第十五話 帰る場所
床へ座り込んだレーダ――今はもう、ドナは、散らばった原稿を見たまま動かなかった。
父親がしゃがみ、肩へ手を掛ける。
「ドナ。立てるか」
返事はない。
「帰るぞ」
もう一度呼び掛けても、顔は上がらなかった。
ボルネ男爵夫人が近づき、床の原稿を拾おうとするが、オーレリーがそれを止めた。
「こちらで預かります」
「ですが、本人のものです」
「原稿そのものが、今回の確認資料になります。写しを取った後、必要なものはお返しします」
男爵夫人は少し迷い、手を引いた。
「お願いいたします」
「承知しました」
若い記者達が、散らばった紙をページ順に集めていく。
ドナはその様子を見ていた。自分の原稿が他人の手で揃えられ、番号を振られ、証拠として封筒へ収められていく。けれどもう、止めようとはしなかった。
「本日は、ここまでにしましょう」
オーレリーが記録用紙を重ねる。
「確認内容については、両社と侯爵家、ボルネ男爵家へ写しをお渡しします」
中央通信社の編集長もうなずいた。
「訂正記事は明日の朝刊へ間に合わせます」
サミュエルが手帳を閉じる。
「最初の記事についても、経緯を含めて書きます」
「自分の責任を薄めないように」
「分かっています」
「本当に?」
「今度は確認していただきます」
オーレリーは口の端を上げると、それ以上言わなかった。
ベルナーは婚約解消の書類を持ち上げ、ボルネ男爵へ渡す。
「正式な手続きは、両家で進めたいと思います」
「異存はない」
ドナの父親が顔を上げた。
「本当に、申し訳ない」
「あなたに謝ってほしいわけではありません」
ベルナーはドナを見る。
「本人から聞くために来ました。聞きたいことは聞きました」
その声にも、もう怒りは残っていなかった。
「ドナ」
父親が娘の腕を取る。今度はゆっくり立たせた。
足に力が入っていない。男爵夫人が反対側から支える。
「宿へ戻る前に、医師へ診せた方がよいと思います。色々な意味で」
マルンナが言った。
「長旅の前ですし」
「ええ、そういたします」
「今夜は王都で休み、明日の列車に」
ボルネ男爵が答える。
「少し早い方がよくありませんか」
父親が娘の顔をのぞき込む。
「さすがにこの状態で、すぐには動かせんだろう」
ドナは誰の言葉にも反応しない。帽子を被せられ、外套を掛けられるままになっていた。
応接室を出る直前、足が一度止まる。振り返った先にはフリートがいる。
けれど、その隣にはマルンナが立っていた。夫の腕へ手を添え、逃げも隠れもせず、まっすぐこちらを見ている。
ドナの唇は一瞬動いたが、声にはならなかった。父親が支え直す。
「行こう」
彼女は今度は抵抗しなかった。
扉が閉じ、廊下を進む足音は遅く、やがて玄関の方へ消えていった。
そして応接室には、書類と茶の匂いだけが残る。
「終わったのでしょうか」
サミュエルが呟いた。
「ここでの確認はね」
オーレリーは原稿の入った封筒へ封をする。
「あの方が、これをどう受け止めるかまでは分かりません」
「また書き始める可能性は」
「今後は受け取りません」
「別の新聞社へ行けば」
「今日の記録は各社へ回します。少しでも記事を出したところも、訂正を出すでしょう」
中央通信社の編集長が答えた。
「少なくとも、エイデット侯爵との関係をこれ以上記事にする社はないでしょう」
「一人で書くことまでは止められませんが」
マルンナが言う。
「でも、それを夫の言葉として世へ出す道は閉じました」
「ええ」
オーレリーは彼女へ向き直った。
「奥様にも、長くお付き合いいただきました」
「わたくしがいなくては、また夫婦の話を勝手に作られたでしょうから」
「助かりました」
「こちらこそ」
少し離れたところで、フリートが弁護士と最後の確認をしている。
通告書――原稿の保管――訂正記事――今後の接触。
どれも必要なことだった。
それでもマルンナは、早く屋敷へ帰りたかった。新聞社の応接室ではなく、娘の声が聞こえる居間へ。
「マルンナ」
フリートが戻ってくる。
「帰ろう」
「ええ」
「疲れたか?」
「少しだけ……」
「馬車をゆっくり走らせよう」
「それでは夕食に遅れるわよ」
「遅れても構わないさ」
「けど、モネがお菓子を残して待っているのよ」
フリートが笑った。
「それなら急がなくては」
オーレリー達へ挨拶を済ませ、二人は新報社を出た。
*
侯爵家へ戻ると、玄関までモネが走ってきた。
「おとうさま! おかあさま!」
マルンナはしゃがみ、娘を抱き止める。
「ただいま」
「おかし、のこしたよ」
「偉かったわね」
「ふたつ」
「一つではなかったの?」
「おじいさまが、ふたつでいいって」
奥からハイエスが顔を出す。
「長くかかると思ったのでなあ」
「お義父様……」
「私の分を譲っただけだ」
その後ろでは、マドリーが呆れた顔をしていた。
「あなたも一つ召し上がっていたでしょう」
「それはそれだ」
モネは両親の手を「はやく」と両手で引いていく。居間の卓には、小さな焼き菓子が二つ並んでいた。
ひとつは少し欠けている。
「これは?」
「ちょっとだけ、あじみ」
フリートが娘を抱き上げた。
「では父様の分だな」
「だめ。おかあさまの」
「父様には?」
モネは考え、欠けている方を指した。
「こっち」
「なるほど」
マルンナは笑いながら椅子へ座り、ふう、と息をつく。
やっと戻ってきたのだ。いつもの居間――家族の声――娘の菓子――青い糸。
それだけで肩の力が抜けていく。
「お茶を入れてちょうだい」
マドリーが侍女へ頼む。
「今日は少し甘くしましょう」
「わたくしはいつも通りで……」
「でも、顔色がよくないわよ?」
「疲れただけです」
失礼します、と侍女が茶器を運んでくる。
だが、立ち上る湯気を見た途端、マルンナは妙な気分になった。香りが強い。
いつも飲んでいる茶なのに、胸の辺りがむかつく。
「マルンナ?」
フリートの声が近くなる。
「大丈夫……」
答えたつもりだった。
けれど椅子から立とうとした瞬間、床がわずかに傾いた。フリートが腕を掴む。
「大丈夫ではないだろう」
「少し、くらっとしただけよ」
マドリーがすぐに呼鈴を鳴らした。
「医師を呼んでちょうだい」
「お義母様、そこまでしなくても」
「あなた、今日一日、あの人の話を山ほど聞いたのよ? 疲れない訳ないでしょう!?」
ハイエスもモネを抱き上げる。
「こちらは任せなさい」
マルンナは夫の腕へ体重を預けた。
「本当に、疲れただけだと思うわ」
「医師がそう言えば信じるさ」
フリートは妻をひょいと抱き上げる。
「歩けるわ」
「今は歩かなくていい」
「モネが見ているし……」
「おかあさま、びょうき?」
娘の声に、マルンナは笑おうとした。
「少し休むだけよ」
けれど、茶の香りがまた鼻へ届く。今度ははっきり、口元を押さえた。
マドリーがその様子を見て、ふと目を細める。
「あ、もしかして」
「母上?」
「……医師が来れば分かるわ」
くすくす、とマドリーは含み笑いをする。
フリートは妻を抱いたまま、廊下へ向かった。マルンナは彼の肩へ額を預ける。
外の騒ぎは終わった。
今度は、自分達の家の中で起きることの番だ。




