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婚約破棄、結構ですわ。ただし私が裏で支えていた王室予算三万枚、今すぐ一括返済してくださるかしら?  作者: 朝比奈ミナ


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第67話:『下水の王子様、あなたの帳簿を拝見いたしますわ』

 下水は、街の外郭を巡る石の溝ですわ。


 魔法があった頃は浄化の魔導具が汚泥を流しておりました。魔法が消えてからは、人の手で掻き出すしかございません。溝の幅は大人の背丈ほど、深さは膝まで。底に溜まった泥を長い匙で掬い、縁に置いた桶へ移し、桶がいっぱいになれば荷車で街の外へ運ぶ。それを一日中、日の出から日没まで繰り返しますの。


 帝国が刑として割り当てた清掃区域は、この外郭の溝の全部。清掃夫は二十人ほどで、そのうち二人が、わたくしの不良在庫ですの。


 わたくしはドレスの裾を持ち上げて、溝の縁に立ちました。シエルが日傘を差し、アラリック様は少し離れた石段に腰を下ろして、わたくしを見張っております。落ちないように、ですわ。


「……エレノラ」


 溝の底から、声がしました。


 泥にまみれた男が一人、木の柄の長い匙を手に、こちらを見上げております。金の髪は泥で茶色く、頬は削げ、あの夜わたくしを罵った声の張りは、どこにもございません。


「セドリック殿下。ご機嫌よう。刑期は、あと二百九十九年と十一か月ほどでしたかしら」


「……ああ」


 それだけ言って、男は目を伏せました。以前でしたら、ここで「貴様」と怒鳴るところですわ。怒鳴らなくなった男を見るのは、あの夜の会場で怒鳴る男を見るより、ずっと退屈ですの。


 ですが男は、匙を溝の壁に立てかけて、泥だらけの懐から何かを取り出しました。


「……一度でいい。私の帳簿を、見てくれ」


 帳簿、と申しましたの。この男が。


 シエルが受け取って、泥を布で拭いてから、わたくしに渡しました。粗い紙を紐で綴じただけの帳面。開くと、日付と、数字。それだけですわ。


『三の月、十四日。東の溝、百二十歩』

『三の月、十五日。東の溝、百十歩。雨』


 一日に清掃した溝の長さを、歩数で書いておりますの。三か月ぶん。字は下手で、七の字に横棒はございません。ですが、一日も抜けておりませんわ。


「……合計は」


「四千二百歩だ。溝の全周が、だいたい五千歩ある」


 わたくしは頁を最後まで繰りました。数え間違いを探すためですわ。三か所、足し算が違っておりました。指摘いたしましたら、男は泥の顔で頷きました。


「……四千二百歩。計上いたしましたわ」


 男の顔が、少しだけ上がりました。


「勘違いなさらないで。返済残高は、一歩も動きませんわよ。あなたの三万枚は、溝の歩数では払えませんもの」


「分かっている。……ただ、誰かに見てほしかった。数えていることを」


 溝の中の清掃夫たちが、匙を止めてこちらを見ておりました。皇妃が下水の縁に立って、元王子の帳面を読んでいる。この街で今日いちばんの見世物ですわ。わたくしは彼らの視線を、扇で軽く払いました。


 わたくしは帳面を閉じて、シエルから男に返させました。それ以上の言葉は、この男に払う予定がございませんの。予定にないものを払わないのが、わたくしの帳簿ですわ。


 そのとき、溝の向こう側から高い声が飛んでまいりました。


「あら、皇妃陛下! わたくしをお忘れかしら?」


 桃色の髪を泥の色に汚した女が、溝の縁を駆けてまいります。手首に巻いた包帯の端から、薄い火傷の跡が覗いておりました。あの夜、盗んだ燃料で自分の腕を焼いた女ですわ。


「リリアナ様。お元気そうで。作業効率は、依然として最低値を更新中と伺っておりますわ」


「効率なんて、どうでもいいのよ。わたくしにはね、もっと大きな仕事があるの」


 女は懐から、色刷りの紙束を出しました。粗い紙に、女神のような絵と、番号。絵の女神は桃色の髪をしております。刷りは粗く、墨は安物で、指でこすれば番号が滲みそうな紙ですわ。わたくしはそれを扇の陰で査定いたしました。紙代と刷り代で、一枚あたり銅貨一枚にも届きませんの。


「復興くじ、一枚銅貨十枚よ! 一等は金貨一枚。聖女の祝福つき! ……清掃夫の皆さんも、もう二十枚は買ってくださったわ」


 溝の中の清掃夫たちが、気まずそうに顔を伏せました。日当銅貨三十枚の男たちが、一枚銅貨十枚の紙を買っておりますの。


「祝福、と申しましたわね。その祝福の原価はおいくら」


「原価? 夢よ、夢! この街に足りないのは、パンじゃなくて夢なの。わたくしは民に夢を売っているのよ。……あなたには、絶対にできない商売」


 わたくしは扇を開きました。この女と話すとき、扇はよく開きますの。


「夢の原価は、また後日伺いますわ。今日は帳簿を一冊しか見ない予定でしたもの」


「ふん。……あの人、来るのよ。ときどき」


 女は声を落として、溝の向こうを顎で示しました。旧財務省の石段のほうを。


「セドリックのことを、殿下、殿下って呼ぶの。わたくしのことは、聖女様って。……この街で、わたくしたちをそう呼ぶのは、あの人だけ」


 言葉の意味を、わたくしは扇の陰で計上いたしました。殿下と呼ぶ理由のある男が、この街に一人おりますわ。


 女は、くじを一枚、わたくしの手に押しつけました。


「一等は、金貨一枚よ。抽選は四日後、見世物小屋で。……来てごらんなさい。あなたの数字が、民の夢に負けるところを」

四千二百歩を「計上いたしましたわ」と申した瞬間が少しでも刺さった方は、【ブックマーク】を一つ。


次回、第68話『あなたに払わせるためなら、悪魔とでも組みますわ』。

公社の説明会で、わたくしは買い上げを提案いたします。……相手は一人ではございませんでしたわ。

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