第六話 会員は、まだわたくし一人です
公会堂の小講堂前には、開場時刻より早く人が集まり始めていた。
入口の柱に貼られた知らせには、レーダ・カモンの写真とともに、太い文字が並んでいる。
――エイデット侯爵の思想を読み解く夕べ。
――講師 レーダ・カモン女史。
――主催 エイデット思想研究会。
サミュエル・ペインは、最後の一行を三度読んだ。
「研究会……」
「おや、ご存じなかったの?」
隣でオーレリーが手袋を外す。
「知りませんよ! 昨日の記事を出した時には、そんな会はありませんでした」
「昨日なかったから、今日もないとは限らないでしょう」
「一晩で作ったんですか」
「ご本人に聞けばいいでしょう?」
公会堂の受付では、レーダが名簿を広げていた。
「お名前をお願いいたします」
受付を手伝う者はいない。
机の上には名簿、釣り銭箱、講演要旨、入会案内が整然と並び、レーダは一人で客を迎え、一人で参加費を受け取り、一人で紙を渡している。
「カモン嬢!」
サミュエルが声を掛けると、レーダはうれしそうに顔を上げた。
「まあペイン様! やはりお越しくださったのですね」
「……この研究会、とは何です」
「それはもちろん、フリート様のお考えを、正しく学ぶための会ですわ。文字の通りですのよ」
「いつ作ったんです?」
「昨夜です」
サミュエルは一度、目を閉じ、喉の奥で苦い声を溜める。
「……会員は?」
「まだ、わたくし一人です」
後ろで誰かが吹き出した。レーダは気にせず、名簿をサミュエルの前へ向ける。
「ペイン様も、こちらへお名前を」
「書きません」
「まあ」
「私は会員ではありませんから」
「けれど、わたくしたちの交流を最初に世へ伝えてくださいましたでしょう?」
「取材して記事にしただけです」
「始まりというものは、いつもご本人の自覚より先に訪れるものですわ」
「訪れていません!」
サミュエルが名簿を押し戻す。
「その理屈で、私まで侯爵の弟子にしないでください」
「弟子ではございません。そうですね……」
レーダは少し考えた。そして小さく手を叩く。
「同志でしょうか」
「もっと嫌です!」
今度は近くにいた数人がはっきり笑った。レーダはその笑いを、和やかな賛同と受け取ったらしい。
「皆様も、よい雰囲気で始められそうですね」
「違うと思うわ」
オーレリーが受付台へ歩み寄る。
「貴女は確か、新報社のブリッジ様」
「その研究会に、王都新報社は関係しておりません」
「存じています。ですから、わたくしが始めました」
「エイデット侯爵の許可もありませんね」
「思想を学ぶのに、許可が必要でしょうか」
「学ぶだけならね」
低く言うと、オーレリーは講演要旨を一枚取った。
「ここには、侯爵の真意を代わりに語るとあるわね」
「代わりではございません。読み解くのです」
「ご本人が違うと言っても?」
「先生というものは、弟子にすべてを説明するとは限りません」
「弟子にもしていないと仰っていますが?」
「そんな。正式な言葉が、すべてではありませんわ」
そこで公会堂の職員が、困った顔で近づいてきた。
「あの~ カモン様。少々よろしいでしょうか」
「何でしょう」
「先ほど侯爵家から、こちらの催しについて問い合わせがありまして」
「まあ!!」
レーダの顔が明るくなる。
「フリート様が、気に掛けてくださったのですね!」
「え? い、いえ、そうではなく」
「もしかして、会場へいらっしゃるのでしょうか」
「その件も含めて、主催者の確認を……」
「わたくしです」
「後援者は?」
「研究会です」
「その研究会の代表は」
「わたくしです」
「会員は」
「現在、わたくし一人です」
職員はしばらく黙った。
「……つまり、カモン様がお一人で申し込まれた催しということで」
「ええ。けれど、こんなに皆様がお集まりくださいましたのよ!」
確かに、列は伸びている。
新聞記事を読んで来た者。侯爵の読者。単に騒ぎを見物したい者。
中には、講演そのものを信じているらしい者もいた。
「……何にせよ、会場使用料はお支払いいただいておりますし、講演内容そのものをこちらで止めることは……」
職員が言いかけた時、入口がざわめき、エイデット侯爵夫妻が入ってきた。
フリートはいつもの黒い上着姿で、隣にはマルンナがいる。少し後ろを、ハイエスとマドリーが歩いていた。
「うわ、一家で来たのか」
サミュエルが呟く。
「あのご一家が、置いてこられるものですか」
オーレリーが答えた。とはいえ、モネだけは安全のために屋敷に残してきたらしい。
レーダは受付台から出て、フリートへ向かって歩いた。
「侯爵様! お越しくださったのですね」
「止めに来たのだ」
「ご心配には及びません。わたくしがきちんと」
「私の真意を、私の許可なく語ることを止めに来たと言っている」
「けれど、皆様はもうお集まりです」
「集まったことと、君の話が正しいことは関係ない」
フリートは講演要旨を取った。
「ここに、私が貴族教育は不要だと考えているとある」
「はい。先生は、身分に縛られない学びを」
「私は、領民にも教育が必要だと書いた。貴族教育を不要だとは書いていない」
「言葉の奥には」
「ない」
返事は短かった。周囲の客が静かになる。レーダは少しだけ首を傾けた。
「今は、そう仰るのですね」
「今日も昨日も! 私は常に、同じことを言っている」
「それは、皆様の前ですもの」
「君と二人きりであったとしても、同じだ!」
「二人きりになれば、お分かりになりますね」
「ならない!」
フリートは要旨を卓へ戻した。
「講演をするなら、自分の意見として話せ。私の弟子、私の代弁者、私の理解者を名乗るな」
レーダは初めて、少し困ったようにマルンナを見た。
「奥様……」
「カモン嬢、あなたはわたくしに何を求めているの?」
「フリート様は、奥様を傷つけまいとして……」
「わたくしはもう、傷ついているわ」
マルンナの声は穏やかだった。そのためか、レーダはすぐに微笑んだ。
「やはり」
「あなたが夫の言葉を勝手に使うことに、よ」
レーダの笑みが止まった。
「わたくしは、夫が誰に読まれてもよいと思って書いたものを読みました。そこまでは、あなたと同じです」
「でしたら」
「けれど、夫の人生まで自分への手紙に作り替えたことはないわ」
マルンナは受付台の名簿を見る。
「これも、皆さんがあなたを信じた証拠だと思っているのでしょう?」
「実際、これほど」
「見物に来た方もいるわ」
列の中から、また笑いが漏れた。今度ばかりは、レーダも気付いたらしい。
「そんな、わたくしを笑っていらっしゃるのですか?」
前列にいた年配の男が咳払いをした。
「いや、その、研究会が一人というのは少々」
「どんな会にも、最初の一人がおります」
「それはそうですが」
「本日ここに来られた皆様は、二人目以降です」
今度は講堂前に、はっきりと笑いが広がった。レーダはしばらく客達を見回した。
それから静かに言う。
「まだ、理解が追いついていないのですね」
サミュエルが額を押さえる。
「またそうなるのか……」
「ペイン記者」
フリートが振り返った。
「君の記事の読者だぞ?」
「はい」
「責任を取れとは言わない。だが、この場で君が確認した事実は、次の記事に書いてくれ」
サミュエルはレーダを見た。
彼女はもう、入り口を片付けて、講演台へ向かおうとしている。
「分かりました」
「本当に?」
マルンナが尋ねる。
「今度は、本人にも侯爵にも夫人にも聞いたものを」
「オーレリーさんにも確認なさい」
「はい」
「それなら少し安心ね」
マドリーが後ろから口を挟む。
「講演はどうするの?」
「させてやったらどうですか?」
オーレリーが言った。皆が彼女を見る。
「ここまで来た方々には、この方の言い分を実際に聞いていただきましょう。ただし、侯爵夫妻も同席し、事実と違う部分はその場で訂正すれば良いのでは?」
レーダは講演台の前で振り返った。
「構いませんわ!」
「いいの?」
「ええ!」
彼女は胸を張り、次にうっとりとする。
「フリート様ご本人が、わたくしの講演へお越しくださったのですもの……」
サミュエルは両手で顔を覆った。
「どうして全部、証拠になるんだ」
「見事なものだな」
ハイエスは、はっはっは、と声を立てて笑った。
「お義父様!」
「いや、笑っている場合ではないが」
マドリーも口元を押さえている。マルンナは夫を見た。
「どうする?」
「聞く!」
「最後まで?」
「君が隣にいるなら」
「では、途中で帰らないでね」
「約束する」
二人は並んで、最前列の席へ向かった。
*
講演台では、レーダが原稿を広げている。
客席には笑いを堪えている者も、真剣な顔をした者もいた。
やがて彼女は顔を上げた。
「本日は、わたくしとエイデット侯爵の、長い精神的交流について」
「長くない!」
最前列から、フリートが訂正した。
講堂に、最初の笑いが起きた。




