、ちょうど込み合う前だったから、食事に行くことに。
…少し歩いて、ランチ1100円のピザ屋に入った。
注文が済むと、会話は自然と、合宿の演奏のことに。
「また、あの曲やりたいな」
すぐに頷く知佳。
「……うん。今度は、もっとちゃんと弾きたい」
「俺も練習しとくよ」
「……じゃあ、また一緒にやろう」
「ああ」
それだけの約束だった。
また一緒に。
ただの音楽の話だ。
けれど。
好きな音の話ができる。
自分が選んだ音を、葵がちゃんと聴いてくれる。
何より、2人で出かけようと誘ってくれたのは知佳だった。
特に意味はないかもしれない。
けど、なんというか、もう少しだけ一緒にいたいと思った。
すると、
「……葵」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「楽しかったよ」
楽器見て、楽譜見て、ピザ食べて、たくさん話して。
「知佳と音楽の話するの、楽しいし」
「……そっか」
知佳は顔を背けた。
「知佳?」
「何?」
「いや、急に黙るから」
「なんでもないよ」
「そうか」
それ以上はやめておいた。
知佳は、一見いつも通りだ。
その顔を見て、俺は思った。
もっと、こんな時間がほしい。
……どうして、そんなことを思ったのか。
翌日、夜。
俺は、真帆から届いたメッセージを見返していた。
夏休み中に、また遊ぼう。
真帆はそう言っていた。
特に日程も場所も指定は無い。
それなのに、俺は少しだけ楽しみにしている。
真帆といると、気を張らなくていい。
何でもない話をして、笑って、気がつけば時間が過ぎている。
告白を撤回したあとも、真帆は以前と変わらない調子で接してくれた。
だから、俺も以前のように接することができている。
……本当に、以前と同じなのだろうか。
ふと、そんな疑問が浮かんだりもした。
もし真帆が、もう一度気持ちを伝えてきたら。
俺は、どうするのだろう。
答えが出なかった。
そもそも、まだ何も起きていない。
真帆は、ただ遊びに行こうと言っただけだ。
それなのに、先のことを考えている。
俺はスマホを伏せた。
窓の外では、蝉が鳴いていた。
夏休みは、まだ続く。
恵先輩と音を合わせる時間。
知佳と好きな曲を共有する時間。
真帆と以前のように笑える時間。
それぞれが、少しずつ俺の日常になり始めていた。
そして、気づけば。
誰かから連絡が来ると嬉しい。
次に会う約束ができると、少し楽しみになる。
相手によって、楽しみ方も、胸のざわつき方も違う。
その違いを、俺はまだうまく説明できない。
恵先輩は、憧れの人だ。
そう思っている。
知佳は、気になる同級生だ。
……たぶん。
真帆は、何でも話せる友達だ。
そうであってほしい、とも思う。
けど。
それぞれの顔を思い浮かべると、どれも少しずつ、言い切れない気がした。
俺はベッドに寝転がり、天井を見上げた。
恋愛なんて、もっと簡単なものだと思っていた。
好きなら好き。
そうでないなら、そうでない。
高校時代の友達が恋愛の話をしていたときも、俺はどこか他人事だった。
誰かを好きになるというのは、もっとはっきりした感情なのだと思っていた。
でも、今は違う。
会いたいと思う相手がいる。
もっと話したいと思う相手がいる。
笑顔を見ると、なぜか嬉しくなる相手がいる。
それが同じ人なら、簡単だったのかもしれない。
けれど、俺の周りには。
それぞれ違う形で、気になる人がいる。
……で、俺はどうしたいんだ?
答えは返ってこない。
スマホが震えた。
画面には、知佳からのメッセージが表示されていた。
『この前話した曲、別のバージョンも見つけた。今度、聴いてみる?』
俺は、すぐに返事を打った。
『聴きたい。今度聴かせて』
送信してから、画面を見つめる。
少しして、返信が来た。
『……うん。また連絡する』
その短い言葉を、俺は何度か読み返した。
そして、ふと思う。
もし今、恵先輩から同じようなメッセージが来たら。
もし真帆から、2人で出かける日を決めようと連絡が来たら。
俺は、同じように嬉しくなるのだろうか。
たぶん、なる。
でも。
その嬉しさは、同じなのだろうか。
……わからない。
俺はスマホを胸の上に置いた。
夏は、まだ長い。
答えを出すには、少し早い。
そう思う一方で。
いつか真帆に言われた言葉を思い出す。
――で、どっちなの?
合宿が終わってから、10日ほどが過ぎた。
8月の藤沢は、相変わらず暑かった。
昼間に外を歩けば、アスファルトから立ち上る熱気に息が詰まる。夕方になっても気温はなかなか下がらず、窓を開けても、入ってくるのはぬるい風ばかりだった。
大学は夏休み。
後期の授業が始まるまで、まだ1か月ほどある。
8月いっぱいは大学の施設も自由に使えない。サークルの練習で普段の教室を借りることもできず、ototteの活動は、外部の音楽スタジオや公民館を利用することになっていた。
スタジオを借りれば、それなりに金がかかる。
公民館なら比較的安く済むが、予約が結構埋まっていてそう気軽に使えない。
アルバイトをしているメンバーもいるし、帰省している人もいる。そもそも、夏休みまで毎日のようにサークル活動をしたい人間ばかりではなかった。
俺は合宿後に少し帰省し、高校時代の友人に会ったりした。
帰ってきてからは自宅でギターを弾いたり、久しぶりに作曲活動などをしていた。
そして、合宿が終わってから、以前よりスマホを見る回数が増えた気がする。
誰かから連絡が来ていないか。
次に会う予定はないか。
ほんの少し、忙しくなっていた。
「で、合宿どうだった?」
駅前のファミレスで、沙耶が尋ねた。
向かい側には知佳が座っている。それくらいなら気軽にできる。
俺たち3人で会うのは、合宿が終わってから初めてだった。
きっかけは沙耶からの連絡だ。
『せっかく夏休みなんだから、どこかでお昼でも食べない?』
大学の授業がない時期に、わざわざ学校へ行く理由もない。待ち合わせて食事をして、少し話すだけ。
「合宿はどうだったの?」
「楽しかったよ。最終日には知佳とも一緒に演奏したぞ」
知佳はグラスを置き、
「……うん。楽しかった」
「なら、よし」
「へぇ」
沙耶は満足そうに頷いた。
合宿の最後、俺たちは真帆と3人で演奏した。
あのときの音は、今でも耳に残っている。
特別な演奏だったと思う。
「そういえば、合宿の写真、私にも見せてよ」
沙耶が言った。
「知佳、持ってる?」
「……何枚か」
「葵も持ってる?」
「まあ、何枚かは」
「じゃあ、見せて見せて」
その場で2人でスマホを取り出す。
沙耶が興味深そうに見ている。
知佳は、ほんの少し恥ずかしそうだ。
「あんたたち、結構一緒に写ってるね」
「まぁその撮影者と俺たちの3人でトリオ組んだしな」
真帆の近くにいると、自然と写真の数も多くなる。
「今度の合同ライブも一緒だし」
「うん。後期に入ったらまた練習しないとね」
「まぁしばらくは個人練習メインだな」
「そうだね」
「それで、知佳」
黙って写真を見ていた沙耶が画面を消した。
「夏休み、他に予定あるの?」
「……サークル以外は、特にない」
「じゃあ、今度どこか行こうよ」
「どこか?」
「映画とか、買い物とか」
「うん、行こう」
そうこうしていると注文した料理が運ばれてきた。
それから他愛のない話で1時間ほど過ごす。
沙耶が最近見た映画の話。
知佳が家で聴いていた音楽の話。
俺がギターの弦を張り替えた話。
「本当に2人の雑談は音楽メインだね」
沙耶は笑いながら、知佳の肩を軽く叩いた。
「まあ、2人が仲良くなっててよかったよ」
知佳は返事をしなかった。
数日後、俺はスタジオ練習に参加した。
場所は、藤沢駅から少し離れたビルの2階。
参加するメンバーで費用を割り勘にして、数時間だけ部屋を借りる。
決して安くはない。
けれど、家では大きな音を出せないし、ドラムも叩けない。
楽器を持ち寄って合わせるなら、結局こういう場所が必要になる。
受付を済ませ、ギターケースを背負ったまま廊下を歩く。
防音扉の向こうから、ドラムの音が漏れていた。
夏休みだというのに、ほかの部屋もそれなりに埋まっているらしい。
「葵くん、こっち」
恵先輩が、部屋の前で手を振っていた。
「おはようございます」
「おはよう。暑かったでしょ」
「暑かったです。駅から遠いですね、ここ」
「そうなんだよね。だから、みんな来られるときだけ来る感じ」
恵先輩は笑いながら、部屋の扉を開けた。
中では、すでに美月先輩がドラムセットの準備をしている。
恵先輩はベースのチューニング中だったらしい。
知佳はキーボードの前で楽譜を見ている。
いつもの部室とは違う、少し狭い空間だった。
それでも、楽器が並んでいるのを見ると、自然と気持ちが落ち着く。
ちなみに真帆は帰省中のため欠席。
「今日は何をやります?」
「前半は、みんなで合わせられる曲をざっと。そのあと、やりたい人が自由に練習する感じかな」
「わかりました」
俺はギターを取り出した。
手早くチューニングし、アンプにつなぐ。
その間に、恵先輩がベースを肩に掛けた。
「ねえ、葵くん」
「はい?」
「この前話した曲、覚えてる?」
「ベースが格好いいやつですか?」
「そう、それ」
恵先輩が楽譜を出す。
「この曲、ちょっと合わせてみたいんだよね」
「俺でよければ」
「もちろん」
俺たちは、初めて合わせる曲に挑戦した。
軽く個人練習していたので、意外と手は周った。
最初は、短いフレーズに分けて何度か繰り返す。
「わりといい感じかも」
「なるほど。ベースがカッコいいですね」
「うん。ギターがメインのパートだけど、ここはベースの動きを生かしたいんだよね」
「確かに、そっちの方が気持ちいいですね」
「でしょ?」
恵先輩は嬉しそうだった。
音楽の話をしているときの先輩は、普段より少しだけ熱がこもる。
綺麗な人だと思う。
それは、もう当然のこととして。
今はそれだけではなかった。
5弦ベースを構えたときの姿は格好いいし、好きな音楽を話すときは、こちらまで楽しくなる。
「葵くん?」
「あ、はい」
「何か考え事?」
「いえ、何でもないです」
「ふうん?」
恵先輩は不思議そうに首を傾げたあと、笑った。
「じゃあ、もう1回やろうか」
「いきましょう」
俺たちは、再び楽器を構えた。
言葉がなくても、音を出せば伝わることがある。
恵先輩と合わせていると、そう思う。
合宿で知佳と演奏したときにも、同じことを感じた。
音楽は、そういうところが面白い。
練習が終わる頃には、腕が少し疲れていた。
スタジオ代を精算し、楽器を片づける。
外へ出ると、あいかわらず街は暑かった。
「お疲れさま」
恵先輩が言った。
「お疲れさまでした」
「今日、楽しかった?」
「はい。やっぱり、音を合わせるのは楽しいですね」
「よかった」
恵先輩は、ギターケースを背負う俺を見て、
「今度は、葵くんの好きな曲も聴かせてね」
「もちろんです」
「約束」
「約束です」
先輩は満足そうに頷いた。
それから、少しだけ声の調子を変えた。
「そういえば、知佳ちゃんとは最近どう?」
「……知佳?」
美月先輩と知佳が少し離れた場所を歩いているのを見て、突然おかしなことを言う。
「うん。合宿で仲良くなったでしょ?」
「まあ、そうですね」
「一緒に演奏してるところ、楽しそうだったから」
俺は少し考えた。
「知佳は、音楽の話をすると結構話してくれるんですよ。普段は口数少ないけど」
「そうなんだ」
「最初は、ちょっと怖そうだと思ってたんですけどね」
「ふふ。知佳ちゃん、目つきが鋭いもんね」
「そうなんですよ」
「でも、笑うとかわいいでしょ?」
思わず、言葉に詰まった。
「……まあ」
恵先輩は、俺の顔をじっと見た。
「へえ」
「何ですか」
「別に?」
その言い方が、この前の沙耶にそっくりだった。
俺は思わず眉を寄せる。
「何か、みんな同じ反応するんですけど」
「みんな?」
「あ、いや」
恵先輩は、くすくす笑った。
「葵くんって、わかりやすいね」
「何がですか」
「さあ?」
先輩はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、別れ際に一度だけ、俺の顔を覗き込むようにして言った。
「また一緒に弾こうね」
「はい」
その笑顔に、俺は少しだけ胸が騒いだ。
翌日、俺は知佳と2人で出かけた。
きっかけは、合宿のときに話していた楽器屋のことだった。
『キーボードと、周辺機器も少し見てみたい』
知佳からそんなメッセージが来たのだ。
俺も弦を買いたかったので、横浜駅で待ち合わせることにした。
待ち合わせ場所に着くと、知佳はすでに来ていた。
黒い服に、いつもの長い黒髪。
相変わらず、黙って立っていると少し近寄りがたい。
けれど、俺を見つけると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。
「……おはよう」
「おはよう。すまん待たせたか?」
「ううん。今来たところ」
「そうか、じゃあ、行こうか」
「うん」
楽器屋は、冷房がよく効いていた。
俺はギターの弦を見に行き、知佳はキーボードのコーナーへ向かった。
しばらくすると、知佳が俺を呼んだ。
「葵、これ」
「ん?」
「この音、どう思う?」
知佳が鍵盤を押す。
柔らかい音が店内に広がった。
「へぇ、こんな音も出せるんだ」
「なんていうか、柔らかい音」
「知佳が好きそう」
「え、なんで?」
「ちょっとオルガンっぽくて、メロディックにハマる音だと思うから」
「なるほど、そういう」
店を出たあと、俺たちは駅まで並んで歩いた。
人通りの多い西口を、2人でゆっくり進む。
昼前の、ちょうど込み合う前だったから、食事に行くことに。
…少し歩いて、ランチ1100円のピザ屋に入った。
注文が済むと、会話は自然と、合宿の演奏のことに。
「また、あの曲やりたいな」
すぐに頷く知佳。
「……うん。今度は、もっとちゃんと弾きたい」
「俺も練習しとくよ」
「……じゃあ、また一緒にやろう」
「ああ」
それだけの約束だった。
また一緒に。
ただの音楽の話だ。
けれど。
好きな音の話ができる。
自分が選んだ音を、葵がちゃんと聴いてくれる。
何より、2人で出かけようと誘ってくれたのは知佳だった。
特に意味はないかもしれない。
けど、なんというか、もう少しだけ一緒にいたいと思った。
すると、
「……葵」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「楽しかったよ」
楽器見て、楽譜見て、ピザ食べて、たくさん話して。
「知佳と音楽の話するの、楽しいし」
「……そっか」
知佳は顔を背けた。
「知佳?」
「何?」
「いや、急に黙るから」
「なんでもないよ」
「そうか」
それ以上はやめておいた。
知佳は、一見いつも通りだ。
その顔を見て、俺は思った。
もっと、こんな時間がほしい。
……どうして、そんなことを思ったのか。
翌日、夜。
俺は、真帆から届いたメッセージを見返していた。
夏休み中に、また遊ぼう。
真帆はそう言っていた。
特に日程も場所も指定は無い。
それなのに、俺は少しだけ楽しみにしている。
真帆といると、気を張らなくていい。
何でもない話をして、笑って、気がつけば時間が過ぎている。
告白を撤回したあとも、真帆は以前と変わらない調子で接してくれた。
だから、俺も以前のように接することができている。
……本当に、以前と同じなのだろうか。
ふと、そんな疑問が浮かんだりもした。
もし真帆が、もう一度気持ちを伝えてきたら。
俺は、どうするのだろう。
答えが出なかった。
そもそも、まだ何も起きていない。
真帆は、ただ遊びに行こうと言っただけだ。
それなのに、先のことを考えている。
俺はスマホを伏せた。
窓の外では、蝉が鳴いていた。
夏休みは、まだ続く。
恵先輩と音を合わせる時間。
知佳と好きな曲を共有する時間。
真帆と以前のように笑える時間。
それぞれが、少しずつ俺の日常になり始めていた。
そして、気づけば。
誰かから連絡が来ると嬉しい。
次に会う約束ができると、少し楽しみになる。
相手によって、楽しみ方も、胸のざわつき方も違う。
その違いを、俺はまだうまく説明できない。
恵先輩は、憧れの人だ。
そう思っている。
知佳は、気になる同級生だ。
……たぶん。
真帆は、何でも話せる友達だ。
そうであってほしい、とも思う。
けど。
それぞれの顔を思い浮かべると、どれも少しずつ、言い切れない気がした。
俺はベッドに寝転がり、天井を見上げた。
恋愛なんて、もっと簡単なものだと思っていた。
好きなら好き。
そうでないなら、そうでない。
高校時代の友達が恋愛の話をしていたときも、俺はどこか他人事だった。
誰かを好きになるというのは、もっとはっきりした感情なのだと思っていた。
でも、今は違う。
会いたいと思う相手がいる。
もっと話したいと思う相手がいる。
笑顔を見ると、なぜか嬉しくなる相手がいる。
それが同じ人なら、簡単だったのかもしれない。
けれど、俺の周りには。
それぞれ違う形で、気になる人がいる。
……で、俺はどうしたいんだ?
答えは返ってこない。
スマホが震えた。
画面には、知佳からのメッセージが表示されていた。
『この前話した曲、別のバージョンも見つけた。今度、聴いてみる?』
俺は、すぐに返事を打った。
『聴きたい。今度聴かせて』
送信してから、画面を見つめる。
少しして、返信が来た。
『……うん。また連絡する』
その短い言葉を、俺は何度か読み返した。
そして、ふと思う。
もし今、恵先輩から同じようなメッセージが来たら。
もし真帆から、2人で出かける日を決めようと連絡が来たら。
俺は、同じように嬉しくなるのだろうか。
たぶん、なる。
でも。
その嬉しさは、同じなのだろうか。
……わからない。
俺はスマホを胸の上に置いた。
夏は、まだ長い。
答えを出すには、少し早い。
そう思う一方で。
いつか真帆に言われた言葉を思い出す。
――で、どっちなの?




