第十二話 形式としては
「なるほど、お前の言う、形式とは何なんだ?」
ベルナーは椅子を前に寄せて座り直し、レーダを正面から見る。若い記者達が、新しい紙を手元へ引き寄せた。
「まず、婚約というものは、お互いを知るための期間でしょう?」
レーダは穏やかに答えた。
「そうだ」
「その期間に、わたくしは先生と巡り会いました」
部屋が静まる。ベルナーは一度だけ目を閉じた。
「だから、俺との婚約は形式になったのか」
「婚約のお役目が、終わったのです」
「役目」
「ええ」
「いつ終わった」
「先生の記事を読み、わたくしの求めていた方はこの方だと分かった時です」
ペンの音が止まった。オーレリーが壁際を見る。
「続けてください」
若い記者達は慌てて手を動かした。
「では、その時点でベルナー様との婚約を解消しようと?」
「すぐに申し出ることはできませんでした」
オーレリーが尋ねる。
「なぜ?」
「先生も、まだご自身のお心にお気付きではありませんでしたから」
「侯爵の心と、あなたの婚約に何の関係があるの?」
「先生のお考えを確かめてからでなくては、ベルナー様にもきちんとご説明できないでしょう」
「そう、俺へは、何も説明しなかったな」
ベルナーが言った。
「お前は旅行へ出る。帰ったら婚礼の日取りを決めたい。そう書いてきた」
「はい」
「婚約の役目は終わったのに?」
「ご心配をお掛けしたくありませんでした」
「帰ったら結婚すると思わせることが、心配を掛けないことなのか」
レーダは少し考えた。
「その時には、すべてがよい形に収まっていると思いました」
「よい形とは?」
「先生がご自分のお心を認め、奥様にも事情をお話しになり、ベルナー様にもわたくし達のことを理解していただくことです」
マルンナが顔を上げた。
「わたくしにも事情を?」
「ええ。奥様なら、最後には分かってくださると」
「夫があなたを愛していると?」
「今すぐではございません」
「いつなら?」
「先生がご自身のお心を認められた時に」
フリートが口を開く。
「認めるものなどない!」
「先生」
「私が愛しているのは妻だ。君ではない」
「今は、そうお考えなのですね」
「昔も今も、今後も、永遠にだ!」
「未来のことまでは、どなたにも」
「私のことだ。私が決める」
レーダはフリートを見たまま、小さく息をついた。
「先生は、とても責任感のお強い方ですから……」
「今の返事のどこに、責任感の話があった?」
「奥様とお嬢様を守ろうとなさっているのでしょう」
「家族を守る。君を愛していない。それは同じ話だ」
「今は、分けてお考えになれないのですね」
ボルネ男爵が額を押さえた。ドナの父親は娘の名を呼びかけ、やめた。
ベルナーだけは、まだレーダから視線を外していない。
「では聞こう。ドナ、俺は、お前にとって何だった」
「大切な方です」
「なるほど、現在形か」
「もちろんです」
「では、結婚する気は?」
「形式だけの婚姻を続けることは、ベルナー様にも失礼でしょう」
「婚約は形式だが、俺は大切な方」
「はい」
「結婚はしないが、婚約は続けたまま王都へ来た」
「まだ、お話が終わっておりませんでしたから」
「誰との話だ」
「先生との」
「侯爵は、お前と話していない」
「記事を通して――」
「それはもういい!」
ベルナーは初めて、少し強く言った。レーダの口が止まる。
「俺は今、お前と俺の話をしている」
「ですから」
「侯爵の記事も、奥方も、教師の仕事も関係ない。《《俺がお前へ聞いている》》」
ベルナーは卓の上へ、一通の手紙を置いた。ドナが旅へ出る前に送ったものだった。
「これはお前が書いたな」
「はい」
「帰ったら婚礼の日取りを決めたいとある」
「その時は、そうするつもりでした」
「いつ考えが変わった」
「先生に直接お会いして」
「侯爵から拒絶されたあとに?」
「先生は拒絶なさっておりません」
「何と言われた」
「今は会う理由がないと」
「それを拒絶と言うんだ」
「今は、と」
「『今は』を足したのはお前だ」
オーレリーが若い記者を見る。
「そこは正確に」
「はい」
記者の一人が、フリートへ確認する。
「閣下は『今は会う理由がない』と仰ったのですか」
「会う理由がない、と言った」
「『今は』は?」
「言っていない」
「記録しました」
レーダが記者へ顔を向ける。
「言葉は、その場の状況も含めて理解しなくては」
「今はベルナー様の質問へ答えて下さい」
オーレリーが戻した。
「侯爵に拒絶されたあと、なぜ婚約者へ連絡しなかったの?」
「拒絶ではございません」
「では言い換えます。侯爵から、妻を愛している、あなたを愛していない、弟子ではないと告げられたあとです」
「先生は混乱しておられました」
「あなたは?」
「落ち着いておりました」
「婚約者へ説明する必要は感じなかった?」
「まず、先生とのお話を終える必要が」
「その時点で終わっていた」
フリートが言う。
「終わっておりません」
「私の方は、最初の日に終わっていた」
「先生お一人で終わらせられるお話ではございません」
「私と君の関係を、なぜ君だけが続けられる?」
「お互いの関係ですから」
「だから、関係がないと言っている」
「そのことを話し合っている時点で、関係はございます」
若い記者の一人が、とうとうペンを置いた。
「すみません」
オーレリーが見る。
「どうしたの?」
「俺、書いていて、どこへ戻ればいいのか分からなくなりました」
「……最後の質問からでいいわ」
「はい」
レーダは記者へやさしく微笑んだ。
「複雑なお話ですもの。無理もございません」
「あなたが複雑にしているのよ」
オーレリーが言った。
「いいえ。皆様が、簡単な形へ収めようとなさるからです」
その時、応接室の外が少し騒がしくなった。扉が開き、事務員が顔を出す。
「ブリッジ夫人。中央通信社の編集長と、ペイン記者がお見えです」
「入っていただいて」
サミュエルは息せき切って部屋へ入るなり、卓上へ広がる紙と、壁際で記録を取る記者達を見た。
「もう始まっているんですね」
「ずいぶん前から」
オーレリーが答える。中央通信社の編集長は一同へ挨拶し、空いた席へ座った。
「遅れて申し訳ない。ここまでの記録は?」
「取ってあります」
「後で写しをいただきたい」
「もちろん」
サミュエルも手帳を取り出した。レーダが彼を見て、嬉しそうに顔をほころばせる。
「ペイン様も来てくださったのですね」
「呼ばれましたので」
「わたくし達のことを、最後まで記録してくださるのですね」
「今日は、あなたの言葉が後で別の意味にならないように来ました」
「ええ。正確な記録は大切です」
サミュエルは一度、目を閉じた。
「もう少し早く気付けばよかった」
編集長が小声で言う。
「何にです?」
「何を言っても同意になることにだ」
ベルナーは二人が座るのを待ち、改めてレーダへ向き直った。
「俺との婚約の話へ戻るぞ」
「はい」
「俺は、今も結婚する意志があると思って王都へ来た」
レーダが少し驚いた顔をした。
「そうでしたの」
「そしてお前の口から聞くまでは、決めないつもりだった」
「ベルナー様はお優しい方です」
「だが、お前は俺と結婚する気がない」
「今のままでは」
「侯爵が、お前を愛していないと言っても?」
「先生が本当のお心に気付かれれば」
「じゃあ、気付かなければ?」
レーダは答えなかった。
「一生、俺を婚約者のまま待たせるのか」
「そのような――」
「では、いつまでだ?」
「先生とのお話が」
「もうそれは終わっている」
ベルナーは、フリートと同じ言葉を使った。レーダの眉がわずかに寄る。
「皆様、同じことを仰るのですね」
「当然だ。お前以外は同じ事実を見ているからだ」
ベルナーは懐から、小さな書類入れを出した。
「お前が俺との婚約を形式だと言うなら、こちらも形式を終わらせる」
卓上へ置いたのは、婚約解消の書類だった。ドナの父親が息をのむ。
この時レーダは初めて、それまでとは違った視線でそれを見た。
「ベルナー様、これは……」
「婚約解消の申立書だ」
「え、なぜ、そのようなものを」
「お前が俺と結婚する気はないと、今ここで確認できたからだ」
「わたくしは、まだ」
「まだ? 何だ?」
「ベルナー様とのご縁を、粗末にしたいわけではございません」
「ほう、結婚はしない。だが婚約は残したい、と」
「すべてが落ち着けば、よい関係に」
「何の関係だ」
レーダはまた答えに詰まった。ベルナーは書類を彼女の前へ押し出す。
「お前は侯爵の弟子ではない。恋人でもない。俺の妻になる気もない」
一つずつ、区切った。
「なら、今のお前は何だ?」
レーダは書類を見たまま、しばらく動かなかった。




