↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄、結構ですわ。ただし私が裏で支えていた王室予算三万枚、今すぐ一括返済してくださるかしら?  作者: 朝比奈ミナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
66/67

第66話:『財務卿。あなたの帳簿は、まだ生きていらして?』

 役場は、旧王宮の門衛所を帝国が接収した、石造りの小さな建物でしたわ。


 中には机が三つ。壁の棚には帝国式の綴りが日付順に並び、床には薪の代わりに泥炭の匂いが染みついております。帝国から派遣された若い書記が二人と、いちばん奥の机に、白髪の老人が一人。帝国の書類に日付の判を押す仕事で、日当は銅貨三十枚。それが、かつてこの国の財務卿だった男の現在の値段ですの。


「バルトロ財務卿。……いえ、今はバルトロ殿とお呼びすべきかしら」


 老人は判を押す手を止めませんでした。顔も上げません。


「用があるなら書記に言え。わしは判を押すだけの老いぼれよ」


 判の音が一つ。声は、あの頃より低く掠れておりました。


「財務卿の帳簿が、まだ生きていらっしゃるかどうかを伺いに参りましたの」


 判が、止まりました。


 判を持つ手は、あの頃より小さく見えました。指の節が太くなり、爪の間に墨ではなく泥炭の黒が入っております。財務卿の手は数字を書く手でしたけれど、今は薪を割る手ですの。


 この方とわたくしには、二つの因縁がございます。一つは、わたくしが十八の年に書いた王室予算案を、この方が「女だてらに数字を弄ぶ小娘が」と言って目の前で破ったこと。もう一つは、その半年後、ベルグの騎兵三千が国境に迫った日に、この方がわたくしの執務室の床に額を擦りつけたことですわ。


 破られたことは、忘れておりません。額を擦りつけられたことも。どちらも帳簿に残しておりますの。


 あの予算案は、羊皮紙で十二枚ございました。騎士団の給与を三割減らし、代わりに街道の関税を二年で倍にする案。破られた紙片を拾い集めて、わたくしは翌日、同じものをもう一度書きました。それを王家ではなく大商会に持ち込んで、信用枠を取りましたの。この国の財政がわたくしの署名で回り始めたのは、あの破られた十二枚からですわ。


「王国債の発行原簿。帝国の記録では、財務省の火事で焼けたことになっておりますわ」


「焼けた」


 顔を上げずに、判を一つ。


「あら。即答ですこと」


「小娘に読ませる頁など、一枚も残っておらんわ」


 書記の二人が息を詰めております。皇妃を小娘と呼んだ老人が、この後どうなるのかを見物する顔ですの。わたくしはその顔を、扇で軽く払いました。


「バルトロ殿。取引をいたしましょう」


「……取引だと」


 判の音が、止まりました。


「帝国は旧王国の官吏に年金を払っておりませんわ。日当銅貨三十枚では、冬を越すのに薪が足りませんでしょう。わたくしの署名で、あなたの年金を保証いたします。生涯ぶん。……原簿を、一度だけわたくしの目に見せていただけるなら」


 老人は、そこで初めて顔を上げました。皺の中の目は、あの夜と同じ色をしておりました。額を擦りつけながら、わたくしを憎んでいた目ですわ。


「小娘の署名で買われる老いぼれではない」


「そのお言葉、あの日、ベルグの騎兵の前で伺いたかったですわね」


 老人の口の端が、僅かに動きました。


「あのときは国が沈みかけておった。今は、もう沈んでおる。沈んだ船の乗組員に、署名で何を買うつもりか」


 わたくしは扇を閉じました。取引は、不成立ですわ。論破するのは簡単ですの。この方の判の日当も、この建物の薪も、帝国が払っておりますから。ですが、この方を跪かせても原簿は出てまいりません。跪く男は、頁を隠すものですわ。


「では、一つだけ伺いますわ。財務省が燃えたのは、いつ」


「王宮が略奪された翌朝じゃ。暴徒が火をつけた。……わしは、その前の晩に印章を探しておった」


「印章」


「王家の印章よ。国璽じゃ。あの夜、王宮から消えた。……王太子が持ち出したのか、暴徒が持っていったのか、わしは知らん。印章のない財務省は、もう財務省ではないわ。焼けても、焼けんでも」


 老人は、それだけ言って判に戻りました。それ以上は、一言も出てまいりませんでしたわ。書記の二人は判の音に合わせて頁をめくり、わたくしがまだそこに立っていることを、見ないようにしておりました。


 外に出ると、アラリック様が門衛所の壁にもたれて待っていらっしゃいました。街の目立たぬ型の外套を羽織って、剣は外套の下。門衛所の前を通る人々は、それが皇帝だとは気づかずに、ただ背の高い護衛だと思って通り過ぎていきます。それでよろしいのですわ。この街で皇帝の顔が要る場面は、まだ一つも来ておりませんもの。


「取れたか」


「原簿は取れませんでしたわ。代わりに、印章の行方が一つ増えましたの」


「増えた、というのは」


 わたくしは扇を開いて、役場の小さな窓を隠すように傾けました。


「王家の印章は、あの夜に消えた。……そして今、誰かが『印章を用意しろ』と言える街ですわ、ここは」


 わたくしは昨日の広場の裏手で交わされた言葉を、まだ知りませんでした。ですから、これは後になって帳簿に書き足した一行ですの。


「フン。老人の帳簿を、力で開けさせるつもりはないのか」


「開けさせても、燃えた燃えたと言い張るだけですわ。あの方は、わたくしに額を擦りつけた日を一日も忘れておりませんもの。……取引の値段が違うのですわ。金でも、年金でもない何か。それを、まだ査定できておりませんの」


 わたくしは役場を振り返りました。小さな窓の向こうで、老人が判を押しております。


 わたくしは、気づきませんでしたの。老人が判を置くたびに、上着の上から胸元を押さえていたことに。首から紐で下げた小さな鍵を、わたくしの背中が見えなくなるまで、ずっと握っていたことに。


 気づいたのは、ずっと後のことですわ。

次回、第67話『下水の王子様、あなたの帳簿を拝見いたしますわ』。

下水には、不良在庫が二つ。片方は、帳簿をつけております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。