第五話 侯爵家を訪れた記者
翌日の昼前、サミュエル・ペインはエイデット侯爵家の門前に立っていた。
昨夜はほとんど眠れなかった。
レーダが残した手紙を読み返すたび、自分が取材した時の会話まで違う形に見えてきた。
相槌を打ち、原稿を受け取り、宿を用意し、記事にした。
それだけだった。
だが彼女の中では、サミュエルはフリートの思想を理解し、二人の関係を世へ伝える役目を任された者になっている。
それを考えるとぞわりとする。
「王都中央通信社のペイン様ですね」
門番は名刺を確認すると、すぐに中へ人を走らせた。
待たされるだろうと思っていたが、ほどなく家令が戻ってくる。
「侯爵閣下がお会いになります」
「ありがとうございます。あの、夫人も?」
「お尋ねしたところ、同席なさるそうです」
サミュエルは帽子を持ち直した。
記事を書く時には、侯爵夫人までは話を聞こうとも思わなかった。だが、今になって自分から会いに来るのだから、ずいぶん勝手な話だと自分でも思う。
*
通されたのは大きな応接室ではなく、庭に面した小さな居間だった。
フリートは窓際の机で書類を読んでいる。マルンナは長椅子に座り、娘の髪へ細い紐を結んでいた。
「きつくない?」
「だいじょうぶ」
「では、もう一つ」
モネは母親へ背を向けたまま、卓上の菓子を見ていた。サミュエルが入ると、フリートは書類を閉じる。
「君があの記事のペイン記者だね」
「突然の訪問をお許しください」
「座ってくれ」
マルンナも顔を上げた。
「あなたが、昨日の記事を」
「はい」
「モネ。お祖母様のところへ行っていらっしゃい」
「おかしは?」
「一つ持っていっていいわ」
モネは焼き菓子を二つ取り、母親を見る。
「一つよ」
一つ戻し、侍女とともに部屋を出ていく。その扉が閉じるまで、誰も話を始めなかった。
「――それで」
フリートが即座にサミュエルを見る。
「今日は何を聞きに来た?」
「まず、お詫びを」
「記事を取り消すのか?」
「取り消し自体は編集長と協議中です。少なくとも、事実関係を示す続報は出します」
「それは新聞社の問題だ」
「はい」
サミュエルは鞄からレーダの手紙を出した。
「……これを、昨夜受け取りました」
フリートが読み、マルンナへ渡す。
マルンナは最後まで目を通したあと、便箋を卓へ置いた。
「あら、あなたまで弟子になってしまったのね」
「そのようです」
「おめでとう、と言うところかしら」
サミュエルは笑えなかった。
「私は彼女の話を聞いただけです」
「夫も、皆へ向けた記事を書いただけよ」
「……はい」
マルンナは責めるでもなく、茶を一口飲んだ。その方がサミュエルにはきつかった。
「カモン嬢は今、どこに?」
で、フリートが尋ねる。
「分かりません。宿には戻っていないようです」
「君の社が保護したのだろう」
「用意した宿を出た後までは」
「ならば、探してくれ」
「もちろんです!」
「ただし、見つけても、一人で話を聞くな」
フリートの言葉に、サミュエルは顔を上げた。
「それは、私を気遣ってくださるのですか」
「違う」
返事は早かった。
「一人だと危険だ。また君の言葉を、別の意味に使われると困るしな」
「……ごもっともです」
マルンナが小さく息をついた。
「ごめんなさいね、夫は、朝からずっと機嫌が悪いの」
「君が言うか」
「だって、わたくしには分かるもの」
フリートが何か返そうとした時、廊下から足音が聞こえた。扉が開き、マドリーが一枚の紙を手に入ってくる。
「話の途中にごめんなさいね」
「母上?」
「これが門に届いたの」
印刷された知らせだった。紙の上には、レーダの肖像が載っている。
整えた髪に地味な衣服。正面を向いた姿には、妙なところは何もなかった。
その下に、大きな文字が並ぶ。
――エイデット侯爵の思想を読み解く夕べ。
――講師 レーダ・カモン女史。
――侯爵の精神的な弟子として、その文章に込められた真意を語る。
「どこで?」
フリートが紙を取った。
「市内の公会堂。今夜ですって」
「誰が会場を貸した」
「下に主催者が書いてあるわ」
サミュエルが紙をのぞき込む。聞き覚えのある名だった。
「中央文化振興会……」
「知っているの?」
マルンナが尋ねる。
「うちの社が、催しの広告をよく載せています」
「ああ…… では、新聞社のお墨付きがあると思ったのね」
マドリーがため息まじりに言う。サミュエルは紙を取り上げた。
「ですが、これは昨日の記事を見てから決まったものですね。昨日まではこんな予定入っていませんでした」
「え、一晩で?」
「小さな会場なら空いている場所へ入れられるんです。講師の手配も要りませんし、話題になっている今なら客が入りますから」
「そうなの。つまりは、あなたの記事が、次の舞台を用意したのね」
マルンナの言葉に責める調子はなかった。それでもサミュエルは紙を持つ手に力を入れた。
「止めます!」
「どうやって?」
「主催者へ話します。記事の続報も出す。会館にも、侯爵家の許可がないと伝えます」
「いやいや、私の許可などなくとも、私の記事について語ることはできるんだよ」
フリートは立ち上がった。
「ただし、弟子を名乗り、私の真意を代弁することは認められないな」
「では、正式に文書を――」
「家令に用意させる」
サミュエルも立った。
「すぐに持っていきます」
「待って!」
マルンナが呼び止めた。彼女は卓上の菓子皿を見て、一つ紙へ包んだ。
「朝から何も召し上がっていないでしょう」
「どうして」
「顔を見れば分かるわ」
包みを差し出され、サミュエルは受け取るしかなかった。
「夫の記事を読んでも分からないことは、実際に会えば分かるものなの」
サミュエルは返事に困った。彼はまだ独身だった。フリートが妻を見る。
「ふふん、それは嫌味か? 君らしくない」
「少しだけ、ね」
マルンナは笑った。
*
サミュエルが去ったあと、マドリーも会館へ問い合わせるため部屋を出た。
残った紙を、フリートはもう一度見る。
「これは、今夜は帰れないかもしれないな」
「そう」
「それでも行くのか、とは聞かないのか?」
「だってあなた、行くのでしょう?」
「ああ」
「だったら、わたくしも行くわ」
「危険だ」
「会館で講演するだけの女性よ」
「昨日、君は怖いと言った」
「そりゃ、今も怖いわ」
マルンナは空になった娘の椅子を卓へ戻した。
「だから一人にはしないで」
フリートは紙を置き、妻の前へ回った。
「君を一人にするつもりはない」
「なら決まりね」
その時、庭からモネの声がした。
「おかあさまー! おかし、ひとつだったよー!」
「知っているわ」
窓を開けると、義父ハイエスに抱かれた娘が手を振っている。フリートもその横から外を見た。
「今夜までには戻ろう」
「講演を止められたら?」
「その時は、ここで夕食を食べよう」
「止められなかったら?」
「君の隣で聞く」
マルンナはうなずいた。
そして、門の外では、同じ知らせを手にした人々が、すでに公会堂へ向かい始めていた。




