第十四話 先生ではなく、わたくしの夫です
フリートが立ち上がると、応接室の全員がペンを持ち直した。
レーダだけが、わずかに顔を明るくする。自分に都合の良い言葉がもたらされると思っているのかもしれない。
「先生……!」
「違うわ」
マルンナが先に言った。レーダの視線が、フリートから彼女へ移る。
「あなたの先生じゃない」
「奥様」
「わたくしの夫よ」
強い声ではない。けれどフリートは立ったまま、妻の隣へ手を置いた。
「あなたは最初から、夫だけを抜き出して見ていたわね」
「わたくしは、フリート様のお心を」
「夫には生活があるの」
マルンナは続けた。
「領地があって、仕事があって、両親がいて、娘がいて、わたくしがいる。朝に原稿を書くことも、青い花を好むことも、その中にあることよ」
「存じています」
「いいえ、あなたは知らないわ」
「記事で」
「記事には載っていないものを、あなたは何一つとして知らない」
レーダが何か言おうとしたが、マルンナはそれを遮る。
「青い花を夫が好きになった理由も知らなかった。娘が夫へ初めて渡した花だったから。それをあなたは知らなかった」
「今は存じています」
「聞いたからでしょう」
「それでも、知ることができました」
「それで、また自分の話へ入れるの?」
レーダの口が止まる。
「モネが夫へ花を渡した日のことまで、あなたと夫の関係へ使うの?」
「そのようなつもりは」
「今まで、ずっとそうしてきたわ」
記事――講演――笑い――否定――途中で帰った者達。
彼女は、すべてを自分へ向けられたものに作り替えた。
「あなたは、わたくしが夫を理解していないと書いたわね」
「生活をご存じであることと、思想を」
「わたくしが夫を信じているのは、優しい妻だからではないわ」
マルンナはフリートを見る。
「この人が、わたくしを裏切らない人だからよ」
フリートの手が、妻の肩へ触れた。
「あなたは夫の言葉を読んだと言う。でも、夫がどんな人かは見ていない」
「だからこそ、わたくしは文章から」
「文章の中にも書いてあったでしょう」
レーダが黙る。
「自分で確かめること。本人に聞くこと。都合のよい話だけを信じないこと」
そうです、とオーレリーがわずかにうなずいた。
「夫が何度も書いてきたことよ。それなのに、あなたはそこだけを読まなかった。いえ、読もうとしていなかった」
「先生のお言葉には」
「先生ではない」
今度はフリートが言った。
「私は君の先生ではない」
レーダの視線が戻る。
「君は私の弟子ではない。知人でも、友人でも、恋人でもない」
「今は」
「今ではない」
フリートは一語ずつ、間を置いた。
「過去にもない。今後もない」
「ですが、未来のことは」
「私の未来だ」
レーダが息を詰める。
「君が決めるものではない」
オーレリーが記録係を見る。
「ここまで書けました?」
「はい」
「では、閣下。続けてください」
フリートは卓上へ一枚の紙を置いた。
すでに家令と弁護士が用意していた正式な通告書だった。
「私は、ドナ・サドンデスと私的な関係を持ったことはない」
レーダの指が動く。
「今後も持つ意思はない」
「先生……!」
「私の記事、講演録、私生活に関する情報を、君との関係を示すものとして公に語ることを認めない」
「文章をどう読むかは」
「読むのは自由だ」
一瞬、レーダの顔に明るさが戻った。
「だが君の解釈を、私の言葉として語ることは許さない」
ふっ、とその明るさが消える。
「今後、私の弟子、理解者、恋人、運命の相手を名乗った場合、虚偽の主張として正式に対処する」
「虚偽――ですか」
「事実ではないからだ」
「わたくしが感じたことまで」
「君が何を感じるかは止められない」
フリートは通告書へ署名した。
「だが、それは君の中だけのものだ。現実の、私との関係ではない」
侯爵印が押され、紙の上へ、乾いた音がした。
オーレリーが通告書を読み、下部へ確認者として署名する。
続いて中央通信社の編集長も署名した。
「両社で、この通告と本日の確認内容を保管します」
オーレリーが言った。
「あなたが後から別の意味を付けても、記録は変わりません」
「新聞社まで……」
「あなたが新聞を使ったからです」
サミュエルが手帳を閉じた。
「最初の記事で、私はあなたへ信用を貸しました」
レーダが彼を見る。
「ペイン様は、わたくし達の」
「いいえ、違います」
今度はサミュエルも迷わなかった。
「私は確認を怠り、あなたの話を記事にした。けど、あなたの同志でも、侯爵の弟子でもありません」
「ですが、記事を」
「出すのが正しいと思って、間違えたんです」
サミュエルははっきり言った。
「ですから、訂正します」
レーダは、サミュエルからオーレリーへ視線を移した。
「新報社では……!?」
「あなたの原稿は一切掲載しません」
「え…… 今回だけでしょう?」
「今後も、エイデット侯爵との関係を扱った原稿は受け取りません」
「教育についての文章は……」
オーレリーはすぐには答えなかった。
「少なくとも、今のあなたの文章は扱えません」
「なぜですか」
「あなたは出来事を書きながら、人の返事を自分の都合で変えてしまうからです」
「本質を……」
「それは、創作というのです」
ひゅっ、と音をさせて、レーダが初めて言葉を失った。
「あなたが書いたものは記録ではありません。実在する人々を使い、自分に都合のよい役を与えた創作です」
「わたくしは、嘘など」
「出来事が本当なら、意味を作ってよいわけではないのです」
オーレリーは新しい原稿を持ち上げた。
「侯爵夫妻が退席した。これは事実です。二人があなたについて話し合うために帰った。これはあなたの創作です」
次の頁。
「聴衆が笑った。事実です。皆があなたを理解した。創作です」
次。
「侯爵が否定した。事実です。弟子へ考えさせるためだった。創作です」
一枚ずつ、卓上へ置く。
「違いが分かりますか」
レーダは原稿を見ていた。
「これは、わたくしが」
「あなたが作った話です」
マルンナが言った。
「これは夫の人生ではないわ」
レーダが顔を上げる。
「奥様は、最後には」
「分からないわ」
首を軽く振りながら言う、マルンナの返事は早かった。
「あなたの言うことは、最後まで全く分からないわ」
「お優しい方なら……」
「優しさというものを、何でも許すことだと思わないでちょうだい」
マルンナは椅子から立った。ふっくらした身体を包む淡い色の衣服は、レーダが記事で描いた「夫の思想を理解できない穏やかな妻」と大きくは違わない。
けれど今、誰も彼女を弱いとは思わなかった。
「わたくしは妻として、あなたが夫の言葉を使うことを決して許さない」
一歩、夫の隣へ並ぶ。
「そして母親として、あなたが娘のことを自分の話へ入れることも許さない」
レーダの唇がかすかに動く。
「そして、子供を持つ者として言うわ」
マルンナは少しだけ息を整えた。
「あなたに子供の教育を任せるのは怖い」
父親が顔を伏せる。
レーダは、今度こそ何も言えなかった。
「子供は、大人が思うより先生の言葉を信じるの。自分が言ったことを、先生が違う意味にしてしまっても、子供は自分の方が間違えたと思うかもしれない」
「わたくしは、子供達にそのような」
「夫へしていることを、子供へはしないと言い切れる?」
レーダは返事を出すことができなかった。
ボルネ男爵が立つ。
「ドナ」
もう誰も、レーダと呼ばなかった。
「お前はもう、教師の仕事へ戻さない」
レーダの顔が上がる。
「でも、子供達が待っています」
「だから戻せん」
「わたくしが教えなくては……」
「代わりを探せばいい」
「すぐには見つかりません」
「それでもだ。探す」
男爵の声は揺れなかった。
「今のお前へ、領民の子供を預けることはできん」
「伯父様」
「学校へは、虚偽の理由で職場を離れたことも説明する」
「それでは、わたくしの」
「そうだ、お前のしたことだ」
父親が娘の前へ出る。
「ドナ。帰るぞ!」
「まだ先生との」
「終わった」
フリートが言った。
「終わっていません……!」
「終わったのです」
オーレリーも言う。
「記録しました」
更に中央通信社の編集長が続ける。
「訂正記事を出します」
サミュエルが続く。
「婚約も終わりだ」
ベルナーの声だった。
ボルネ男爵は最後に言った。
「そして、教師の仕事も、ここで終わりだ」
「皆様は」
レーダは部屋を見回した。
「皆様は、わたくしから何もかも」
「違うわ」
マルンナが言った。
「あなたが他人から借りて、自分のものにしたものを返すの」
「わたくしの名前まですか?」
「レーダ・カモンは筆名でしょう」
「本当のわたくしです」
「では、その人は誰の娘で、どこで育ち、誰と婚約し、どこの子供達へ教えていたの?」
レーダの口が開く。答えが出ない。
「それは全部、ドナ・サドンデスの人生よ」
卓上には、レーダ名義の原稿がある。
その隣に、ドナ名義の身元確認書、婚約解消の申立書、侯爵の正式な通告。そして新聞社二社の記録。
どれを見ても、彼女が自分で作った物語へ戻る道はなかった。
「先生……」
「違う」
フリートは最後に言った。
「私はエイデット侯爵フリートだ」
マルンナの肩を抱く。
「この人の夫で、モネの父親だ」
レーダの膝が崩れた。
椅子の端へ手を伸ばしたが、指が届かない。そのまま床へ座り込み、散らばった自分の原稿を見た。
「レーダ」
彼女がつぶやくその名前に、誰も応えない。
「レーダ・カモンは……」
声はそれ以上続かなかった。父親が近づく。
「ドナ」
今度は、訂正する言葉も出なかった。




