第一話 侯爵様の運命の女性がお見えです
「奥様。王都新報社から、至急お返事をいただきたいと使いの方が」
朝食を終え、三歳の娘を庭へ送り出したばかりだった。
マルンナは侍女から差し出された名刺を見る。王都新報社。夫のフリートが週に一度、領地経営や文化についての文章を載せている新聞社である。
「原稿のことかしら」
「それが、侯爵様ではなく奥様に伺いたいことがあるそうで」
「わたくしに?」
応接室では、若い記者が帽子を膝に置いて待っていた。
マルンナが入ると立ち上がり、型どおりの挨拶をしたあと、困ったように名刺入れを閉じる。
「突然お訪ねして申し訳ございません。実は今朝、弊社に一人の女性が参りまして」
「夫の記事について?」
「はい。……いえ、それだけならば、わざわざこちらの侯爵家へ来ることもなかったのですが……」
記者は言いにくそうに視線を落とした。
「その女性が、ご自分はエイデット侯爵閣下の運命の女性であると……」
「まあ?」
マルンナは、膝に置いた手を組み直した。
「夫はその方とお会いしたことがあるの?」
「……それを、こちらがお尋ねしたく」
記者はますます困った顔になる。
「レーダ・カモンと名乗る若い女性です。地方で家庭教師をしており、侯爵閣下とは長く手紙を交わしてきたと申しております」
「夫が?」
フリートは読者から届いた手紙には目を通す。返事を出すこともあるが、侯爵家の名で出す礼状程度だ。個人的に文通を続けている相手がいるとは聞いていない。
だが、それで夫を疑う気にはならなかった。
「夫を呼んでちょうだい」
間もなく、執務室からフリートが下りてきた。まだ午前の仕事の途中だったらしく、上着の袖に少しだけインクがついている。
「何かあったのか、マルンナ」
「何でも、あなたの運命の女性が、新聞社へいらしたそうよ」
フリートは何が何だか、という顔で記者を見た。
「妻ならここにいるが?」
「そのように私どもも申しましたのですが」
「では帰してくれ」
「ところが、帰ってくださらないのです……」
記者はとうとう、帽子を両手で握った。
「閣下がご自分の存在を隠さねばならない事情も理解している、と。奥様やご家族を傷つけるつもりはないので、ひと目お会いできればそれでよい、と申しております」
「会う理由がない」
フリートは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「あなた、その女性から手紙が来ていた記憶はおあり?」
「レーダ・カモンという名は覚えがある。かなり長い手紙を何通も送ってきたらしい」
「返事は?」
「新聞社を通して、読者への礼状を一度な」
はい、と記者が首を傾げる。
「ですが、あの方は何通もの返事をいただいたと」
「出していない」
フリートの返答に迷いはなかった。
「ねえ記者さん、その手紙は持っているの?」
マルンナが尋ねると、記者は鞄から数枚の紙を取り出した。
「本人が持参した写しです」
最初の一枚は、フリートが書いた礼状だった。
丁寧ではあるが、内容はごく短い。記事を読んでくれたことへの礼と、今後も紙面を楽しんでもらいたいという言葉だけだった。
その次に並んでいたのは、新聞記事の切り抜きだった。
春先の長雨について。
領地の学校について。
旅先で見た白い花について。
どれもフリートの連載記事である。その余白には、細かな字で書き込みがあった。
――先日の手紙へのお返事。
――わたくしの仕事を認めてくださった。
――白い花は、わたくしを指している。
マルンナは一枚ずつめくった。
「これは、全部?」
「はい。本人はこれを、《《閣下との往復書簡》》と呼んでおります」
フリートは苦々しそうな顔で手を伸ばした。記事を読み、余白の文字を確かめる。
「……この雨の記事は、彼女の手紙が届く前に書いたものだ」
「はい、それは本人にも申し上げました」
「それで?」
「心が通じているから、手紙を読む前にお考えが伝わったのだと」
フリートは紙を投げるようにテーブルへ戻す。
「話にならない」
「私どもも、そう思うのですが」
記者はちらりとマルンナを見る。
「その方は、閣下が朝早くに原稿を書くことも、書き損じた紙を机の右側へ置くこともご存じでした。それに、紅茶には砂糖を入れないことや、青い花をお好みになることも」
マルンナは夫を見る。どれも合っている。
けれどフリートは少し考えただけで言った。
「そりゃ全部、過去の記事に書いている」
「書き損じた紙のことも?」
「三年前の随筆に一度」
記者が言葉をなくす。
マルンナは、余白の書き込みをもう一度見た。夫の文章をよく読んでいる。それ自体は間違いない。
けれどどこか気持ち悪い。読んだ文章を集め、順番を変え、自分へ宛てられた言葉に作り直している。
「今、その方はどちらに?」
「社の応接室です」
「まだ?」
「閣下がお迎えに来るまで待つと」
フリートが立ち上がった。
「行ってくる」
「あなた一人で?」
「いや。家令と弁護士を連れていく。二度と私の名を使って勝手な話を作らぬよう、はっきり伝える」
マルンナも立つ。
「わたくしも行くわ」
「マルンナ」
「夫の運命の女性だと名乗る方なのですもの。妻が顔を出さない方がおかしいでしょう?」
フリートは一瞬黙り、それからマルンナの手を取った。
「君が嫌でなければ」
「少し怖いだけよ」
疑っているのではない。
知らない女が、夫の書いた言葉を拾い集め、二人だけの思い出に変えている。そのことが、どうにも気味が悪かった。
廊下の向こうから、娘の声が聞こえた。
「おかあさまー! お花!」
娘のモネが庭師に摘んでもらった青い花を握り、こちらへ走ってくる。
フリートはしゃがみ、娘を抱き上げた。
「綺麗だな」
「おとうさま、あお、すきでしょう?」
「ああ。好きだよ」
マルンナは娘の持つ花を見た。
この人が青い花を好む理由を、あの女性は知っているつもりなのだろう。けれど本当の理由は、モネが初めて父親へ渡した花が青かったからだ。それは記事には書かれていない。
マルンナは娘の髪を撫でた。
「モネ。おじいさまとおばあさまのところで待っていてね」
「おでかけ?」
「ええ。お父様のお知り合いに会ってくるの」
フリートが苦い顔をした。
「知り合いではない」
「では、そう言って差し上げましょう」
娘を侍女へ渡し、フリートはマルンナの肩へ上着を掛けた。
*
一方、二人が馬車へ乗った時、王都新報社の応接室では、レーダ・カモンが侯爵の迎えを待っていた。
自分の書いた手紙を膝に置き、何度も読み返しながら。




