第二話 わたくしたちは、もう何度もお話ししています
マルンナ達が入ると、女はすぐに立ち上がった。
「フリート様!」
弾んだ声が飛んでくる。フリートは足を止める。
「その呼び方を許した覚えはない!」
鋭い彼のとっさの言葉に、女は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「まあ…… やはり皆様の前では、そう仰るのですね」
「初めて会う失礼な相手には、普通そう言う」
「初めてではありませんわ」
レーダ・カモンは胸元に手を置いた。
「わたくしたちは、もう何度もお話ししています」
マルンナは夫の隣に座る。
向かいにはレーダ、その横には新聞社の編集長と記者が控えている。家令と弁護士は、少し離れた席についた。
「ですからカモンさん、先ほどから申し上げているでしょう」
編集長が困ったように口を挟む。
「侯爵閣下は、あなたに個人的な返事を出しておられないと」
「ええ。お手紙という形では」
「では何をもって、話をしたと?」
弁護士が尋ねた。
レーダは待っていたように、膝の上の鞄から新聞の切り抜きを取り出した。
「こちらです」
広げられたのは、先ほど侯爵家で見たものと同じ記事だった。
「わたくしが、領地の子供達へ文字を教えているとお伝えしたあと、フリート様は学校についてお書きになりました」
「偶然だ」
「いいえ。フリート様は偶然で文章を書く方ではありません」
レーダは嬉しそうに夫を見る。
「何を書くにも、必ず理由がおありです」
「理由はある。領内の学校を視察したからだ」
「それも、わたくしへのお返事でしょう?」
「何がどう返事になるんだ」
「わたくしの仕事を認めてくださったのです!」
……会話が一歩も進まない。
だがレーダの口調は穏やかで、声を荒らげることもない。むしろ聞き分けの悪い相手へ、丁寧に説明しているようだった。
「こちらも」
次に出したのは、白い花についての記事だった。
「わたくしの名は、春に咲く白い花に由来すると以前お伝えしました。すると、その翌月に」
「その記事は、君の手紙が届く前に入稿している」
「存じています」
編集長が顔を上げた。
「存じている?」
「ええ。ですから、驚きました。わたくしがお手紙に書く前から、フリート様には伝わっていたのですもの」
マルンナは膝の上で指を組み直す。
思っていたより、ずっと厄介だ。日付を示しても意味がない。順序が逆なら、心が通じた証拠になってしまう。
「あなたは、夫のどこをご存じなの?」
マルンナが尋ねると、レーダは初めて彼女を正面から見た。
敵意はない。そのことが、かえって嫌だった。
「たくさんございます」
「聞かせてくださる?」
「朝は早くお目覚めになります。原稿は夜より朝に書かれる方です。甘いものはあまり召し上がりませんが、焼いた林檎はお好き。長く考える時には、右手で机の端を叩く癖があります」
どれも合ってはいる。
「雨の日には古い傷が痛むことも」
マルンナは夫を見た。
「それは記事に書いていないわね」
「一昨年の講演録にあります」
フリートがすぐ答えた。
「確かに、領地で落馬した話はした」
「よく覚えていらっしゃいますのね」
レーダは微笑んだ。
「わたくしのためにお話しくださったことですもの」
「講演には百人以上いた」
「けれど、その中で本当に理解したのは、わたくしだけでしょう?」
フリートの指が、一度だけ肘掛けを叩く。レーダの顔が明るくなる。
「ほら」
室内の全員が、その指を見た。
「今も、そうなさいました」
「苛立っているだけだ」
「わかっております。素直に認められないご事情がおありなのでしょう」
「事情などない」
「奥様の前ですものね」
そこで初めて、マルンナの腹に小さな棘が刺さる。だが夫を疑ったのではない。ただ腹が立ったのだ。
この女は、夫の言葉を聞いていない。聞く必要すらないと思っている。
「レーダさん?」
「カモンとお呼びくださいませ」
「では、カモンさん。あなたは夫と一緒に食事をしたことは?」
「まだございません」
「馬車に乗ったことは?」
「これからですわ」
「病気の時に看病したことは?」
「いずれ、その機会も」
「娘を抱いたところは?」
レーダの口元が、わずかに止まった。
「お子様のお話は、存じています」
「名前は?」
「アネモネ様」
「呼び名は?」
答えがない。マルンナはそれだけで少しほっとする。
「モネよ」
「愛称までは記事にありませんでしたから」
「ええ。書いていないこともあるのよ」
レーダはすぐに笑顔を戻した。
「けれど、これから知ってまいります」
「知る必要はない!」
フリートが言った。
「私は妻と娘と暮らしている。君と親しくなるつもりはない。個人的な手紙も送らない。今後、私の記事を君への返事だと言い触らすことも認めない」
一つずつ彼は、区切るように言う。
レーダはしばらくフリートを見ていた。
「わかりました」
驚くほど素直な返事だった。編集長が、ほっと肩を下ろす。
だがレーダは続けた。
「《《今は》》、そう仰るしかないのですね」
「違う!」
「大丈夫です! 急ぎませんから」
「何を待つつもりだ……」
「フリート様が、ご自身のお気持ちを受け入れられる日を」
フリートは立ち上がった。
「話は終わりだ!」
「はい」
レーダも立ち上がる。
「今日は、奥様にもお会いできてよかったです」
「わたくしに?」
「ええ。思っていた通り、お優しそうな方でした」
褒められているのに、背中をいきなり羽根で撫でられたような、ぞっとする気持ち悪さが残った。
「わたくし、奥様から何かを奪うつもりはございませんの」
レーダはマルンナへ向かって、深く頭を下げた。
「ただ、フリート様のお心まで縛ることはなさらないでくださいませ」
フリートが家令を見る。
「馬車を呼べ! 彼女を駅まで送れ」
「必要ございません」
レーダは鞄を抱えた。
「まだ王都に用事がございますので」
「どこへ行く」
「せっかく参りましたから、幾つかここ以外に新聞社を回ろうと思っております」
編集長の顔色が変わった。
「何のために?」
「わたくし達のことを、正しく知っていただくためです」
家令が扉の前へ回った時には、もう遅かった。レーダは鞄から、何枚もの原稿用紙を取り出していた。
そして表紙には、丁寧な文字で題が書かれている。
――エイデット侯爵とわたくし。言葉から始まった、真実の愛。




