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第11章 初めての夏、河口湖 (後編)

 夕食後、夜にかけて、合宿所の周りは少しずつ賑やかになる。

 まず、風呂に向かる人たち。

 湖散策から戻ってきた連中が玄関先で靴を脱ぎ、釣りに出ていた先輩たちが釣果を見せ合っている。

 近くの店まで買い出しに行ったメンバーは、両手いっぱいに袋を抱えていた。

 俺はというと、部屋に戻ってギターをさわっていた。

 今夜の夜練習には、真帆も呼んで曲の仕上げに向かおうと思った。

 ……いや、仕上げと言っても、まだ何か決まっているわけじゃない。

 ただ、せっかくの合宿だ。 気安く呼べるいい機会だ。

 真帆の声なら、メロディックメタルにも相性は悪くないだろうし。 

 俺はスマホを取り出し、真帆にメッセージを送った。

『今日の夜、ちょっと曲合わせない?』

 すぐに返信が来た。

『いいよ! 知佳も一緒?』

『まだ聞いてない』

『じゃあ、誘ってみようよ』

 言われてみれば、その通りだった。

 俺は知佳にもメッセージを送った。

 少しして、短い返事が届く。

『いいよ。何時?』

『夕食のあと、談話室で』

『わかった』

 こういうときの知佳は、いつも返事が簡潔だ。

 けれど、断られなかったことのはいいことだ。

     

 夕食のあと、俺たちは1階の談話室に集まった。

 真帆は、なぜかスマホと小さなノートを持ってきていた。

「真帆、そのノート何?」

「メモ帳だけど?」

「何をメモするんだ?」

「今日のこととか、面白かったこととか。あと、写真を撮ったときに気づいたこととか」

「日記みたいなもの?」

「うーん、ちょっと違うかな。あとで見返したら、楽しいかなって」

 真帆はそう言って笑った。

「葵も書いてみる?」

「俺はいいや。ギターの練習記録なら書いてるけど」

「えっ、そうなの?」

「弾けなかったところとか、練習した内容とか」

「意外。ちゃんとしてるんだね」

「意外は余計だろ」

 そんなやり取りをしていると、知佳がキーボードの前に座った。

「で、何やるの?」

「そうだなあ」

 俺はギターを構えながら考えた。

 普段なら恵先輩や美月先輩の好きな曲を合わせるところだが、今回はメンバーが違う。

 せっかくなら違うこともやってみたい。

「知佳って、どんな曲が好きなんだ?」

「……いろいろ」

「それ、さっきも聞いた」

「じゃあ、いろいろだよ」

「いや、もう少し具体的に」

 知佳は少しだけ考えた。

「……メタル」

「メタル?」

「うん。メロディックメタル」

「へえ。意外だな」

「何が?」

「いや、ピアノやってたって聞いてたから、クラシックとか好きなのかなって」

「クラシックも聴くよ。で、メロディックメタルはクラシックとの親和性が高い」

「どんなの?」

 知佳はスマホを取り出した。

 画面を操作しながら、いくつか曲名を挙げる。

 その中には、俺が名前を聞いたことのないバンドもあった。

「北欧系が好きなんだ」

「北欧系?」

「うん。メロディが綺麗なのに、音は重いところとか。あと、キーボードの使い方が好き」

 さっきまでより、少しだけ言葉が増えている。

 知佳は自分の好きな音楽について話すとき、普段より表情が柔らかくなるらしい。

「へえ。そういうの、ちゃんと聴いたことないな」

「……聴いてみる?」

「うん。今度おすすめ教えてよ」

「……いいよ」

 知佳はスマホをしまった。

 その横で、真帆が楽しそうにしている

「知佳、今ちょっと嬉しそうだったね」

「……別に」

「そう?」

「そう」

 知佳は顔をそらした。

 俺は思わずにやけてしまった。

「何?」

「いや、なんでも」

 結局、その夜は特定の曲を完成させることはできなかった。

 ただ、知佳が弾くメロディに俺がコードを合わせ、真帆がリズムを取りながら手拍子をする。

 何度か繰り返すうちに、少しずつ音がまとまっていく。

 曲になっているのかどうかも怪しい。

 けど、今はそれで十分だった。

     

 合宿3日目。

 朝食を食べたあと、俺たちは午前中いっぱい練習をした。

 午後には自由時間が設けられ、湖畔を散歩する者、釣りをする者、近くの店へ出かける者と、それぞれ好きなように過ごした。

 俺はギターを持って談話室に残った。

 そこへ恵先輩がやってきた。

「葵くん、練習?」

「はい。せっかくギター持ってきたんで」

「偉いねえ」

「いや、暇なだけです」

「じゃあ、一緒に練習しよう」

 恵先輩はベースを抱え、近くの椅子に腰を下ろした。

 俺は少し緊張しながら、いつも練習している曲を弾いた。

 弾き終えると、恵先輩は小さく拍手をしてくれた。

「いいじゃん」

「ありがとうございます」

「でも、ちょっと力が入りすぎかな」

「え?」

「速いところで、音を全部押し込もうとしてる感じがする」

 押し込もうとしてる、か。

 言われてみればそういうとこあるかもな。

「一回、力を抜いて弾いてみて」

 恵先輩がそう言うので、俺はもう一度同じフレーズを弾いた。

 今度は少しだけ、音が軽くなった。

「あ、こっちの方がいい」

「でしょ?」

 恵先輩は嬉しそうに頷いた。

 そうか、フレーズの細かさで力んでたんだな。

「音楽って、頑張ればいいってものでもないからね」

「……難しいですね」

「うん。でも、そこが面白いんだよ」

 そう言って、恵先輩は笑った。

 綺麗な人だ。

 それは、何度会っても変わらない。

 けれど、こうして楽器の話をしていると、ただ憧れるだけの相手ではなくなっていく気がした。

 俺と同じように、音を出すことが好きな人。

 それが少し嬉しかった。

     

 4日目も、4日目も、似たような時間が流れた。

 朝は食堂で顔を合わせ、午前中は練習。

 午後はわりと自由な時間。

 夕食のあとには談話室に集まって練習したり。

 宴会場ではすでに結束の固まった面々が築きあげられていた。

 普段なら話す機会のない先輩とも、よく言葉を交わすようになった。

 俺の名前を覚えてなかった先輩に名前を覚えてもらったり。

 サークルに入ったばかりの頃は、知らない人ばかりで落ち着かなかった。

 けれど、今では同じ部屋に入れば誰かが声をかけてくれる。

 たった数日しか経っていないのに、ここが自分の居場所になりつつある。

 もちろん、まだろくに話してない人もいる。

 全員と仲良くなったわけでもない。

 それでも。

 この合宿に来てよかった。

 そう思えるようになっていた。

 そして、8月7日の夕食後。

 談話室に集まっていた俺たちの前で、サークル長が手を叩いた。

「はい、みんな。ちょっと聞いて」

 話し声が静まる。

「明日の夜、九時から、ちょっとした催しをやろうと思います」

「催し?」

「そう。演奏のお披露目会。まあ、かくし芸大会みたいなものかな」

 誰かが「おお」と声を上げた。

「本格的なライブじゃないよ。歌でも楽器でも、手品でも、何でもあり。出たい人だけ出ればいいから」

「美月先輩も何かやるんですか?」

 近くにいた2年生が尋ねた。

「私は司会かな。あとは、気が向いたらドラムでも叩こうかな」

 美月先輩は気楽に笑った。

「せっかくの合宿だしね。最後にみんなで楽しめたらいいなって」

 その言葉に、周囲の学生たちが盛り上がる。

 俺も面白そうだと思った。

 ただ、まさか自分が出ることになるとは、そのときは考えていなかった。

「葵くん」

 美月先輩が、俺の方を向いた。

「出てみない?」

「いや、俺は……」

「1人じゃなくてもいいよ」

 美月先輩は、俺の隣に座っていた知佳と真帆を見た。

「3人で何かやったら?」

「えっ、私たち?」

 真帆が目を丸くした。

 知佳も驚いたように顔を上げる。

「そう。せっかく一緒に練習してるんでしょ?」

「いや、練習っていうか……」

 俺が言いかけると、美月先輩は笑った。

「上手いかどうかは関係ないよ。こういうのは、やってみたら楽しいから」

 そう言われると、断りにくい。

 俺は二人を見た。

 真帆は少し困ったように笑っていた。

 知佳は何か考えているようだった。

「……知佳はどう?」

 俺が聞くと、知佳は少しだけ視線を泳がせた。

「……やるなら」

「やるなら?」

「……好きな曲がいい」

「もちろん。何が好きなんだ?」

 知佳は少し迷ってから、口を開いた。

「こないだの北欧メタル」

「おお……」

 真帆が声を上げた。

「ボーカル劇ムズの…」

「……うん」

「知佳がやりたいなら、それやろうよ」

 俺は思わず言った。

「え?」

 知佳がこちらを見る。

「せっかくだし。知佳が好きな曲、俺もちゃんと聴いてみたい」

「……いいの?」

「もちろん」

 知佳は少しだけ目を見開いた。

 それから、ゆっくりと頷いた。

「……じゃあ、これ」

 スマホを取り出し、曲を見せてくれる。

 俺は画面を覗き込んだ。

 知らないバンド名。

 知らない曲名。

 けれど、知佳が好きだというなら、やってみたいと思った。

「キビしいね」

 真帆が笑った。

「大丈夫。キーボードもギターも鬼だから」

 こうして、俺たちは翌日の演奏お披露目会に出ることになった。

 1日で人前に出れるレベルに…

 とりあえず、今日の睡眠は諦めるか。

     

 8月8日。

 朝食を終えると、俺たちはさっそく練習を始めた。

 選んだ曲は、知佳が何度も聴いているという北欧系タルの曲だった。

 メロディは美しい。

 けれど、ギターのフレーズは思っていたよりも細かく、テンポも速い。

「……これ、かなり難しくないか?」

 譜面と動画を見比べながら、俺は思わず呟いた。

「……うん」

 知佳が申し訳なさそうに頷く。

「ごめん。好きだから、つい」

「いや、謝らなくていいって。面白そうだし」

 そう言いながらも、俺は内心で焦っていた。

 普段弾いているロックとは、リズムの取り方もフレーズの組み立ても違う。

「キーボードパートを広げて、ギターの負担は多少軽くするから」

「うーん、それは、素直に甘えるよ」

 しかし、原曲にはドラムもベースもある。

 この3人だけで、どうやって演奏するのか。

「ドラムは打ち込みにしよう」

 知佳が言った。

「打ち込み?」

「うん。原曲のドラムを参考にして、リズムを作る。再生できるようにしておけば、私たちはそれに合わせて演奏できるから」

「なるほど」

「それの操作は、大変だろうけど真帆お願い」

「うーん、まあ、なんとかなるでしょ」

「ベースラインは、私のキーボードで鳴らす」

「知佳が?」

「……うん。音色をベースにすれば、キーボードでもそれらしくなると思う」

 俺は感心した。

「すごいな。キーボードもかなりヤバいのに、そんなこともできるんだ」

「ベースラインは本体内に打ち込む。ドラムとは別に」

「なるほど、変則3ピースだしそれぐらいしないとな」

「できるかどうかは、やってみないとわからないけど」

 知佳はそう言って、キーボードの前に座った。

 真帆は俺たちのやり取りを聞きながら、ノートを開いた。

「今日は、なにを手伝えばいい?」

「真帆は……」

 知佳は少し考えた。

 ギターとキーボード、それに打ち込みのドラム。

 曲の構成を確認し、練習を進めるには、もう一人いると助かる。

「曲の進行を確認してくれないか? どこからどこまで何回繰り返すかとか。俺たち、弾くのに集中すると、その辺を間違えそうだし」

「なるほど。任せて」

 真帆は嬉しそうに頷いた。

「あと、練習を録音して、気づいたことをメモするね」

「助かる」

「ついでにボーカルの練習もしなきゃね」

「実は一番大変なの真帆かもな」

「いいよ。それも楽しそうだし。私も何か音を出した方がいいなら言ってね」

「うん。必要なら相談しよう」

 3人の役割が決まった。

 知佳がベースラインを準備する。

 俺はドラムの打ち込みをして、そしてギターのフレーズを覚える。

 真帆は曲の構成を整理し、練習を録音して、3人が合わせやすいように支える。

 そしてこれも難しいボーカルも。

 やることは多い。

 しかも、本番は今夜だ。

「……間に合うかな」

 俺が呟くと、知佳が顔を上げた。

「間に合わせる」

 短い言葉だった。

 が、そこには、妙な力があった。

 いつもの、少し控えめな知佳とは違う。

 好きな音楽を演奏する。

 そのことに、彼女は本気なのだ。

「よし。じゃあ、始めよう」

 俺たちは楽譜を中心に集まる。

     

 練習は、思った以上に大変だった。

 まず、打ち込みのドラムに合わせるのが難しい。

 人間が叩くドラムなら、ほんのわずかな揺れがある。けれど、打ち込みは正確だ。こちらが少しでも遅れると、ずれがはっきりわかる。

「葵、今ちょっと遅れた」

「わかってる。もう一回」

 真帆がドラムの音源を再生する。

 カウント。

 ギター。

 キーボード。

 途中までは合う。

 しかし、速いフレーズに入ったところで、俺の指がもつれた。

「……ああ、くそっ」

 音が止まる。

 真帆が顔を上げた。

「大丈夫?」

「大丈夫。もう1回やればいける」

「うん。今のところ、あと少しだったよ」

「じゃあ、行こう」

 再び、打ち込みが鳴り始めた。

 今度は、さっきよりも少しだけうまくいった。

 けれど、まだ完全ではない。

 何度も止まり、何度もやり直した。

 昼食の時間になっても、俺たちは練習部屋を離れなかった。

「……お昼、どうする?」

 真帆が聞いた。

 時計を見ると、もう十二時を過ぎていた。

「ご飯、まだ間に合うかな」

「行こう。午後も練習するんだし」

 俺たちは楽器を片づけ、食堂へ向かった。

 昼食を食べながらも、話題は演奏のことだった。

「ここ、もう少しゆっくり弾いた方がいいかな」

「でも、原曲のテンポは変えたくない」

「じゃあ、俺がもっと頑張るしかないか」

「……無理はしないでね」

 知佳が言った。

「せっかく好きな曲をやるんだから、楽しく弾きたい」

「そうだな」

 俺は頷いた。

 上手く弾くことばかり考えていた。

 でも、知佳がこの曲を選んだのは、誰かに評価されたいからではない。

 好きだから。

 自分の好きな音楽を、誰かと一緒に演奏したいからだ。

 それなら、俺も同じ気持ちでいたい。

 午後の練習では、少しだけ考え方を変えた。

 難しいフレーズを完璧に弾こうとするのではなく、まずは曲全体を止まらずに通す。

 多少のミスは気にしない。

 音がずれても、次の小節で戻る。

 そうやって何度も繰り返すうちに、少しずつ形になってきた。

 真帆も、録音を聴きながら細かな部分を確認してくれた。

「今の、よかったよ」

「本当?」

「フレーズが短くなった分、むしろ音がまとまってた」

 知佳が嬉しそうに頷く。

「……もう1回やろう」

「よし。もう回」

「おー!」

     

 18時、最後の夕食はまさかのステーキ。

 先輩曰く、最後だけ予算を上積みしたとか。

 嬉しいが、これで最後か、と寂しくもある。

 また来年も来たいな。

 …なんて少し遠い目をしていると、知佳がやってきて、

 「あと一度だけ通しておきたい」

 午後の練習で、ようやく最後まで止まらずに演奏できたのだ。

 最後にリハーサルをしておこう。

 …が、完成度は、まだ高くない。

 原曲と比べれば、足りない部分はいくらでもある。

 それでも、3人で合わせた音には、確かな手応えがあった。

「……良くなったね」

 真帆が言った。

「まあ正直上手くはないが、人前で演奏できるくらいにはなったかな」

「うん。最初よりずっとよくなった」

 知佳はキーボードから手を離し、少しだけ息を吐いた。

「……ありがとう」

「何が?」

 俺が聞くと、知佳は少し困ったような顔をした。

「2人とも、付き合ってくれて」

「いや、俺も楽しかったよ」

 俺は素直に答えた。

「知佳が好きな曲を知れたし」

「私も。知佳がこんなに楽しそうに音楽の話をするなんて、知らなかった」

「……そんなに楽しそうだった?」

「うん」

「……なんか恥ずかしい」

「いいじゃん。好きなものの話をしてるときって、そういうものだよ」

 俺が言うと、知佳は少しだけ目を伏せた。

 そして、小さな声で言った。

「……また、こういうのやりたい」

「またやろうよ」

 俺はすぐに答えた。

「合宿が終わってからでも、サークルで合わせればいいし」

「……うん」

 知佳は頷いた。

 その表情は、いつもよりずっと柔らかかった。

     

 午後9時。

 集会室に、メンバー全員が集まっていた。

 みんな床に座り、壁際には楽器が置かれている。

 サークル長が前に立った。

「それじゃあ、始めます。合宿最後の夜、有志によるお披露目会!」

 拍手と歓声が上がった。

「上手い下手は関係ないからね。失敗しても笑って終わり。みんなで楽しくいこう」

 恵先輩がそう言うと、会場から歓声が起きた。

 最初は、2年生の男子2人によるギター&コーラスだった。

 緊張しているのか、歌い始めは少し声が震えていた。

 けれど、サビに入る頃には落ち着き、最後まで歌い切ると大きな拍手が送られた。

 次は、女子数人によるダンス。

 その次は、先輩たちによるコント。

 演奏だけではない。

 本当に、かくし芸大会のような雰囲気だった。

 誰かが失敗すれば笑いが起き、うまくいけば歓声が上がる。

 ステージに立つ側も、客席にいる側も、みんな楽しそうだった。

「……緊張してきた」

 真帆が、小さく呟いた。

「今さら?」

「今さらだよ。だって、人前で何かするのって久しぶりなんだもん」

「俺だって、こんなに大勢の目の前で弾くのは初めてだよ」

「葵は高校でバンドやってたんでしょ?」

「ライブハウスでやったことはあるけど、あれは知ってる連中ばっかりだったし、そもそも遠い」

「そっか」

 真帆は少し笑った。

 知佳はというと、キーボードの前で黙って指を動かしていた。

 頭の中で曲を確認しているのだろう。

「知佳、大丈夫?」

 俺が声をかけると、彼女は顔を上げた。

「……うん」

「緊張してない?」

「してる」

 即答だった。

「でも、やりたい」

 美月先輩が、こちらに手招きした。

「次、3人の出番だよ。準備できてる?」

「はい!」

 真帆が返事をした。

 俺もギターを構える。

 知佳はキーボードの前に座った。

 いよいよだ。

     

「それでは、次の演目!」

 美月先輩の声が、談話室に響く。

「1年生3人による、北欧メタルの演奏です!」

 客席から、少し驚いたような声が上がった。

「北欧メタル?」

「どんな曲だ?」

「まさかあんな変態を1年生がやるのか?」

 そんな囁きが聞こえる。

 俺たちは顔を見合わせた。

 真帆が小さく頷く。

 知佳はキーボードの上に指を置いた。

 俺はギターのストラップを肩にかけ直す。

 打ち込みのドラムを再生する準備を整えた。

 知佳が、こちらを見る。

「……いくよ」

「ああ」

「お願い」

 真帆が頷いた。

 カウントが鳴る。

 そして、演奏が始まった。

 最初に響いたのは、打ち込みのドラムだった。

 正確なリズムが、部屋の空気を切り替える。

 その上に、知佳のキーボードが重なった。

 透明感のあるメロディ。

 静かで、どこか寂しげな旋律。

 そして、俺のギターが入る。

 歪んだ音が、旋律を支える。

 普段弾いているロックとは違う。

 速いフレーズ。

 細かなリズム。

 少しでも気を抜けば、すぐにずれてしまう。

 それでも。

 俺は、知佳の音を聴いていた。

 打ち込みのリズムだけを追うのではなく、キーボードのメロディを聴く。

 知佳がどこへ向かおうとしているのか。

 その音を頼りに、自分のギターを重ねる。

 真帆は、しっかりと音に乗ってうたっている。

 予定どおりに進んでいるか。

 繰り返しの回数は合っているか。

 俺たちが練習してきた流れを、3人で共有している。

 中盤。

 俺が一瞬、指を滑らせた。

 しまった、と思った。

 けれど、演奏は止まらなかった。

 知佳のキーボードがメロディをつなぎ、打ち込みのドラムがリズムを保つ。

 俺は次の小節で立て直した。

 練習で何度も失敗した場所だった。

 でも、今は止まらなかった。

 最後のサビに入る。

 知佳の指が、鍵盤の上を滑る。

 俺はギターを弾きながら、その横顔を見た。

 目は真剣だった。

 いつもは少し怖そうに見える目が、今はキーボードに向かって開かれている。

 この曲が好きなのだ。

 この音を、誰かと一緒に鳴らしたかったのだ。

 その気持ちが、伝わってくるようだった。

 そして。

 真帆のシャウトで曲が終わる。


 余韻が、談話室に残る。

 一瞬の静寂。

 そのあと。

 拍手が起こった。

 最初はまばらだった音が、すぐに大きくなる。

「おお、かっこいい!」

「これ、1年生なの?」

「キーボードすごかった!」

「ボーカルのハイトーンボイスも上手かったな」

 そんな声が聞こえた。

 俺は、ようやく息を吐いた。

「……終わった」

 真帆が振り向いて、

「終わったね!」

 知佳はキーボードの前に座ったまま、少し呆然としていた。

「知佳?」

 俺が呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げた。

「……楽しかった」

 その声は、小さかった。

 けれど、はっきりしていた。

「うん。俺も」

 俺が答える。

 真帆も頷いた。

「私も。3人でやれてよかった」

 知佳は、少しだけ笑った。

 その笑顔を見て、俺も嬉しくなった。

 演奏の出来がどうだったのか、正直なところ、よくわからない。

 ミスもあった。

 完璧とは言えなかった。

 でも。

 3人で最後まで演奏できた。

 それだけで、十分だった。

     

 お披露目会が終わったあとも、談話室はしばらく賑やかだった。

 誰かが感想を言い合い、別の誰かが次の曲を弾き始める。

 美月先輩が俺たちのところへやってきた。

「お疲れさま。良かったよ、3人とも」

「ありがとうございます」

 俺が頭を下げる。

「特に、あの編成が面白かったね。打ち込みのドラムにキーボードでベースラインを重ねるなんて」

「知佳が考えたんです」

「へえ。知佳、すごいじゃん」

 知佳は少し恥ずかしそうに俯いた。

「……そんなことないです」

「謙遜しなくていいの。好きな音楽をちゃんと形にできたんだから」

 その言葉に、知佳は小さく頷いた。

 真帆は、スマホを取り出していた。

「ねえ、3人で写真撮ろうよ」

「写真?」

「うん。今日の記念」

「いいな。撮ろう」

 俺たちはキーボードの前に並んだ。

 美月先輩ががスマホを構えてくれる。

「はい、こっち向いて」

 シャッター音が鳴った。

 画面を覗き込むと、俺は少し照れくさそうな顔をしていた。

 知佳はいつものように少し表情が硬い。

 真帆は、いつもどおりの笑顔だった。

「……いい写真だな」

「でしょ?」

 真帆が嬉しそうに言う。

「あとで送るね」

「ああ。頼むよ」

 俺が答えると、真帆は少しだけ俺を見た。

「……こういうの、いいね」

「何が?」

「3人で何かするの」

 真帆は、いつもの調子で笑った。

「また、何かやろうよ」

「うん。やろう」

 俺は頷いた。

 知佳も、小さく頷いた。

 その約束が、これからどういう形になるのかはわからない。

 ただ、今は。

 また3人で音を合わせたいと思った。

     

 8月9日。

 合宿最終日の朝は、いつもより少しだけ静かだった。

 荷物をまとめる音。

 廊下を歩く足音。

 食堂から漂ってくる朝食の匂い。

 6泊も過ごした宿なのに、帰るとなると、急に見慣れない場所のように感じられる。

 いつもより少し豪華な、固形燃料で焼くハムエッグと、刺身が少しと、筑前煮の朝食を終えて。

 俺たちは玄関前に集まった。

 全員で集合写真を撮るらしい。

「もっと詰めてー!」

 誰かが声を上げる。

「後ろ、背の高い人!」

「前の人、しゃがんで!」

 そんな声が飛び交う。

 俺は同じ1年生の男子の隣に立った。

「いやあ、終わっちまったな」

 彼が言った。

「そうだな」

「帰りたくねえ」

「昨日まで、早く帰りたいって言ってなかったか?」

「それはそれ。これはこれ」

「なんだよ、それ」

 集合写真の撮影が終わると、バスへ荷物を積み込む。

 宿の人にお礼を言い、俺たちは河口湖をあとにした。

 窓の外を、夏の景色が流れていく。

 湖。

 山。

 今日は天気がいいから、富士山もよく見える。

 やっぱりまた来たいな。

 楽しいのはもちろんだが、プレイヤーとしても成長できた合宿だった。

 ギターを弾いてくれた先輩。

 夜中のトークで笑わせてくれた同期。

 練習に付き合ってくれた仲間。

 そして。

 斜め前の席で窓の外を見ている知佳。

 その隣で、撮った写真を整理している真帆。

 この合宿で、俺は何か特別なことを成し遂げたわけではない。

 劇的な出会いがあったわけでもない。

 誰かと急に親しくなったわけでもない。

 ただ、みんなと同じ場所で過ごした。

 きっと今の俺は、新たな「帰る場所」ができたんだ。

 名古屋に帰れば、昔からの友達がいる。

 家族もいる。

 けれど、神奈川にも。

 ここにも、自分がいていい場所がある。

 そう思えたことが、何より嬉しかった。

「……葵」

 声をかけられて、俺は顔を上げた。

 知佳だった。

「ん?」

「……昨日の曲」

「うん?」

「また、やろうね」

 知佳は控えめに言った。

 その言葉は、いつもより少しだけ柔らかかった。

「ああ。もちろん」

 俺が答えると、知佳は小さく頷いた。

 少し前の席から、真帆が振り返った。

「私も参加するからね!」

「わかってるよ」

「忘れないでよ?」

「忘れるわけないだろ」

 俺が笑うと、真帆も笑った。

 また窓の外を見る。

 夏の空は、どこまでも青かった。

 

 楽しい時間からの去り際、どうしてもネガティブな感情も浮かぶ。

 これから先、何があるのかはわからない。

 楽しいことばかりではないかもしれない。

 悩むこともあるだろう。

 誰かとすれ違うこともあるかもしれない。

 それでも。

 この合宿で知ったことがある。

 音楽は、人を繋げる。

 同じ曲を好きになること。

 一緒に音を鳴らすこと。

 誰かの好きなものを知り、自分の好きなものを伝えること。

 そんな小さなことが、人との距離を少しずつ変えていく。

 3人で演奏した夜のことを、きっと俺は忘れない。

 河口湖で過ごした6泊7日。

 初めての夏合宿。

 俺にとって、それはただの旅行ではなかった。

 関係の薄かった人たちともたくさん話した。

 仲間とは、更に仲良くなった。

 恵先輩といっぱい練習して、いっぱい話した。

 知佳とも、濃密な時間を過ごしてグッと距離が縮まった気がする。

 真帆とも美月先輩とも、先週よりずっと仲良くなれた。


 予定通りだ。

 この1週間は、最高に楽しかった。

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