第七話 先生のお言葉には、三つの意味があります
「本日は、わたくしとエイデット侯爵の、長い精神的交流について」
「長くない!」
最前列からフリートが訂正すると、小講堂に笑いが起きた。レーダは講演台へ両手を置いたまま、客席を見渡す。
「ええ。皆様には、そう聞こえますでしょう」
また笑い声が増えた。
「ですが、時間の長さと、交流の深さは同じではございません」
今度は数人が感心したようにうなずいた。レーダは用意してきた原稿へ目を落とす。
「人は、直接言葉を交わした時だけ、相手を知るのでしょうか。いいえ。優れた書き手は、一つの記事にも、短い随筆にも、ご自身を込めておられます」
壇上だけを見れば、落ち着いた講演者だった。
声はよく通り、原稿を読み上げるばかりではない。客席へ視線を配り、時には間を取り、聞き手の反応を待つ。
サミュエルは後ろの壁際で腕を組んでいた。
「……妙に上手いな」
「教師だって言っていましたからね」
隣のオーレリーが答えた。
「何も教えられない方ではないのでしょう」
「余計に始末が悪い」
「今頃分かったの?」
壇上では、最初の資料が掲げられていた。
「こちらは、三年前にエイデット侯爵が書かれた『冬の畑に立つ者』という随筆です」
フリートが小さく息をつく。
「その題ではない」
客席がざわつく。
「正式には『冬を越す畑について』だ」
「題そのものより、内容が重要です」
「題も内容のうちだ」
「先生は、表題に囚われてはいけないと仰っているのです」
「仰っていない」
また笑いが広がった。だがレーダは少しも困ることなく、続ける。
「このように、先生のお言葉には三つの意味があります」
講演台の上へ、指を一本立てた。
「一つ目は、皆様へ向けて書かれた表の意味」
二本目。
「二つ目は、注意深く読む者だけが見つけられる意味」
三本目。
「そして三つ目が、先生ご自身さえ、まだお気付きになっていない意味です」
笑いが止まり、サミュエルが顔をしかめる。
「それ、何でも言えるじゃないか」
「ようやく気付いたのね」
オーレリーは手元の講演要旨へ書き込みをしていた。レーダは一枚目の記事を掲げる。
「まず、表の意味。冬の畑を守る領民への敬意です」
「それは合っている」
フリートが言う。
「先生も、そうお認めになりました」
「記事にそう書いてあるからな」
「ですが、二つ目の意味は、耐える者への励ましです」
「それも書いてある」
「そして三つ目」
レーダの顔がやわらいだ。
「遠く離れた場所で、まだ出会っていないわたくしへ向けた呼びかけです」
「違う!」
「先生ご自身は、まだ」
「気付いていないのではなく、書いていない」
「ですが、わたくしは読み取りました」
最前列の端で、ハイエスが椅子へ深く座り直した。
「強いな……」
「感心してどうなさるの」
マドリーが扇を閉じる。
「いや、あれだけ否定されて続けられるのは、なかなか」
「あなたも時々似ていますよ」
「私が?」
「自覚がないところまで」
今度はマルンナが口元を押さえた。フリートが三人を順番に見る。
「家族で楽しむな」
「ごめんなさい」
マルンナは姿勢を戻した。
壇上では、次の記事へ移っていた。
「こちらは学校についての連載です」
レーダは学校の図面が載った紙面を広げる。
「先生は、学びとは建物の中だけにあるものではない、とお書きになりました」
「書いた」
「それは、わたくしの仕事を認めてくださったからです」
「君の手紙が届く前だ!」
「ええ。先生は、わたくしの存在を知らずとも、わたくしの仕事を認めてくださった」
「知らない仕事は認められない」
「同じ道を歩んでいたのです」
「領内の教師は大勢いる」
「その中で、先生のお考えを理解したのがわたくしです」
客席から手が上がった。レーダの顔が明るくなる。
「ご質問ですね」
「いや、あんた」
立ち上がったのは、先ほど研究会の人数を聞いて笑った年配の男だった。
「侯爵の記事を読んだ教師なんぞ、他にもいるんじゃないのかね」
「もちろんです」
「では何で、あんただけが弟子なんだ」
「読むことと、理解することは別だからです」
「他の者が理解していないと、どうして分かる」
レーダはわずかに微笑んだ。
「わたくしのように、ここまで来なかったからです」
客席のあちこちから、声が上がる。
「仕事があるんだろう」
「遠くて来られない人もいる」
「手紙だけでいいと思ったんじゃないか」
レーダはそれらを聞き終え、ゆっくりとうなずいた。
「ああ、皆様も、まず行動が必要だとお分かりになったのですね!」
「違う違う」
年配の男が両手を振る。
「今のは、あんたの理屈がおかしいって話だ」
「反論は、理解への第一歩です」
「便利だな、それ!」
拍手が起きた。誰か一人が手を叩き始め、それが笑いと一緒に広がっていく。
レーダは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「褒めてないぞ!」
「率直なご反応をいただけるのは、講師として何よりの喜びです」
サミュエルは壁へ額をつけた。
「本当に全部、肯定になるのか」
「あなたの記事も、あの調子で読まれたのでしょうね」
オーレリーは平然としている。
「今、身をもって理解できてよかったじゃない」
「よくありませんよ」
レーダは次の資料を取り出した。青い花についての記事だった。
マルンナの隣で、フリートの肩がわずかに動く。
「これは、先生が青い花についてお書きになったものです」
「領内の染料についての記事だ」
「表面上は」
「染料についてしか書いていない」
「ですが、青という色には、誠実、遠い憧れ、変わらぬ思いという意味がございます」
「花の種類も違う」
「細かな違いに囚われてはいけません」
「染料の原料だぞ」
「先生は、生活の中に思想を隠されます」
「隠していない。生産量と価格を書いた」
客席にまた笑いが起こる。
「では伺います」
レーダは初めて、フリートへ正面から問いかけた。
「先生は、青い花がお好きではありませんか」
「好きだ」
レーダの顔に、勝ち誇るようなものが浮かんだ。
「やはり」
「娘が好きだからだ」
小講堂が静まる。フリートは隣のマルンナを見る。
「モネが初めて私にくれた花が、青かった。それから家でもよく飾るようになった」
マルンナもうなずいた。
「娘は今でも、青い花を見つけると夫へ持ってくるの」
レーダは二人を見ていた。
「とても美しいお話です」
「記事には書いていないわ」
マルンナが言う。
「ええ。初めて伺いました」
「あなたは夫の青い花を、自分への言葉だと思った。でも本当は、わたくしたちの娘との話だった」
「一つの花に、意味は一つとは限りません」
「……ではあなたには、何を聞いても変わらないのね」
「奥様も、少しずつ分かってくださると思います」
マルンナはそこで口を閉じた。レーダはまた原稿へ戻る。
「わたくしが初めて先生へ手紙を書いたのは、二年前の冬でした。当時、わたくしは領民の子供達へ読み書きを教えておりました」
教師としての話は、真っ当だった。
学ぶ場所へ通えない子供の家まで出向いたこと。農作業の合間に文字を教えたこと。新聞を読みたいという老人へ、毎週紙面を読み聞かせたこと。
客席も、次第に静かになる。
「その頃、先生の記事を読みました。学ぶ機会は、生まれや財産によって奪われてはならないと」
「そこは確かに書いた」
フリートが答える。
「わたくしは、初めて自分の仕事を認められたと思いました」
「それなら、記事を書いた意味はあった」
レーダは嬉しそうに息を吸った。
「やはり、先生は」
「ただし」
フリートは先を遮った。
「私は、同じ仕事をしているすべての者へ向けて書いた。君一人へではない」
「その中で、わたくしが答えたのです」
「手紙をくれた読者の一人だ」
「先生に届いた一人です」
「他にも届いている」
「けれど、ここには来ていない」
「来ないのが普通だ」
「普通の関係ではないからです」
また元へ戻った。客席から、今度はため息が聞こえる。
レーダはそれを聞き、表情をやわらげた。
「皆様、少しお疲れになりましたね」
「あんたのせいだろ!」
観客の中から声が飛ぶ。
「思想を理解するには、時に疲労も伴います」
また笑いが起こる。
だが先ほどよりも、呆れの方が強かった。
サミュエルは手帳へ書き込む。
「否定を確認へ。嘲笑を共感へ。疲労を理解の深まりへ」
「そのまま記事にしなさいよ」
オーレリーが覗き込む。
「見出しはどうしましょうね」
「まず本人に聞くことね」
「またですか?」
「今度こそ、でしょう」
壇上では、レーダが最後の原稿をめくった。
「わたくしは、侯爵夫人のお立場を奪うつもりはございません」
客席が少しざわつく。
「お子様から父親を奪うつもりもございません。ただ、先生がご自分の心を偽り続ける必要はないと申し上げたいのです」
フリートが立ち上がった。
「偽っていない!」
「先生」
「私は妻を愛している」
「存じています」
「君を愛していない」
「今は」
「過去にも、今後もだ」
「未来のことまでは」
「それは私が決めることだ」
レーダは初めて、少し長く黙った。
フリートは続ける。
「君が私の記事を読み、励まされた。それは否定しない。君が教師としてしてきた仕事も、価値があるのだろう」
「では」
「だが、それを理由に私の人生へ入り込むことは絶対に認めない。私の妻を、私を理解していない女として語ることもだ」
マルンナが夫の袖を軽く引いた。フリートは立ったまま、レーダを見ている。
「君は私の記事を読んだ。私は君の手紙を一通読んだ。それだけだ」
「一通ではございません」
「社から回された長い手紙を一通だ。残りは編集部で記録だけ確認している」
レーダの眉が、初めてわずかに寄った。
「先生は、全部、お読みになってはいないのですか」
「読んでいない」
「ですが、記事で……」
「返事はしていない」
「それでは、あの言葉は」
「君に向けていない」
客席は静かになる。笑いも、野次もない。
レーダは講演台の原稿を見下ろした。
何枚もの切り抜き――日付――余白へ書き込んだ言葉。
彼女は一枚を手に取り、そこへ目を落とす。
「それでも」
声はまだ落ち着いていた。
「先生ご自身が、すべてを把握していらっしゃるとは限りません」
サミュエルが天井を仰いだ。客席から、大きなため息が漏れる。
レーダは顔を上げた。
「皆様にも、すぐに理解していただけるとは思っておりません」
その時、マルンナが立った。
「あなたは、人の言葉はよく読んでいるのね」
レーダが彼女を見る。
「ありがとうございます」
「でも、人の返事は一度も聞いていないわ」
レーダの口が止まった。
「記事の中から欲しい言葉を探すし、違うと言われたら、その違うまで自分への言葉にする。笑われても、怒られても、全部あなたの話へ入れてしまうのね」
「それは……」
「今も、わたくしの言葉をどう読み替えるか考えているのでしょう?」
返事が出なかった。マルンナは夫の手を取る。
「夫はあなたと話していません。今日、何度も返事をしました。あなたが聞かなかっただけよ」
小講堂の後ろから、短い拍手が聞こえた。オーレリーだった。
続いて、何人かが手を叩く。今度の拍手は、笑いと混ざらなかった。
レーダは客席を見回した。
「奥様のお言葉も、皆様のお心に届いたようですね」
サミュエルがその場へしゃがみ込んだ。
「駄目だ。まだ駄目だ」
ハイエスが肩を震わせる。
「いや、ここまで来ると見事だ」
「お義父様」
「すまん、マルンナ」
マドリーは息子夫婦の背を押した。
「もう帰りましょう。十分聞いたわ」
フリートはマルンナの手を強く握ったまま、通路へ出る。
「講演はまだ終わっておりません」
壇上からレーダが呼び掛けるが、フリートは振り返らなかった。
「私の話は終わった」
夫妻が小講堂を出ると、ハイエスとマドリーも続く。
扉が閉じ、客席の半分ほどが、同じように立ち上がった。
「皆様!」
レーダは講演台から呼び止めた。
「ここからが、最も重要なお話です!」
だが人々は出口へ向かう。
残った者の多くも、話を聞くためではなく、最後まで何が起こるか見届けたい顔をしていた。
サミュエルは立ち上がり、オーレリーへ手帳を見せる。
「オーレリーさん、次の記事の題、決まりました」
「何?」
「『侯爵は弟子ではないと否定。本人は否定も教えの一つと解釈』」
「長いわね」
「では短くします」
壇上では、レーダが次の原稿を広げ、何事もなかったかのような笑顔になる。
「――では、先生が本日、皆様の前で示された葛藤について」
「おい、まだやるのか」
サミュエルは手帳へ、新しい一行を書き足した。




