第十六話 今度は、わたくしたちの話
呼ばれてやってきた医師は、ベッドに無理矢理入れられたマルンナの手首から指を離し、いくつか質問をした。
「お食事の匂いで気分が悪くなることは?」
「そういえば、ここ数日、少し」
「朝は?」
「起きた時に、胸がむかつくことがありました」
心配事が多かったせいだろう、とマルンナはずっと思っていた。そして終わったから気が抜けたからだろうと。
だが。
「奥様」
医師は椅子へ座り直した。
「おめでとうございます」
フリートの手が、マルンナの肩の上で止まった。
「え? 本当に?」
「まだごく初期ですが、おそらく二か月ほどでしょう」
マルンナは自分の腹へ目を落とした。衣服の上からでは、何も分からない。けれど、そこにもう一人いる、ということらしい。
フリートもまた、マルンナの両手を握りしめる。
「赤ちゃん?」
寝台の横から、モネが顔を出した。マドリーがすぐに抱き上げる。
「ええ。モネのお母様のお腹に」
「どこ?」
「まだ見えないくらい小さいのよ」
モネはマルンナの腹へ顔を近づけた。
「こんにちは」
医師が笑う。
「まだ聞こえてはいないでしょうが」
「そのうち聞こえるようになるよ」
フリートが答えた。さっきまで侯爵家の名誉や通告書について話していた人とは思えないほど、声がやわらかい。
「あなた」
「何だ」
「手を握りすぎよ」
言われて初めて気付いたらしく、フリートは指を緩めた。
「すまん、痛かったか?」
「少し……」
それでも手は離さない。離したくない、とばかりに。
マドリーがモネを抱いたまま、夫を振り返る。
「あなた、あなた、おめでたですって」
「聞こえていた」
扉の外で控えていたハイエスも入ってくる。
「私は、もしやと思っていた」
「あなた、先ほどまでただの疲れだと言っていたでしょう」
「両方の可能性を考えていたんだぞ」
「まあ、便利な言い方ね」
モネは祖父母の会話は流して、寝台へ手を伸ばした。
「おかあさま、いまはげんきない?」
「ええ。少し休めば大丈夫よ」
「おかし、たべる?」
「今はやめておくわ」
「じゃあモネがたべる」
「一つだけな」
フリートがすぐに言った。
「おとうさまも?」
「父様は、母様のそばにいるから、お祖父様とお祖母様についていきなさい」
モネは軽く首を傾げて考えたあと、わかった、とばかりにマドリーと一緒に部屋を出ていった。
ハイエスも医師へ細かなことを尋ねながら続く。
そして扉が閉じると、寝室には夫婦だけが残った。
「今日は、ずっと気を張っていたのね。私も、あなたも」
フリートが寝台の縁へ座る。
「今日だけじゃないだろう。ここしばらく、ずっと」
「大丈夫だと思っていたのだけれど」
「私は大丈夫だったが、君まで」
「倒れかけてしまったし」
「それでも、君がいてくれて、本当によかった」
マルンナは夫を見る。
「わたくしもよ」
あの応接室で、夫だけが一人で立っていたら、また「妻へ気を遣った言葉」だと書き換えられていたかもしれない。
「あなたは、最後までずっとわたくしの夫だったわ」
「最初からだ」
「ええ」
マルンナは彼の手を自分の腹へ置いた。
「今度は、記事にもならない話ね」
「書かないさ。勿体ない!」
「あらそう? 誰にも?」
「こういう話は、家族だけでいい。家の中だけで楽しもう」
フリートはしばらく手をそのままにする。彼の手の温みが、マルンナにも伝わってくる。
「男の子だと思うか?」
「気が早いわ。でもどっちがいい?」
「どちらでもいい」
「なら聞かないの」
「気になるだけだ」
マルンナは笑った。
外ではまだ、新聞社が訂正記事を作り、男爵家が帰り支度をし、弁護士が書類を整えている。
けれど、この部屋にあるものは、もう誰にも読み替えられない。
「なあ、無理はしないと約束してくれ」
「じゃあ、あなたも仕事を持ち込まないで」
「今日だけは」
「今日だけ?」
「……じゃあ、しばらく」
「本当に?」
「君が許すまでなら、いつまでも」
フリートは身を屈め、マルンナの額へ口づけた。
「今度は、私達の話だ」
*
そして一年後の春。
モネは弟の寝台の横へ椅子を運び、絵本を広げていた。
「むかしむかし、あるところに」
生まれたばかりの弟は、まだ言葉を理解しない。時々手を動かし、姉の声に合わせるように口を開けるだけだ。
「まだ分からないわよ」
マルンナが言うと、モネは振り返った。
「でも、きいてる」
「そうね」
「いつか、わかるもん。だからいいの」
寝台の向こうでは、フリートが一度書いた原稿を読んでいる。以前より机を離れ、家族のいる居間で仕事をすることが増えた。
「今度の記事は?」
マルンナが尋ねる。
「領地の春祭りについて」
「誰かへの返事ではなく?」
フリートが顔を上げる。
「皆へ向けて書いている。当然だろう?」
「そうだったわね」
マルンナは笑った。
その時、侍女が一通の手紙を持ってきた。
「ボルネ男爵家からです」
マルンナは封を切る。ごくたまに来る短い近況の一つだった。
ドナ・サドンデスは実家へ戻り、今も家族のもとで暮らしている。しばらくは呆然としていた、と以前は書いてきていた。
そして教職へは復帰せず、新聞や雑誌への投稿も止めているということ。
しばらくは本を開くこともなかったが、最近になって、幼い頃に読んだ物語を少しずつ読み直しているという。
そしてレーダ・カモンという名は、あれ以来ずっと使っていない。
「今回は、どうだった?」
フリートが尋ねる。
「ちゃんと、本名で暮らしているそうよ」
「そうか」
「教師にはやはり戻っていないって」
「それがいいさ」
マルンナは手紙を畳む。
今後彼女がどうなるのかは分からないが、二度と誰かの言葉を奪わずに暮らせるなら、その方がよいとは思う。
「おかあさま」
モネが呼ぶ。
「ここ、なんてよむの?」
マルンナは娘の隣へ座った。
「これは、『返事』よ」
「へんじ」
「誰かがお話ししたら、聞いて、それから返す言葉」
モネは絵本へ目を戻す。
「じゃあ、あかちゃんのへんじは?」
弟が小さく声を上げた。
「あー」
モネが笑う。
「へんじした!」
「ええ。ちゃんと聞こえたわ」
フリートも原稿を置き、寝台をのぞき込む。
窓辺には、青い花が飾られていた。モネが朝、庭から摘んできたものだ。
父親へ渡し、父親がありがとうと受け取る。それだけの、小さなやり取りだった。
けれどこの家族には、それで充分だった。
今日もまた、一日がはじまる。
END




