第九話 侯爵領
さらに二日の旅を経て、ヴェルナード侯爵領に着いたのは夕暮れ時だった。
領地に入ったと気づいたのは、街道の両脇に並ぶ石柱のためだ。どれも魔法陣が刻まれており、薄暮の中でわずかに青白く光っていた。領地の境界を示すそれらの石柱は、ただの目印ではないとルミナにはすぐわかった。
「防衛用の魔法陣ですか」
「境界の知覚陣です。領地内に入った者の魔力の質を記録する。敵対的な意図を持つ者が入ると、屋敷に警告が届く仕組みです」
「精度は」
「既存のどの技術より高い、と設計者は言っていましたが……実際には誤報が多い」
「制御が甘いからです。記録精度は高くても、判定基準の調律ができていない」
ザイルが少しの間沈黙した。
「……あなたは、見ただけでわかるのですか」
「感じ取れます。乱れの質が、判定閾値付近で揺れています。少し整えれば、誤報は減るはずです」
「後で確認させてください」
「構いません」
街道の先に、屋敷が見えてきた。
馬車の窓から見えてきたヴェルナード侯爵邸は、エルカリナ邸より遥かに大きかった。石造りの堅牢な構えで、四隅に塔が立ち、敷地を囲む塀の高さからも、この家の力が伝わってきた。しかし圧迫感はなかった。建物の随所に魔法陣の紋様が彫り込まれ、夕陽の中でそれが静かに光を帯びている。力を見せびらかすのではなく、機能として組み込まれているような印象だった。
正門をくぐると、使用人たちが整列して出迎えた。全員がルミナを見ていた。当然だろう、と思った。突然、主人が異国の令嬢を連れ帰ってきたのだから。
「エルカリナ令嬢がご滞在される。最上階の客間を用意するように。書庫の制御理論区画に、灯りを用意することも」
ザイルが執事に告げると、「かしこまりました」という声とともに使用人たちが動き始めた。
「最初から書庫のことを想定していたのですか」
「来ると確信していたわけではありませんが、来た場合の準備はしていました」
「見越していたのですね」
「そうなればいいと、思っていました」
やや間を置いて、ザイルが付け加えた。
「準備しておかなければ、後悔すると思ったので」
ルミナは少し考えた後、「ありがとうございます」と言った。
案内された客間は、想像より明るかった。最上階に位置するその部屋は、西向きの大きな窓があり、夕暮れの空が一面に広がっていた。侯爵領の庭と、その先に続く丘の稜線、さらに遠くに連なる山々。エルカリナ邸の書斎からは見えなかった景色だった。
部屋には机と椅子、本棚、寝台が揃っていた。本棚には何冊か本が入っていた。ルミナが近づいて背表紙を確認すると、魔力制御理論の入門書が数冊と、アルテミアの魔法陣設計の基礎資料が揃っていた。
「これは」
「来る前から置いておきました。もし使えるものがあれば」
「……ありがとうございます」
ルミナは一冊手に取った。アルテミアで書かれた制御理論の入門書は、やはりエルカリナ家の理論とは異なるアプローチだったが、アルテミアの魔法体系を理解する上での基礎にはなる。
「ご不便があれば言ってください。不足しているものがあれば揃えます」
「十分です。……とても」
荷物を解き、祖父の研究ノートを机の上に並べた。六冊のノート。制御理論の基礎から応用まで、祖父が生涯をかけて書き留めた知識の結晶。これがルミナにとっての全財産だった。
ザイルが退室しようとするのを、ルミナは呼び止めた。
「一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「この屋敷の、魔力の状態について。さきほど街の魔法陣が乱れていると言いましたが……こちらも、いくつか気になる部分があります」
「どこですか」
「玄関ホールの中央。それから、この部屋の壁の南側。魔法陣の一部が共振を起こしています」
ルミナは南側の壁に近づき、壁面に刻まれた小さな魔法陣に手を触れた。魔力の微細な振動が、指先に伝わってきた。
「この紋様は本来、室内の気温調整用のものですね。しかし隣の部屋の魔法陣と周期が噛み合っておらず、わずかに干渉し合っています。大きな問題ではありませんが、長期的には周辺の魔法陣全体に影響が広がります」
「それが」ザイルが静かに言った。「この部屋に入るたびに、微かに頭が重くなる理由かもしれない」
「共振が強まると、魔力に敏感な者には影響が出ます。計測器では検知できていなかったのですか」
「できていなかった。計測器は魔力量の増減は測れますが、流れの質や周期のずれには対応していない」
「エルカリナの理論では、そこが最も重要な部分です」ルミナは壁から手を離した。「量ではなく、流れの質。あなたの問題も、根本は同じです」
「……すべてが繋がっている」
「ええ。街の魔法陣も、この屋敷の魔法陣も、あなたの魔力も。整え方の原理は同じです」
ザイルが長い沈黙の後、言った。
「あなたが来てくれてよかった」
感情の色が薄い人だとルミナは思っていた。しかしその一言には、長年の疲弊と微かな安堵が混じっていた。
ルミナは机の上のノートを開いた。
「明日から、少しずつ確認していきましょう。修復よりも調律の方が優先です」
ザイルは静かに「お願いします」と言い、客間を出た。
窓の外に、夜の帳が降り始めていた。最初の星が、遠い空に灯った。
ルミナは窓の前に立ち、その星を見た。
故郷の空にも、同じ星が出ているだろう。父は今頃、書斎で研究書を開いているだろうか。マリアは夕食の後片付けをしているだろうか。
思うことはいくつもあった。
しかしルミナは目を逸らさなかった。星を見続けた。遠くても、同じ空の下にある。それだけで、今夜は十分だと思った。




