2.危険で偶然な遭遇
「……マジでなんなんだよ、ここ……」
潤は今、荒れた焼け野原に一人取り残されていた。
先程まで居た森は見る影もなく、同じものと言えば今出てきた祠だろう。奇しくも、森に迷い込んだ時と同じ状況になってしまっている。
潤は先程負った傷を抑えるように左手で右手を抱えながら、一歩、また一歩と歩みを進めた。
地に足を付ける度に乾いた土が砕ける音が鳴り響くのが印象的で、正体も分からない灰が潤の靴底にまとわりつく。
森で聞いていた湿った土を踏む音とは違う。耳に残るのは、乾き切った大地を踏み締める無機質な音だけだった。
「……現代日本に、こんなところ本当にあるのか…?あったとてだ、俺は……見たことない。」
乾燥した空気が鼻を突き抜ける度に、喉から肺にかけての水分が抜かれてゆくような、息苦しい感覚に襲われ、かなりの不快感を痛覚に加えて助長していた。
……それにしても、暑い。辺り一帯は夜の帳が降りているにも関わらず、ここまで気温が暑くなるものだろうか。この環境は真夏の昼を想起させる。
潤の記憶通りであれば、今は秋であったはずで、真夏とはもう別れを告げた後のはずなのだが。
「……あっついな……まだ乾燥してて風があるからマシなんだろうが……昼になったときのことなんて、考えたくもないな。」
潤は羽織っていた上着を徐に脱ぎ、腰に巻き付けて縛った。
「んなことすんの…何年ぶりだったかな。」
部活終わりの中高生のような恰好になり、潤も少し過去を思い返す。陸上部に居た時も、確かこんなふうな恰好をして部活仲間と帰路を辿ったはずだ。いつも通り談笑し、いつも通り友達を家まで送って、少し遠くの家だった潤は、最後全員を送った後に帰るのだ。
懐かしい気持ちになる、確かあの時──
──なんでこいつだけ生きてるんだよ。
「……っ!!」
ふと、そんな声が脳内に聞こえてきた。確かに、聞いた声、聞き覚えのある声。潤の歩みが止まった。
頭痛がする。せっかく今まで、忘れてたって言うのに。
「……死んでなんか、ねえよ。妹は、彩羽は。死んでねえよ…。」
潤は自分に言い聞かせるようにしながら、頭を抑えて顔を顰める。怒りや、憎しみが、忘れようと思って忘れきれてない記憶を、どうにか忘れてしまおうと声を漏らしたのかもしれない。
だって、彩羽は死んでいないんだから。まだ…彩羽は見つかる。ようやく彩羽の失踪の原因となりそうな手がかりを見つけたのだ。今更過去を振り返ってどうなるだろうか。
潤は前を向く。ここに居続けても何も始まらない、気合を入れなおさなければと、無理やり前を向くことにしたのだ。
…その時、ぞわりと、神経を逆撫でするような、粘着質な奇妙な音が潤の耳元で鳴った。
「…悲しい、ノ?」
それが何かの声であると気付くのに時間がかかったほどに、その声は不協和音に近かった。
「ワタシも悲しい、ヨ?キミも悲しい、ネ?」
潤は咄嗟に両耳を手で塞ぎ、声が聞こえた方面から距離を取った。後退し、その声の主であろうものを見据える。その姿は、即座に見たことを後悔させるほどに悍ましいものであった。
この世のものではない、怨霊などに近いとも思った。小柄な女性、しかし、その全貌は随分気持ちの悪いほど濡れた、ともすれば床についてしまいそうなほど長い髪で隠されていた。
が、下半身は随分と揺らめき波打っており、そこに存在しているのか、していないのか随分と不明瞭だった。
「ば……化け物……ッッ!!」
髪の間から、水滴が滴り落ちている手が両側から伸びている。その腕と手は確かに人間の手の形に似ていたが、しかし違う。
少し膨らんで膨張した手腕、それは白く、時折青白く変色してしまっていた。
髪の間から覗く青く見開かれた眼は、潤を一点に見つめていた。
「……これじゃまるで…水死体、じゃないか…!!」
潤は水死体、というものを見たことはなかった。しかし、聞いた話やフィクションから、もし存在するならこんな容姿をしていたのかもしれない。という確信さえ、潤はあった。
それを確信たらしめる何かが目の前の者にはあったのだ。未だに濡れた髪と全身から、水滴が滴り落ち、その者の容姿を更に恐ろしくしている。
「溺れ、溺れ溺レオボレオボレる、ネ?とても苦しい、ヨ。」
その化物は、水音を帯びた足音を、断続的に響かせながら、潤へ歩みを進めてきた。
妙に間延びした声が、潤の耳には恐ろしいほど不快な音として届けられる。
先程まで悩んでいた感情、ここに来た困惑を全て塗りつぶすようにして、潤の脳内では恐怖と警鐘で埋め尽くされていた。
「足…足動け…今、今動かなきゃ、いつ動くって言うんだ!!」
根源的な恐怖は、潤の足をよろめかせ、震えさせた。潤はそれを文字通り叱咤するようにして何度も足を叩いた。そして無理やり震えを止め、後ろを振り向き、スタートダッシュを切った。風を切る。
「クソ…クソなんだよ、ここはなんなんだよッ!!」
規則正しく呼吸をしようとする。今は息が切れないことを最優先にしなければならない。後ろを向くことができていないが、ちゃんと切り離せているだろうか?
しかし、先程の水音はもう聞こえない。きっとすぐ至近距離を追いかけてきているなんてことはないはずだ。このまま振り切れば───
「がぼ……っ…!!?」
なんだ……何が、起こった?
潤は今、水中に居る。先程まで、水なんていうものは幻想であるという程乾いた大地を走っていたというのに。
「ご……ごぼっ……が…!!」
突然のことに、潤は大きく息を吸ってしまった。肺に水が大量に溜まる。吐き出そうとしても、どうしても辺りに広がるのは水、水、水。
目を見開けば、目の前の情景が変わっている訳ではなかった。確かにそこは先程まで居た焼け野原だったのだが、それでも水の中に居るということは、潤は今、水の檻のような場所に入れられているのだろうか。
「くる……、ネ?いき……し…い、ナ。か………ない、ナ。」
水中で音が通らない、が、確かに目の前まで歩いてきた化け物は言葉を紡いでいた。先程と寸分違わない容姿をして、そこに立っていた。
この水は、こいつの仕業であろうということは明らかであった。
「が…………」
俺は、死ぬわけには……死にたく、ない………死にたく………
改めて、潤は抵抗できない状態で化け物と相対し、死に物狂いで水中を藻掻く他ない。
しかし、どれだけ動いたとしても、潤の動きに追従するようにして、水が潤を襲い続ける。
潤は下を見る、随分地面が遠かった。水諸共浮かされているのだ。
それに潤が気づいても尚、不思議に思う気力すらなく、時間は流れ、酸素を目の前に散らして、減らして、無くしていく。
その間も化け物は何かを喋っている。たった数十秒、けれどそれは、潤の意識を水に溶かしていくには十分な時間で。いつしか微睡に沈んで──
………彩羽……ごめ……ん……
…その時起きたことは、スローモーションに見えた。突然、前触れもなく、目の前の化け物の左腕が吹き飛んだのだ。水中に居ても、破裂音が反響してよく聞こえた。
化け物が自分でやった…ようには見えなかった。
実際、困惑したように自身の無くなってしまった左腕を観察しているのだから。
潤の意識が落ちていく前に、潤を苦しめていた水は徐々に端から蒸発していき、その場から消え失せていく。それすら、潤にとって簡単に信じられるものではなかったのだが。
随分と宙に浮かされてしまっていた潤の体は、水が消えたことで浮力を失い、自由落下してしまう。
せめて体勢を変えなければ、このままであれば潤は頭から落下し、簡単に死に至ってしまうことは一目瞭然である。
衝撃に備え、目を瞑った。それくらいしか出来ることがなかった。
ただし、そんな潤の体は何かが緩衝材となって、固い地面に叩きつけられることはない。
瞬時にそれを判断することは難しかった、しかし、背中に伝わった感触は人間の手…それも、女性の華奢なものだった。
「……なに、してんのさ。ホントに。」
聞こえた声は、極度の懐かしさを孕んでいた。潤が最も聞きたかった声で、最も聞いた声。
ふわりと自宅に居るかのような感覚に陥り、目を開いた。
「こっちの、セリフだ…。なにしてんだよ。彩羽!」
潤は確信めいた声と共に、目の前の彼女を見据えた。
長い白髪と、大きい眼に長い睫毛のついた彼女は、紛れもなく彩羽その人であり、潤を抱きかかえて、とてつもない速度で走り抜けていた。
その姿は私服は懐かしいものと違い、白を基調とした、変わった軍服のようなものを身に纏っていたのだ。
しかし、潤にとって何よりも目に入るのはその表情であった。
……彼女の表情には闇が落ちている。潤はその意外な表情を目撃し、目を見開く。
「…な、なんでそんな顔…俺だ。潤だぞ。やっと…会えたんだ。」
その表情は、望むとおりにならなかったといった表情で、潤が思う彩羽の感情とは真逆のものであった。
「……なに……してるのって、聞いてるの、潤…!!」
彩羽は悔しそうに顔を引きつらせ、もう一度その言葉を吐いた。違う、こんな顔をさせたかったわけじゃ……
「ワタシ、逃げられてとっても、悲しい、ナ。死にたくなる、ナ。でも死ねない、ヨ。」
忌々しさを感じさせるその声がその場に響く。
相変わらず耳の中まで気持ち悪いほどに、粘質で不快な声だった。
彩羽は潤をその場に降ろし、声の主の方へと向き直った。
「暗殺結社として…暗殺してしまいたかったけど、まだまだ私は未熟だった。」
暗殺結社、なんて言葉に少し疑問も残っていたが、こちらの声を今は聞いてる場合じゃないのだろうと判断し、潤も化け物の方に目を配る。
化け物は首を傾げて、長すぎるほどの長髪が横へと靡く。
「未熟なんだ、ネ。自分で認めてしまうの、カ?」
靡いた髪から、突き抜けてしまう程上げた三日月形の口角が嫌に印象に残る。
「そうだね、君は…随分強いみたいだから。…でも、それでもここは引かないよ、磯女!」
彩羽は、懐に手を入れたかと思えば、黒鉄の拳銃を取り出す。フィクションでしか見ないその様相に、潤は言葉を失う。それも、自身の妹が慣れたように取り出したのだ。
彩羽は身軽に走り出す、ただ、その場を大きく離れること無く、潤を気にかけながら拳銃を磯女に構えたことは歴然としていた。
拳銃から発せられた破裂音を合図に、磯女と呼ばれた化け物と、彩羽の交戦が始まった。
放たれた弾丸は磯女を捉えた。しかし、乱暴に動く毛髪が狙いをずらしたのか、弾丸は髪の間を潜り抜けて後方へと飛び出してしまったように見える。
磯女は姿勢を低くしつつ、意外にも彩羽から距離を取った。
……距離を取る。少しその行為に潤は嫌な予感がして……
「……彩羽!!そこを今すぐ離れろ!!」
咄嗟に出た言葉だった。だが、彩羽は、素人の兄の放ったそんな荒唐無稽な言葉の真偽も考えずに、走る先の軌道を90度、地を蹴って変えた。
その瞬間、先程よりも更に不快感を煽る声で、磯女は言葉を零したようだった。潤は……先程走るのに夢中で、この言葉を聞いていなかったのだ。
「妖術………」
その声は、先程までと違って間延びしていない、脳の奥まで響かせるような声だった。
彩羽はその『妖術』という単語を聞くやいなや、足を動かすスピードを明らかに目に見えて早めた。磯女はそれでも、言葉を続ける。
「《流水檻》。」
そう言葉にすれば、空気の流れが変わる。乾いていた空気に潮の香りが漂い、湿度が出来ていく。
磯女の湿感をそのまま空気へと変えていくような、嫌な空気感を作り出してすぐに、磯女の前に水が集まり始めた。
それは、渦となって、不可思議なほど水に流れがあって、いつしかとてつもなく大きい水の塊のようになったそれは宙を動いていて…外から見ればそれは、水の檻、いや、むしろ…要塞のようだった。
「……これは……練度が違うね……」
そんな動く水の要塞からどうにか脱兎のごとく駆けながら、彩羽はそんなことを言って額に汗を滲ませるのだ。
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