第八話 その女は、レーダ・カモンではありません
公会堂での講演会から一夜明け、王都中央通信社は続報を出した。
見出しは、前の記事より少し小さい。
――エイデット侯爵、精神的弟子を否定。
その下には、講演台に立つレーダ・カモンの写真が載っていた。
記事を掲げ、客席へ何事か説明している横顔である。髪はきちんとまとめられ、背筋も伸びている。原稿の束を前にした姿だけを見れば、よく準備をしてきた女性講師にしか見えない。
記事には、フリートが弟子関係を否定したこと、レーダへ私的な手紙を送っていないこと、記事の入稿日が彼女の手紙より前だったことが記されていた。
最後に、サミュエル・ペインの署名でこう続いている。
――カモン女史は、侯爵本人から繰り返し否定された後も、自らの解釈を変えなかった。
――本人の言葉を、本人以上に知っていると考えることが、理解と呼べるかは甚だ疑問である。
*
中央通信社の編集室で、サミュエルは刷り上がった紙面を見ていた。
「ずいぶん削ってくれましたね……」
「お前が自分だけは途中で正気に戻ったように書くからだ」
編集長は次の新聞へ目を移す。
「戻りましたよ!」
「起こされたんだ」
「……はい」
反論しなくなっただけでも、前の記事を書いた頃よりはましだった。
「王都新報社にも、校正を見せたそうだな」
「事実関係の確認です」
「ブリッジ夫人に頭を下げたか」
「下げました」
「それならいい」
編集長は紙面を畳んだ。
「……しかし、この写真はよく撮れているな」
「講師らしく見えますね」
「だから厄介だ」
吐き捨てるように編集長は言う。サミュエルも写真を見る。
昨日、あれほど話が通じなかった女には見えないのが不思議だ。落ち着きがあり、知的で、堂々としている。
記事を読まず写真だけを見た者なら、何か不当な扱いを受けた女性だと思うかもしれなかった。
*
翌日の午後、王都新報社には問い合わせが相次いだ。
「エイデット思想研究会へ入りたいのですが」
「こちらでは扱っておりません」
「では、どちらへ?」
「主催者ご本人へお尋ねください」
「カモン女史の住所は?」
「お教えできません」
受話器を置いた若い事務員は、机へ額をつけた。
「また入会希望です」
「一人研究会の人数が増えるのね」
校正紙へ目を落としたまま、オーレリーがくすくすと笑う。
「笑い事ですか」
「笑うしかないでしょう」
「先日の講演を聞いて、どうして入ろうと思うんでしょう」
「侯爵の読者が皆、侯爵と同じように考えるとは限らないわ」
オーレリーは赤い鉛筆を置いた。
「それに、記事になったものは、記事になったというだけで本当らしく見えるものよ」
「うちの記事もですか」
「当然でしょう」
若い事務員は少し姿勢を正す。そこへ受付から、別の事務員が顔を出す。
「ブリッジ夫人。地方から長距離通信が入っています」
「どちらから?」
「ボルネ男爵家です」
オーレリーの手が止まった。覚えの無い名だった。
「カモン女史について、確認したいことがあるそうです」
*
その日の朝、王都から離れたボルネ男爵領へ新聞が届いた。
鉄道駅までは定期便があるものの、そこから男爵家までは馬車で半日かかる。王都の騒ぎが新聞になる頃には、現地では二日が過ぎていた。
朝食の席で新聞を広げたボルネ男爵は、記事の途中で動きを止めた。
「これは」
夫の声に、向かいに座る夫人が顔を上げる。
「どうなさいました?」
男爵は写真へ指を置いた。
「ドナだ!」
夫人が新聞を引き寄せる。
髪型も服装も、普段とは違っている。だが顔立ちは間違えようがない。
「ええ」
夫人の声が低くなる。
「これはドナ・サドンデスです」
「何がレーダ・カモンだ!」
男爵は記事を最初から読み直した。
――エイデット侯爵の精神的な弟子。
――言葉を通じた長い交流。
――侯爵夫人には理解できない思想。
――公会堂での講演。
――そして、侯爵本人による否定。
「家令を呼べ!」
ほどなく、ドナの父親も食堂へ呼ばれた。男爵の従弟で、領内の小さな館と農地を預かっている。
「なあ、これはお前の娘だな」
新聞を差し出され、父親は写真を見たまま固まった。
「……ええ、これは間違いなく、ドナです」
「あれは今、何をしている」
「先月、少し旅へ出ると……」
「少しとは何日だ?」
「十日ほどで戻ると聞いておりました」
「いつ出た?」
「三週間ほど前です……」
男爵夫人が記事へ目を落とす。
「王都で、地方から出てきた家庭教師と名乗ったそうですよ」
「教師であることは間違いありませんが……」
「そんな話をしているのではない」
男爵は家令へ向き直った。
「学校へ確認を。正式に休みを取っているか」
「ただちに」
「それから、レーダ・カモンという名について調べろ」
父親がためらいがちに口を開いた。
「その名なら、以前から使っておりました」
「知っていたのか」
「地方紙へ教育について投稿する時の筆名として」
「本名ではないことを、先方は知っていたのか」
「おそらくは……」
「王都では本人の名として使っているぞ」
父親は口を開いたまま、何も答えられなかった。男爵夫人が新聞の写真をもう一度見る。
「そう言えば、ドナはこの自分の名を好んでいませんでしたね」
「はい、古い、響きが重い、と昔から……」
「だからといって、別の名になれるわけではありませんわ」
しばらく食堂では誰も席を立たなかった。やがて入ってきた家令は、手に数枚の書き付けを持っている。
「旦那様、学校へ確認いたしました」
「どうだった」
「休暇は取っておりません」
父親が顔を上げる。
「では、どうして」
「母親が重い病に倒れ、急ぎ看病へ戻ると伝えたそうです」
「え? わたくしは元気ですが」
この時食堂には、その母親もいた。男爵夫人が額へ手を当てる。
「家には旅! 学校には母親の病気! 王都では家庭教師!」
「職業だけは同じだな」
皮肉げな男爵の言葉に、気弱な父親はますます小さくなった。
「学校では、何か問題を?」
「これまで大きな問題はなかったそうです。子供達へ熱心に教え、通えない者の家へも足を運んでいたと」
「だから余計に信用されたのか」
「はい」
男爵はしばらく黙り、やがて新聞を畳んだ。
「カストル家へ知らせろ」
父親が息をのむ。
「あ、あの…… 婚約者のお家へは、まだ」
「新聞に顔まで載っている」
「ですが、事情をもう少し」
「事情を確かめるために知らせるのだ」
男爵は立ち上がった。
「それから、エイデット侯爵家と王都新報社へ長距離通信を」
「中央通信社へも?」
「まずは侯爵家と、普段侯爵の原稿を扱っている新聞社だ」
家令が通信文をざっくりと作る。
「記事の女性は、当家の縁者ドナ・サドンデスと思われる。現在、身元と経緯を確認中。本人が訪ねた場合は、可能であれば所在を知らせていただきたい――でよろしいですか?」
「近日中に王都へ参上し、正式にお詫び申し上げる、と付け加えろ」
「承知いたしました」
「近日中とは?」
男爵夫人が尋ねる。
「明朝出る」
「鉄道駅まで半日ですよ」
「分かっている」
王都まで鉄道と馬車を乗り継ぎ、早くとも三日はかかる。それでも、これ以上遅らせるわけにはいかなかった。
*
同じ頃、カストル男爵家にも記事は届いていた。
若い当主代理のベルナー・カストルは、写真入りの紙面を机の上へ置いたまま、家令の報告を聞いている。
「ボルネ男爵家から連絡です。記事の女性は、ドナ嬢で間違いないだろうと」
「そうだろうな」
ベルナーは写真から目を離さなかった。
「男爵一行は王都へ向かうそうです」
「いつ?」
「明朝」
「俺も行く!」
家令がわずかに眉を動かす。
「先方からは、まだ正式な同行の依頼は」
「待っていれば、これはまた話が増えるぞ」
昨日から、知人や親戚から問い合わせが来ていた。
――婚約者を侯爵に奪われた男。
――運命の恋のために身を引かされる気の毒な男。
――政略結婚の片割れ。
どれもベルナーが口にしたことではない。
「若様とドナ嬢の婚約は、現在も」
「続いてはいるんだ」
「では、記事は」
「俺の知ったことか!」
ベルナーは机の引き出しを開けた。中には、ドナから届いた最後の手紙がある。
――少し旅へ出ます。戻ったら婚礼の日取りを決めましょう。
それだけの、ごく普通の手紙だった。
「俺との婚約まで、侯爵との物語に使っているのか」
「まさか」
「今のあいつに、まさかがあるか」
家令は答えられなかった。
「ボルネ男爵へ同行を申し入れろ。それから王都の宿を手配してくれ」
「かしこまりました」
ベルナーは新聞を折った。
「本人の口から聞く」
――何を考えている。自分との婚約を、何だと思っていたのか!
ベルナーの中で怒りがふつふつと燃えたぎる。
王都へ着くまで、まだ何日もある。
その間にも、ドナは新しい話を作り続けているのだろう、と彼は思った。
*
ボルネ男爵家からの通信がエイデット侯爵家へ届いたのは、その日の夕方だった。
フリートは執務室で読み、マルンナのいる居間へ持っていった。
マルンナはモネの隣で、青い刺繍の糸の絡まりをほどいている。
「何か分かったの?」
「あの女の身元だ」
通信文を渡す。
「本名は、ドナ・サドンデス」
「やはりレーダ・カモンではないのね」
「ボルネ男爵家の縁者。教師をしていることは本当らしい」
「家出?」
「家には旅と言い、学校には母親の看病と伝えた」
マルンナは通信文を読み直した。
「王都へ来るそうね」
「早くとも四日後だ」
「その間、あの方はどうするのかしら」
「また何か書くだろう」
「おとうさまー」
モネが顔を上げた。
「これ、ほどけない」
フリートは娘の隣へ座り、絡まった青い糸を受け取った。
「少し待ってくれ」
「うん」
マルンナは通信文を卓へ置く。
「男爵家の方々は、ずいぶん驚いているでしょうね」
「婚約者もいるそうだ」
「まあ」
今度ばかりは、マルンナも言葉を失った。
「あの年頃では、夫がいてもおかしくないと思っていたけれど」
「まだ婚約者だ」
「その方は何も知らなかったの?」
「記事で知ったらしい」
フリートは器用に糸を一本ずつ緩めていく。
「では、その方まで勝手な話へ入れられたのね」
「ああ」
糸がほどける。モネは嬉しそうに受け取り、また刺繍枠へ向かった。
「おとうさま、ありがと」
「どういたしまして」
マルンナは娘の頭を撫でる。
外では、知らない女が夫との長い交流を語っている。
その女にも、本名があり、家族があり、仕事があり、婚約者までいた。
記事の中には、一つも出てこなかったものばかりだ。
「四日ね」
ふう、とマルンナはため息をつく。
「少なくとも」
「それまでは、少し普通に暮らしましょう」
フリートは妻を見る。
「暮らしているつもりだ」
「あなた、朝食の最中まで証拠の一覧を読んでいたでしょう」
「仕事だ」
「けど、モネが蜂蜜をこぼしたのにも気付かなかったわ」
「こぼしたのか?」
「ほら」
フリートは娘を見る。モネは知らない顔をして、刺繍枠へ顔を近づけている。
「わかった。今日はもう書類を持ち込まない」
「約束よ?」
「ああ」
マルンナは通信文を折った。
ボルネ男爵家が王都へ着くまで、まだ時間がある。
騒ぎが終わったわけではない。
けれど、その日の夕食には、新聞も手紙も持ち込まれなかった。




