第66話:『財務卿。あなたの帳簿は、まだ生きていらして?』
役場は、旧王宮の門衛所を帝国が接収した、石造りの小さな建物でしたわ。
中には机が三つ。壁の棚には帝国式の綴りが日付順に並び、床には薪の代わりに泥炭の匂いが染みついております。帝国から派遣された若い書記が二人と、いちばん奥の机に、白髪の老人が一人。帝国の書類に日付の判を押す仕事で、日当は銅貨三十枚。それが、かつてこの国の財務卿だった男の現在の値段ですの。
「バルトロ財務卿。……いえ、今はバルトロ殿とお呼びすべきかしら」
老人は判を押す手を止めませんでした。顔も上げません。
「用があるなら書記に言え。わしは判を押すだけの老いぼれよ」
判の音が一つ。声は、あの頃より低く掠れておりました。
「財務卿の帳簿が、まだ生きていらっしゃるかどうかを伺いに参りましたの」
判が、止まりました。
判を持つ手は、あの頃より小さく見えました。指の節が太くなり、爪の間に墨ではなく泥炭の黒が入っております。財務卿の手は数字を書く手でしたけれど、今は薪を割る手ですの。
この方とわたくしには、二つの因縁がございます。一つは、わたくしが十八の年に書いた王室予算案を、この方が「女だてらに数字を弄ぶ小娘が」と言って目の前で破ったこと。もう一つは、その半年後、ベルグの騎兵三千が国境に迫った日に、この方がわたくしの執務室の床に額を擦りつけたことですわ。
破られたことは、忘れておりません。額を擦りつけられたことも。どちらも帳簿に残しておりますの。
あの予算案は、羊皮紙で十二枚ございました。騎士団の給与を三割減らし、代わりに街道の関税を二年で倍にする案。破られた紙片を拾い集めて、わたくしは翌日、同じものをもう一度書きました。それを王家ではなく大商会に持ち込んで、信用枠を取りましたの。この国の財政がわたくしの署名で回り始めたのは、あの破られた十二枚からですわ。
「王国債の発行原簿。帝国の記録では、財務省の火事で焼けたことになっておりますわ」
「焼けた」
顔を上げずに、判を一つ。
「あら。即答ですこと」
「小娘に読ませる頁など、一枚も残っておらんわ」
書記の二人が息を詰めております。皇妃を小娘と呼んだ老人が、この後どうなるのかを見物する顔ですの。わたくしはその顔を、扇で軽く払いました。
「バルトロ殿。取引をいたしましょう」
「……取引だと」
判の音が、止まりました。
「帝国は旧王国の官吏に年金を払っておりませんわ。日当銅貨三十枚では、冬を越すのに薪が足りませんでしょう。わたくしの署名で、あなたの年金を保証いたします。生涯ぶん。……原簿を、一度だけわたくしの目に見せていただけるなら」
老人は、そこで初めて顔を上げました。皺の中の目は、あの夜と同じ色をしておりました。額を擦りつけながら、わたくしを憎んでいた目ですわ。
「小娘の署名で買われる老いぼれではない」
「そのお言葉、あの日、ベルグの騎兵の前で伺いたかったですわね」
老人の口の端が、僅かに動きました。
「あのときは国が沈みかけておった。今は、もう沈んでおる。沈んだ船の乗組員に、署名で何を買うつもりか」
わたくしは扇を閉じました。取引は、不成立ですわ。論破するのは簡単ですの。この方の判の日当も、この建物の薪も、帝国が払っておりますから。ですが、この方を跪かせても原簿は出てまいりません。跪く男は、頁を隠すものですわ。
「では、一つだけ伺いますわ。財務省が燃えたのは、いつ」
「王宮が略奪された翌朝じゃ。暴徒が火をつけた。……わしは、その前の晩に印章を探しておった」
「印章」
「王家の印章よ。国璽じゃ。あの夜、王宮から消えた。……王太子が持ち出したのか、暴徒が持っていったのか、わしは知らん。印章のない財務省は、もう財務省ではないわ。焼けても、焼けんでも」
老人は、それだけ言って判に戻りました。それ以上は、一言も出てまいりませんでしたわ。書記の二人は判の音に合わせて頁をめくり、わたくしがまだそこに立っていることを、見ないようにしておりました。
外に出ると、アラリック様が門衛所の壁にもたれて待っていらっしゃいました。街の目立たぬ型の外套を羽織って、剣は外套の下。門衛所の前を通る人々は、それが皇帝だとは気づかずに、ただ背の高い護衛だと思って通り過ぎていきます。それでよろしいのですわ。この街で皇帝の顔が要る場面は、まだ一つも来ておりませんもの。
「取れたか」
「原簿は取れませんでしたわ。代わりに、印章の行方が一つ増えましたの」
「増えた、というのは」
わたくしは扇を開いて、役場の小さな窓を隠すように傾けました。
「王家の印章は、あの夜に消えた。……そして今、誰かが『印章を用意しろ』と言える街ですわ、ここは」
わたくしは昨日の広場の裏手で交わされた言葉を、まだ知りませんでした。ですから、これは後になって帳簿に書き足した一行ですの。
「フン。老人の帳簿を、力で開けさせるつもりはないのか」
「開けさせても、燃えた燃えたと言い張るだけですわ。あの方は、わたくしに額を擦りつけた日を一日も忘れておりませんもの。……取引の値段が違うのですわ。金でも、年金でもない何か。それを、まだ査定できておりませんの」
わたくしは役場を振り返りました。小さな窓の向こうで、老人が判を押しております。
わたくしは、気づきませんでしたの。老人が判を置くたびに、上着の上から胸元を押さえていたことに。首から紐で下げた小さな鍵を、わたくしの背中が見えなくなるまで、ずっと握っていたことに。
気づいたのは、ずっと後のことですわ。
次回、第67話『下水の王子様、あなたの帳簿を拝見いたしますわ』。
下水には、不良在庫が二つ。片方は、帳簿をつけております。




