第八話 アルテミア
国境を越えるのに三日かかった。
山道を越え、川沿いの街道を進み、検問所で外交文書の確認を経て、アルテミア王国の国土に入ったのは夕暮れ時だった。空の色が、母国とわずかに違った。もう少し青みが強く、夕暮れの橙色が濃い。同じ大陸の隣国でも、空は違うのだと、ルミナは初めて知った。
道中、ルミナはザイルと言葉を交わすことが増えていった。
一日目の夜は、国境近くの宿に泊まった。宿の食堂で向かい合って食事をしながら、ルミナは気づいた。ザイルが食事中も、テーブルを挟んで人と向き合うことを慣れていない、ということに。視線が定まらず、どこかそわそわした様子がある。
「私と向き合っていると、落ち着かないですか」
率直に聞くと、ザイルは少し黙った。
「……慣れていないのです。食事を誰かと共にすること自体が」
「一人で食べていたのですか、ずっと」
「魔力の影響を考えると、他者と長時間同じ空間にいることを避けてきたので」
ルミナはしばらく考えた。
「今は、どうですか」
「……静かです。あなたの近くは」
それきり二人とも黙って食事を続けた。しかし気まずい沈黙ではなかった。食事を終えた後、自然に話が始まった。
最初は研究の話だった。馬車の揺れの中で、ルミナがエルカリナ家の魔力制御理論について話し始めると、ザイルの目つきが変わった。それまでの穏やかな観察者の目ではなく、純粋な興味の色が浮かんだ。相槌が増え、問いが重なり、いつの間にか二人で夢中になって話し込んでいた。
「その理論は、アルテミアの魔導研究とは根本的に異なるアプローチだ」
「違いますか」
「アルテミアでは魔力を増幅・放出する方向で研究が進んでいる。出力を高め、制度を上げることが魔導士の目標とされる。制御、つまり整えるという概念への注目は、驚くほど薄い」
「だから、あなたのような状況が生まれる」
言ってから、ルミナは少し言葉が直接すぎたかと思った。しかしザイルは気分を害した様子もなく、「そうです」と静かに頷いた。
「私のような、魔力が強すぎて制御できない者が放置される。強ければ強いほど、周囲への影響が大きくなる。それを問題として扱う土壌が、アルテミアの魔導士社会にはない」
「誰かを傷つけましたか」
問いが口をついて出た。
ザイルの目が、一瞬だけ暗くなった。
「……子供の頃に。意図せず、近くにいた人間を何人か」
「それから」
「距離を取るようになった。人との間に、常に一定の空間を保つようにした」
短い言葉の中に、長い年月が詰まっていた。ルミナはそれ以上聞かなかった。尋ねてよかったのかどうか考えたが、ザイルは逃げずに答えてくれた。それで十分だと思うことにした。
「そのことを、アルテミアの人々は知っていますか」
「一部は知っています。ただ、私の魔力の強さが国防に有用であるため、問題として扱われることはない」
「……便利に使われているのですか」
「力があればそうなります。どこの国でも」
「割り切っているのですね」
「割り切るしかなかった。ただ」ザイルは窓の外を見た。「あなたの近くにいると、はっきりとわかります。自分の魔力がこれほど静かになれるということが。それを知ってしまった以上、諦めることが難しくなった」
ルミナは何も言わなかった。
国境の検問所を越えてすぐ、最初のアルテミアの街に入った。
石畳の街並みは母国と似ているが、建物の色が違う。白と青を基調とした建築が続き、屋根の先端に銀の飾りが光っている。街のあちこちに魔法陣の紋様が刻まれていた。壁に、橋に、街灯の柱に。
「魔導都市と呼ばれています」
ザイルが窓の外を示した。
「街全体の照明、水の供給、輸送路の整備、気候の微調整まで、すべてに魔法が組み込まれている。アルテミアは魔法技術で成り立っている国です。百年前に先代の魔導士たちが国中に魔法陣を敷設し、今もそれが稼働し続けている」
「だから、魔導士の地位が高い」
「そして、制御の重要性が切実に問われる場面が増えている。敷設された魔法陣が老朽化しており、各所で誤作動が起きている。しかしその修復技術を持つ者が、アルテミアには少ない」
ルミナは街の紋様を目で追った。精緻な魔法陣が石の壁に刻まれ、淡い光を放っている。魔力の流れが、この街の血管のように走っているのが感じられた。
しかし。
「……これは」
ルミナは思わず窓に手を当てた。
「何か感じますか」
「街の魔力が、乱れている部分があります。あの交差点の近くと、向こうの橋の手前。小さな乱れですが、放置すると周辺の魔法陣に伝播します」
ザイルが目を細めた。
「私には感じ取れない乱れです。街の魔導士たちも、計測器を使わなければ検知できないはずのものを」
「制御の才があると、流れの歪みが感じ取れます。ずっとそうでした。ただそれが何なのかを他人に説明できなかったし、自分でも意味がわからなかった」
「今は意味がわかりますか」
「……少しずつ、わかってきています」
馬車が停まった。街の中心近くにある宿だった。ザイルが先に降り、ルミナに手を差し伸べた。
昨日、石畳で差し伸べられた手を思い出した。あのとき躊躇った記憶がある。しかし今は、迷わなかった。
ルミナはその手を取り、馬車を降りた。
アルテミアの夜風が、髪を揺らした。
新しい土地の空気は、思っていたより澄んでいた。
宿の部屋は清潔で、窓から街の灯りが見えた。魔法陣の光が街のあちこちに点在し、それが夜の街に独特の青白い光景を作り出していた。母国の夜とも、旅の途中で泊まった街とも違う。
ルミナは窓辺に腰を下ろし、しばらくその光を眺めた。
乱れが見えた。向こうの橋の手前、やはり魔力の流れが歪んでいた。目を凝らすと、橋の一角の街灯が他より弱い光を放っているのが見えた。魔法陣の出力が落ちているのだ。
ルミナは羊皮紙を取り出し、見えた乱れの位置と状態を書き留めた。
翌朝、ザイルに確認してもらうためだ。
この国の人間には感じ取れない乱れを、ルミナは感じ取れる。それが今夜、初めて「役に立つかもしれない」という感覚として胸に落ちた。
欠陥品と呼ばれてきた才が、この街では必要とされるかもしれない。
ルミナは羊皮紙を丁寧に折り畳んだ。




