第十三話 婚約解消は祝福ではありません
レーダは婚約解消の書類を見たまま、しばらく動かなかった。
だがやがて、ぼつりと口を開いた。
「ベルナー様は、わたくしを自由にしてくださるのですね」
最初に出た言葉がそれだった。
サミュエルのペンが止まる。中央通信社の編集長が、横から手帳をのぞき込んだ。
「書いたか」
「今、書きます」
ベルナーそれを聞いて更に表情を引き締める。
「違う」
「ですが、婚約を解消してくださるのでしょう?」
「お前の恋を祝福するためではない」
「わたくしは、祝福を求めては」
「求めている」
ベルナーは書類の上へ指を置いた。
「俺が身を引けば、俺もお前と侯爵の関係を認めたことにするつもりだろう」
レーダはわずかに首を傾げた。
「ベルナー様は、ご理解くださったということでしょう?」
「理解したのは、お前が俺と結婚する気をなくしたことだけだ。それ以外のどんな意味もない」
「なくしたわけではございません」
「では俺と結婚するのか?」
レーダは答えなかった。
「それはいつだ?」
「それは」
「侯爵が心変わりしなければ?」
「先生のお心は――」
「侯爵の話はするな。俺はお前の話をしている」
ベルナーの声が強くなっていく。レーダの肩がわずかに動く。
「今は、俺がお前へ聞いている。俺と結婚するのか」
「今すぐには、申し上げられません」
「なら、終わりだ」
ベルナーは書類を開き、署名欄を示した。
「俺は、いつ終わるか分からない婚約を続る気はない」
「お待ちください、少しお待ちくだされば」
「俺は三週間、何も知らされずに待った」
「それは申し訳なく……」
「その間、お前は俺と婚礼の日取りを決めるつもりだと書いてきた」
「出発する時には――」
「今は違うんだな?」
「あ、はい」
「そうだ、それで充分だ」
レーダは書類からベルナーへ目を移した。
「ですが、わたくし達は長く――」
「だから遠路はるばる、ここまで、お前の話を聞きに来た」
「わたくしを信じて」
「信じていたんだ」
返事が早かったためか、レーダは黙った。
「お前が帰ってくれば、事情を聞いて婚礼の日取りを決めるつもりだった。新聞の記事も、何かの間違いかもしれないと思っていた」
ベルナーは卓上の手紙を取り上げる。
「これを書いたお前を信じた」
「今も、偽りを書いたつもりは」
「結果として偽りになった」
「気持ちは変わることがございます」
「変わったなら伝えろ」
「先生のお気持ちが」
「またそこで、侯爵か」
ベルナーは手紙を畳んだ。
「お前は俺へ、自分の考えが変わったことを伝えなかった。代わりに新聞へ、俺との婚約は形だけだと語った」
「そこまでは」
「記事には、政略の婚約があるため侯爵が慎重になっていると書かれていた」
サミュエルが手帳を確認する。
「本人の言葉として載せました」
「あなたが?」
レーダが彼を見る。
「はい。取材の際、そう話しました」
「正確には、家同士の事情がございますからと」
「同じことです」
「意味が違います」
サミュエルは一瞬、何か言い返そうとした。編集長が先に口を開く。
「今の発言も記録しろ。自分の発言についても、後から意味が違うと主張した、と」
サミュエルはすぐに書いた。
「はい」
オーレリーがレーダを見る。
「では確認します。ベルナー様との婚約は、家同士の事情だけで結ばれたものだったの?」
「いいえ」
「あなたも望んだ?」
「はい」
「婚礼の日取りを決める予定だった?」
「はい」
「王都へ来たあと、結婚する意思が変わった?」
「先生に直接お会いして、確信が」
「はいか、いいえで」
オーレリーは戻した。
「変わりましたか」
レーダは少し黙る。
「はい」
壁際で、またペンの音が揃った。
「ベルナー様へ、そのことを知らせましたか」
「いいえ」
「婚約を解消する手続きは?」
「まだ――」
「婚約者へ説明しないまま、別の男性との関係を新聞社で語った?」
「先生とは、一般的な男女の関係では」
「語りましたか?」
「……はい」
「以上で、ベルナー様との婚約については確認できました」
オーレリーは紙を一枚、脇へ移した。ベルナーが書類を再びレーダの前へ置く。
「今ここで、署名しろとは言わない」
「では」
「これはあくまで俺からの申立てだ。両家で手続きを進める」
「わたくしの同意なしに?」
「婚約を続ける意思がないと、今ここでお前自身が答えたんだ」
「今すぐには結婚できないと申し上げただけです」
「つまり、いつか俺という、戻る場所を残しておきたいのか」
レーダの口が止まる。
「侯爵がお前を受け入れなければ、俺との婚約へ戻る」
「そのような言い方は」
「違うなら言え」
ベルナーは待ったが、レーダは答えなかった。
「では、もう終わりだ」
書類を閉じる。
「この場にいる全員が聞いた」
レーダは、記録を取る者達を順番に見た。
「皆様は、わたくし達の婚約を終わらせたいのですね」
「違う」
オーレリーがすぐに答えた。
「ベルナー様が終わらせるのです」
「皆様に囲まれたこの場で」
「あなたが一人ずつ勝手な役を与えた方々が、実際の立場で話しているだけよ」
「わたくしは、役など」
「では、ベルナー様を何と書いたの? 今のあなたの口から言えないなら、ここにあります」
オーレリーはレーダの新しい原稿を開いた。
「『わたくしの背を押すために現れた、善良な婚約者』」
ベルナーの目がきゅ、と細くなる。
「そんなことまで書いたのか……」
「ベルナー様は、わたくしの教育を支えてくださいました」
「婚約解消も、背を押したことにするつもりだったな」
「結果としては」
「……するな」
今度の声は低かった。
「俺のしたことを、お前の物語へ入れるな」
「ですが、人の出会いには」
「俺の人生だ」
ベルナーは書類入れへ手紙を戻した。
「お前の文章の材料ではない」
レーダは初めて、言葉に詰まった。
部屋にペンの音だけが残る。オーレリーは少し待ってから、次の紙を取った。
「では、婚約についての確認はここまでにします」
「まだ、お話は」
「ベルナー様は終わったと仰いました」
「わたくしにも」
「あなたの返事は記録しました」
オーレリーはボルネ男爵へ視線を移した。
「次は勤務先と、無断で王都へ来た経緯について伺います」
レーダの父親が深く息を吸う。顔色は良くない。
「ドナ」
「違います、レーダです」
「いや」
父親は首を横に振った。
「今度はドナとして答えなさい」
「何が違うのですか」
「レーダ・カモンは、王都で文章を書いている女だ」
父親は娘を見た。
「学校を休み、子供達を待たせ、母親を病人にしたのは、ドナ・サドンデスだ」
レーダの指が、膝の上で初めて動いた。
「子供達は――」
「今も、お前が戻ると思っている」
「代わりの教師は?」
「急には見つからない」
「では、戻って事情を……」
「お前は戻れるのか? すぐに」
父親の問いに、レーダは顔を上げた。
「先生とのお話が終われば……」
応接室のあちこちで、同時に息が漏れた。サミュエルは手帳へ顔を伏せる。
「まだ終わってないことになってる……」
編集長が横から書き足した。
「本人は帰郷の条件として、侯爵との話の終了を挙げた」
「はい」
フリートが椅子から立った。
「なら、今ここで終わらせよう」
レーダの顔が明るくなる。
「先生!」
「最後に一度だけ、君へ直接言う」
マルンナも夫を見上げた。応接室の全員が、ペンを持ち直した。




