第63話:『請求書は受理いたしますわ。査定は、わたくしがいたしますけれど』
黄金の都は、夜でも黄金でしたわ。
魔法が消えて魔導船は飛ばなくなりましたけれど、代わりにショウ様の電球が並木道の端から端まで灯っております。白亜の建物の窓という窓に光が入り、蒸気船の汽笛が国境の川を渡ってまいります。
三年前にわたくしが私費で築いた金融特区は、わたくしが宇宙へ出かけているあいだも勝手に黒字を出し続けておりましたの。良い街ですわ。手のかからない資産というものは。
その正門を、馬車は止まらずに抜けました。あの夜、デルフォード伯爵が泥まみれで入城を乞うた門ですわ。衛兵は皇妃の馬車と気づいて敬礼しかけ、アラリック様が窓から手を振って止めさせました。
「目立つな。今日は妻の護衛だ」
国境を越えて半日。日が落ちる頃に、馬車は旧アルテマ王都に入りました。
灯りが、ございませんの。
黄金の都から半日しか離れていない街に、電球が一つもない。魔導灯は魔法と一緒に死にましたから、家々の窓にあるのは獣脂の蝋燭の弱い橙だけ。崩れかけた旧王宮の影が、月の下で山のように黒く見えました。中央広場の一角に見世物小屋の看板が立ち、色の褪せた偽聖女の絵がまだ貼られております。
通りの人々は、馬車を見て足を止めました。石は投げてまいりません。あの日のパレードのように歓声も上げません。ただ、見ておりますの。
「エレノラ。ここは君の資産のはずだが」
「ええ。帝国が買い取って、わたくしが最高統治権を預かった土地ですわ。……半年間、一度も見に来ておりませんでしたけれど」
馬車は広場の角で止まりました。看板には『帳場』とだけ。その下に、消しかけた古い文字で『ゴドウィン両替商』と読めました。
扉を開けると、蝋燭が三本。壁一面の棚に帳簿の背表紙が並び、机の向こうに若い娘が一人、座っておりました。黒い髪をきつく結い、耳に鉛筆を一本挟んでおります。指先は墨で黒い。
娘は立ち上がりもせず、わたくしを見て言いました。
「お待ちしておりました。皇妃陛下」
「あら。わたくしが来ると分かっていらしたの」
「請求書を出せば、債務者は来るか、来ないかのどちらかです。来ないなら次の手を打つだけでしたので」
その言い方に、わたくしは扇を開きました。口元を隠すためですの。笑ってしまいそうでしたから。
「お名前を伺ってもよろしくて?」
「イザベラ・ゴドウィンと申します。この帳場の主で、あなたに請求書を書いた者です」
娘は机の上の綴りを開き、指で頁を押さえて、読み上げ始めました。立ったまま。わたくしを見たまま。
「請求の根拠を申し上げます。旧アルテマ王国が発行した王国債。額面合計、金貨三万枚。保有者は、この街の一千二百世帯。パン屋、桶屋、石工、下級文官の遺族。そのすべてに、ロスタール公爵令嬢の署名がございます」
シエルが横で小さく息を呑みました。わたくしは、呑みませんでしたわ。知っておりましたもの。王国債は、わたくしの署名がなければ他国の銀行が引き受けない紙でしたの。ですからあの頃の王国は、民に売る債券にまで、わたくしの署名を刷らせておりました。
「この街の人々は、王家の印章を信じたのではありません。あなたの署名を信じて、その紙に銀貨を払いました。あの方が署名しているなら間違いない、と」
「そして、わたくしは署名を引き抜きましたわね」
「はい。第一に、あなたは婚約破棄の夜に個人保証を破棄なさった。第二に、帝都の取引所で王国債を不渡りと宣告なさった。価値のないものが無価値として扱われる、至極当然の帰結だと」
わたくしの言葉ですわ。一言一句、あの日のとおり。
「計上いたしました。額面三万枚。……その紙に価値を与えたのは王家ではなく、あなたの署名です。ですから請求先は、あなたです」
娘は綴りを閉じて、わたくしの前に押し出しました。目録の七の字に、短い横棒。
アラリック様が、わたくしの後ろで身じろぎもなさいません。皇帝がここで一言でも口を挟めば、この娘の請求は権力で潰されます。それをなさらない方だから、わたくしはこの方を夫にいたしましたの。
わたくしは扇を閉じて、綴りを手に取りました。
「請求書は、受理いたしますわ」
娘の眉が、ほんの少しだけ動きました。
「ただし、査定はわたくしがいたします。誰に、いくら、何の名目で、いつ。それを一世帯ずつ、わたくしの目で確かめてから払うか払わないかを決めますの。……それが、この街でわたくしの署名が最後に使われた日から一度も変わっていない、わたくしの規則ですわ」
「査定は、私も立ち会います」
「どうぞ。帳簿屋が二人いれば、査定は半分の時間で済みますもの」
娘は初めて、ほんの一瞬だけ、わたくしから目を逸らしました。何かを言いかけて、やめた顔ですの。
「……明日の朝、広場においでください。総裁がお待ちです」
「総裁?」
「アルテマ復興公社、総裁デルフォード。……ご存じの名かと」
扇を持つ指が、止まりましたわ。
デルフォード。あの夜わたくしを一番大きな声で嗤い、黄金の都の門前で泥にまみれて追い返された男。その男が、この街で「総裁」と呼ばれておりますの。
娘は机に戻り、蝋燭を一本だけ吹き消しました。三本では、この街には贅沢なのだそうですわ。
イザベラの読み上げに背筋が伸びた方は、どうか【ブックマーク】を。……この娘の帳簿、まだ一冊も開いておりませんの。
次回、第64話『その空白の半年、わたくしの帳簿の落ち度ですわ』。
広場に、錨の徽章を胸につけた男が立っております。




