第62話:『新婚旅行の行き先を、わたくしが沈めた「泥船」に変更いたしますわ』
第4部:泥船再建編、開始。
宇宙の決算を終えた令嬢の執務室に、封書が一通だけ届きます。
差出人の名に、覚えがございますの。……ええ、とても。
その封書を開いたのは、新婚一月目の決算を終えた、その翌朝のことでしたの。
宇宙の帳簿は、もう毎日は開きません。三千のセクターの決算は代表者たちが月に一度まとめて持ってまいりますし、臨時管財人の仕事はその束に判を押すだけになりました。神を解任した女の朝が、こうも静かになるとは思いませんでしたわ。
ですから執務室の黒檀の机には、久しぶりに宇宙よりずっと小さな帳簿が広がっておりました。帝国の穀物相場、北方炭鉱の出荷量、黄金の都の税収。指で追える数字というのは、良いものですわね。
「エレノラ。約束の期限だ」
扉が開いて、アラリック様が入っていらっしゃいました。共同統治者という肩書きより、朝の執務室に無遠慮に入ってくる夫という言い方のほうが、この頃は正確ですの。
「約束、と申しますと」
「新婚旅行だ。三月前に計画を立てると言って、行き先を隣のセクターの家宅捜索に変えた。あれを新婚旅行と呼ぶ男は、宇宙に私しかいないだろう」
「あら。宇宙で唯一、というのは資産価値の高い肩書きですわよ」
「フン。帳簿の話に逃げるな。今度は本物だ。行き先を決めろ。今日中にな」
わたくしは扇を開いて口元を隠しました。困っているときに、そうする癖がございますの。困るのは行き先が思いつかないからではございません。行ってみたい場所というものが、わたくしの帳簿のどの欄にも載っていなかったからですわ。
そこへ、シエルが銀の盆を持って入ってまいりました。盆の上には、昨夜のうちに届いた封書が一通だけ。
「昨夜の文は、これ一通でございました。差出人は――『泥船の乗客一同』と」
泥船。その言葉をわたくしは知っております。あの卒業パーティーの夜、扉の前で振り返ってわたくし自身が投げた言葉ですもの。泥船の宴を、最後までお楽しみあそばせ、と。
封を切りました。中には目録が一枚。それだけですの。
『金貨三万枚。……今すぐ、一括返済してくださるかしら?』
扇を閉じる指が、一拍だけ遅れました。わたくしの帳簿にない数字をわたくしの言葉で読み上げられたのは、生まれて初めてのことでしたの。
「……あら。ずいぶんと、聞き覚えのある文面ですこと」
声は、いつもどおりに出ましたわ。ただ目録の下に並んだ小さな字は、いつもどおりには読めませんでした。一千二百世帯。王国債、額面。それから、旧アルテマ王都、と。
アラリック様が後ろから覗き込んで低く唸られました。
「三万枚。お前が元婚約者に突きつけた数字だな」
「ええ。まったく同じ額ですわ。差出人が、まったく違いますけれど」
わたくしは目録を机に置いて、指先で七の字をなぞりました。一と見分けるために七の真ん中に短い横棒を引く。数字を書く手の癖というものは、帳簿を教えた人間の癖ですの。この横棒を引かせる教え方をわたくしは知っております。
「シエル。旧アルテマ王都の、特別管理区域の書類を」
「こちらに」
シエルはわたくしが何を言い出すか先に知っている顔で、もう一冊の綴りを盆の下から出しました。担当官ハウザーの報告書。半年前の日付。
『当該区域は税収見込みに対し復興費用が過大であり、不採算につき、条例第三条に基づく復興予算の執行を当面見送るものとする』
その末尾に、判が押してありました。皇妃エレノラの判。わたくしの判ですわ。
押した記憶は、ございますの。黄金国の艦隊が空を埋めた日、シエルが四十枚の書類を持ってまいりまして、わたくしは一枚ずつ読まずに判を押しました。宇宙が沈むか沈まないかの朝に、一つの街の復興費用を読む時間はない。そう判断したのは、わたくしですわ。
「……読んだ記憶が、ございませんの」
小さな声で申しましたら、アラリック様は何もおっしゃいませんでした。責めもせず慰めもせず、ただ目録の三万枚をもう一度ご覧になっただけ。
わたくしは扇を、パチン、と閉じました。今度は一拍も遅れずに。
「陛下。新婚旅行の行き先が決まりましたわ」
「聞こう」
「旧アルテマ王都。――わたくしが沈めた、泥船ですわ」
アラリック様は、しばらくわたくしの顔をご覧になってから笑われました。呆れた笑いではなく、こうなると分かっていた者の笑いですの。
「フン。行き先は任せる。ただし、条件がある」
「あら。条件つきの投資ですのね」
「一日に一度、その帳簿を閉じろ。閉じた時間は、私が数える。新婚旅行と呼べる時間が一日に何分あったか、帰ってきたら決算してもらうぞ」
わたくしは少し考えてから正直に申し上げました。
「今日は、〇分ですわ」
「知っている。明日から数える」
シエルが盆を下げて旅支度の指示を受けに行きました。アラリック様は騎馬隊ではなく馬車を二台、それも黒塗りではなく街の目立たぬ型を選ぶよう命じていらっしゃいました。皇帝の顔で入る街ではない、と分かっていらっしゃるのですわ。
わたくしは机に残った目録をもう一度手に取りました。
三万枚。一括返済。同じ言葉をあの夜のわたくしは扇の先で王子に投げました。誰かが今その言葉を拾い上げて、真っ直ぐにわたくしへ投げ返してきている。
七の字の横棒を引く癖。わたくしはこの癖を、自分の手で教えた者にしか引かせておりませんの。一人はシエル。一人は、もういない。
そして残りは、あの街の支店に置いてきた帳簿見習いたち。……あの子たちの名を、わたくしはあの日から一度も、帳簿に書いておりませんでしたわ。
第4部「泥船再建編」、開幕ですわ。
次回、第63話『請求書は受理いたしますわ。査定は、わたくしがいたしますけれど』。
電気の灯る黄金の都を抜けた先に、灯りのない街がございます。




