第32話:『清算完了。この大陸のすべてを、わたくしの資産として計上いたしますわ』
「頼む……これだ! これを全部やる! だから、パンを、水をくれ……ッ!」
西方の自由都市連合、その栄華の象徴であった議事堂。
今、そこにはかつての「世界の銀行家」を自称した男たちの無残な姿がありました。ハミルトン議長は、文字通り山のように積まれた『リブラ銀貨』の中に埋もれながら、私の足元に這いつくばっていました。
銀貨の輝きは、もはや死者の目に映る不吉な光でしかありません。
魔法が消え、物流が死に、私による経済封鎖を受けたこの街では、銀貨一袋よりも、一切れの乾燥パンの方が価値があるのです。
「あら、ハミルトン様。随分と『重たい』お支払いですわね」
私は扇で口元を隠し、冷ややかな瞳で彼を見下ろしました。
私の背後には、湯気を吐き出しながら待機するショウの『蒸気式装甲車』と、銃剣を構えた帝国兵たちが、秩序という名の静寂を保っています。
「ですが、あいにくわたくしの帳簿には、その銀貨を『資産』として計上する項目はございませんの。……シエル、現在のリブラ銀貨の市場価値を教えて差し上げて」
「はい。現在、市場は消滅。買い手不在のため、価値はゼロ。……強いて言えば、釣り用の重り(オモリ)としての需要がある程度ですわ」
「な……ゼロ!? バカな、これは銀だぞ! 純銀なんだぞ!」
「銀を食べて腹が膨れますの? 司祭様。……いいえ、今はもうただの『敗残者』でしたかしら」
私は、シエルから一通の書類を受け取り、ハミルトンの前に落としました。
「無条件降伏および、西方全都市の帝国への営業譲渡。……ここに署名なさいな。そうすれば、今すぐあそこに控えている配給馬車から、新帝国紙幣一枚につき温かいスープとパンを提供して差し上げますわ」
「う……うう……っ」
ハミルトンは、涙と鼻水で顔を汚しながら、かつて誇りを持って握っていたペンを執りました。
彼が震える手で署名を終えた瞬間、大陸の西半分に存在した「自由」という名の不良債権は、私の帳簿の上で正式に『帝国資産』へと統合されました。
パチ、パチ、と。
背後で拍手をする音が聞こえました。アラリック皇帝陛下です。
「見事だ、エレノラ。一度の矢も放たず、ただ『通貨』と『食糧』という二つの数字だけで、難攻不落の西方を跪かせるとは。……戦の神も、君の前では失業しそうだな」
「あら陛下、戦は終わったわけではありませんわ。……これからは『統治』という名の、最もコストのかかる長期事業が始まりますのよ?」
私はアラリック様の腕に手を添え、窓の外に広がる夕暮れのリヴァーサイド港を眺めました。
港には、私の命令で動き出した蒸気船が、黒い煙を上げて新帝国紙幣のマークが入った支援物資を陸揚げしています。魔法が消えた世界で、人々は「神の奇跡」ではなく、私の「物流」に祈りを捧げていました。
「……エレノラ。いや、わが帝国の知脳よ」
アラリック様が、私の腰を引き寄せ、正面から見つめてきました。
その瞳には、一国の皇帝としての覇気と、一人の男としての、抗いがたい熱が宿っていました。
「大陸は統一された。教会の闇も、西方の強欲も、君がすべて清算してくれた。……今こそ、君に『本当の報酬』を支払わなければならないな」
「報酬、ですって? 陛下、わたくしの顧問料は、すでに帝国の税収の半分という破格の条件ですが……」
「そんな数字の話をしているのではない。……エレノラ。君を、私の皇后として迎えたい。……この大陸すべてを、君の帳簿の一部としてではなく、君と共に歩む庭として共有したいのだ」
……まあ。
最高権力者からの、これ以上ない「投資」。
私は少しだけ頬を染め、ですが不敵な笑みは崩さずに答えました。
「……わたくしを妻にするということは、陛下の心臓の鼓動一つまで、わたくしの『管理対象』になるということですけれど? 返品は一切受け付けませんわよ」
「望むところだ。君に管理されるなら、死すらも黒字に思える」
アラリック様が私の唇を奪った瞬間。
かつてアルテマ王国を追放された、あの雨の日の記憶が、遠い過去の出来事として消えていきました。
……ふふ。準備は、すべて整いましたわ。
帝国という名の巨大な基盤。
セレスティーヌという名の聖なるアイコン。
ショウという名の便利な技術奴隷。
そして、リリアナやセドリックといった、教訓として飼い殺す不良在庫たち。
大陸のすべてを買い叩き、ひとつの秩序に収束させた。
これが、わたくし――エレノラ・フォン・ロスタールの『清算』の第一段階。
だが、その至福の時間を破るように。
シエルが、かつてないほど険しい表情で駆け込んできました。
「お嬢様、アラリック陛下! 港に、見慣れぬ巨大な鉄甲船が入港しました! ……旗印は、大陸の伝承にしか存在しない『極東の黄金国』。……そして、彼らが持ってきた親書には、こう記されています」
私はシエルから、黄金の筒を受け取りました。
中から出てきたのは、魔法ではない、奇妙な『幾何学模様』で綴られた書状。
『大陸の魔法を消したのは、我々の「実験」の結果である。……これより、この土地の全資産を、真の所有者である我が国が買い戻しに参る』
……あら。
私は、思わず扇を落としそうになりました。
ですが、次の瞬間には、私の唇は歓喜の形に歪んでいました。
「……世界は、まだ広かったようですわね。……シエル、ショウを呼びなさい。第3部の予算編成を、今すぐ開始しますわ」
「エレノラ、まだやるのか?」
アラリック様が苦笑いしながら問いかけます。
私は、彼の胸に寄り添いながら、不敵に言い放ちました。
「もちろんですわ、陛下。……わたくしがこの世の全資産を買い叩き、完璧な決算書を書き上げるまで……清算作業に、終わりはございませんの!」
――第2部・帝国動乱編、清算完了。
全32話、これにて【完結】ですわ。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
「一国の令嬢」としてすべてを奪われ、雨の中に放り出されたエレノラ様が、
「大陸の支配者」として、神の権威すらも帳簿の中に収めてしまう……。
これ以上ないほどに美しく、残酷で、知的なハッピーエンドをお届けできたと自負しております。
復讐とは、ただ相手を滅ぼすことではなく、相手の存在価値すらも自分の利益に変えてしまうこと。
エレノラ様が示したその『清算』の美学が、皆様の心に少しでも爽快な風を吹かせたなら、これ以上の喜びはございません。
アラリック皇帝陛下との「契約」という名の愛の行方や、
帝国の歯車として一生を捧げることになったショウ、
そして泥の中でかつての栄華を思い出し続けるセドリックとリリアナ……。
彼らのその後の物語は、皆様の想像という名の『余剰利益』の中で、豊かに育んでいただければ幸いです。
もし「この物語を読んでスカッとした!」「エレノラ様のファンになった!」と思ってくださった方は、
最後にぜひ【ブックマーク】と【評価(★★★★★)】をお願いいたしますわ。
完結後の皆様の評価こそが、エレノラ様の最終決算における最高の『純利益』となりますの。
また別の物語、別の清算の場でお会いできることを信じて。
「準備はすべて整いましたわ。……皆様、ご機嫌よう」
――著者:朝比奈ミナ




