第64話:『その空白の半年、わたくしの帳簿の落ち度ですわ』
朝の広場には、数百の人が集まっておりました。
パン屋の前掛け、石工の革の手袋、洗い晒しの喪服。昨夜わたくしの馬車を黙って見ていた顔が、今朝は一人の男の背中の後ろに並んでおります。旧王宮の崩れた階段を演壇にして、その男は立っておりました。
痩せた狐のような顔。仕立ての良い上着の胸に、錨の形をした徽章。
「皇妃陛下におかれましては、遠路はるばる。……民は、陛下の署名を待ちわびておりました。半年ものあいだ」
デルフォード。元伯爵。あの夜、わたくしが没落したと一番大きな声で笑い、黄金の都の門前で泥にまみれて追い返した男ですわ。今は「アルテマ復興公社」の総裁と名乗っております。
わたくしは階段の下に立ち、扇を閉じたまま、男を見上げました。見上げる位置に立つのは好みませんけれど、この街ではそれが正しい帳尻ですの。
「あら。総裁におなりになったと伺いましたわ。門前払いから半年で、ずいぶんな出世ですこと」
「民に押し上げていただきました。私は民の代弁者にすぎません」
「代弁者。……では、代弁のお値段を伺いましょうか。シエル」
シエルが一歩出て、昨夜のうちに聞き集めた紙を読み上げました。
「アルテマ復興公社は、この半年、街の各世帯から王国債を買い取っております。買い取り価格は、額面金貨一枚につき銅貨五枚。譲渡証に署名した世帯は、確認できた範囲で九百六十」
広場がざわつきました。額面金貨一枚の紙を、銅貨五枚で。パン一つの値段ですわ。
「皆様が銅貨五枚で手放した紙を集めて、総裁は額面三万枚をわたくしに請求なさる。……民の代弁者というのは、なかなか利回りの良い商売ですのね」
男は、笑いました。狐の顔で。
「陛下。その紙を紙屑になさったのは、どなたでしたかな」
返す言葉は、ございましたわ。ただ、その前に男が懐から一枚の綴りを出しましたの。
「帝国特別管理区域条例、第三条。区域の復興のため、帝国は年に金貨五千枚の復興予算を執行する。……起草者は皇妃陛下。半年前、担当官ハウザー殿の報告に基づき、執行は見送られました。報告書の末尾に押された判は、どなたのものでしたかな」
男は綴りを、広場の人々に向けて掲げました。判の朱が、朝日で見えます。わたくしの判ですわ。
「陛下は銅貨五枚で買った私を責める。では陛下は、この半年、この街に何を払われましたか。銅貨一枚でも」
広場が、静かになりました。
わたくしは扇を、開きませんでした。口元を隠す場面ではございませんもの。
「……払っておりませんわ」
声は、広場の端まで届いたと思います。
「条例第三条の予算は、半年間、一銅貨も執行されておりません。その報告書に判を押したのはわたくしで、読まずに押したのもわたくしですわ。その空白の半年は、わたくしの帳簿の落ち度ですの。……認めますわ。総裁の帳簿ではなく、わたくしの帳簿の穴ですもの」
男の笑みが、深くなりました。勝った顔ですわ。わたくしはその顔を、あの夜の会場で嫌というほど見ております。
「では陛下。三万枚を――」
「ですが、総裁」
わたくしは、階段を一段だけ上がりました。
「穴の大きさを測りもせずに払う経営者は、この世でいちばん無能ですのよ。わたくしが認めたのは、空白の半年。金額はまだ査定しておりませんわ。……ですからまず、確定している分からお払いいたします」
「確定している分、とは」
「遅延利息ですわ。半年、払うべきものを払わなかった利息」
わたくしはシエルに頷きました。シエルは今朝、日の出前に黄金の都へ伝令を出しております。わたくしが命じましたの。昨夜、帳場の蝋燭が一本吹き消されるのを見た、あのときに。
「黄金の都の備蓄倉庫を、本日正午に開けます。パンと燃料、一千二百世帯の一週間ぶん。荷馬車は夕刻にこの広場へ着きますわ。受け取りに名簿は要りません。並んだ順に」
広場の空気が、変わりました。あの夜の会場とは逆向きに。困惑と不安が消えて、代わりに、腹の底の音のようなざわめきが上がりましたの。
男が、初めて声を荒らげました。
「施しは返済ではございませんぞ、陛下。民が求めているのは、パンではなく、お約束ですからな」
「施しではございませんわ。利息ですの。元金の話は、査定が済んでからいたしますわ」
わたくしは扇の先で、男の胸を指しました。
「それから、総裁。その徽章は、錨ですのね」
「……復興の象徴でございます。船を、この街に繋ぎ止める」
「錨は、船を沈める道具でもございましてよ。重い鉄を抱えたまま浮かんでいられる船は、ございませんもの」
男は答えませんでした。答えない代わりに、深く一礼して階段を降りました。慇懃無礼という言葉の、見本のような礼ですわ。
人々は倉庫の話で頭がいっぱいで、わたくしにも男にも、もう目を向けておりません。それでよろしいのですわ。今日わたくしが買ったのは、拍手ではなく、夕刻までの時間ですもの。
「……準備は、これから整えますわ」
階段を降りるわたくしの背中で、アラリック様が小さく笑われた気配がいたしました。
――同じ頃。広場の裏手、旧財務省の石段で。
錨の徽章の男は、駆け寄った手下に短く言いつけておりました。
「印章を用意しろ。今夜のうちにだ」
その声は、わたくしには届いておりませんの。
次回、第65話『銅線の銅は、三年前のうちに買い占めておりますの』。
灯りのない街に、いちばん灯りが好きな方がやってまいります。




