第七話 さよなら
出発の朝は、曇っていた。
エルカリナ邸の玄関前に馬車が二台停まっていた。一台はルミナの荷物を積んだ輸送馬車、もう一台はアルテミア使節団の紋章が入った黒塗りの馬車だ。荷物は本当に少なかった。長持ち一つと、小さな革鞄。それだけが、二十年の人生をまとめたものだった。
マリアが泣いていた。
声を押し殺しながら、しかし確実に泣いていた。もう三十年近くエルカリナ家に仕える老侍女は、ルミナが生まれた日から傍にいた。幼いルミナが魔法の練習に失敗するたびに慰め、社交界で陰口を叩かれるたびに憤慨し、テオとの婚約が続く間もずっと心配し続けてきた。
「お嬢様……本当に行かれるのですか」
「はい」
「遠いのですよ、アルテミアは。言葉も違う、文化も違う」
「マリア、アルテミアは同じ言語圏です」
「そういう話ではありません」マリアが洟を啜った。「あちらに知り合いもいないでしょう。ヴェルナード様が悪い方だとは思いませんが、お嬢様が一人で……」
「一人ではありませんよ」
ルミナはマリアの手を両手で包んだ。
皺の刻まれた、温かい手だった。
「長い間、世話になりました。あなたがいてくれたから、ここまで来られました」
「お嬢様……」
「元気でいてください。父のことを、よろしくお願いします」
マリアが声を上げて泣き出した。ルミナは静かに抱きしめた。短い時間だったが、それで十分だと思った。
使節団は総勢十二名だった。外交官が三人、護衛の騎士が六人、随行員が二人、そしてザイル。全員が手際よく出発の準備を整えていた。その洗練された動きが、この使節団の質の高さを示していた。
護衛の騎士の一人が、ルミナの荷物を輸送馬車に積む作業を手伝おうとした。ルミナが「結構です」と断ると、騎士は一礼して退いた。礼儀正しかった。エルカリナ邸に出入りしていた王家の護衛とはまた違う、無駄のない礼儀だ。
そこへザイルが馬車の前に現れた。使節団の面々が準備を整える中、彼は一人、静かにルミナの側に歩み寄った。
「時間です」
「はい」
ルミナは振り返り、エルカリナ邸を見上げた。
石造りの壁。蔦の絡まる塀。幼い頃から毎日見てきた景色。書斎の窓には、朝の光が鈍く反射していた。その窓の向こうに、オスカルの影が見えた気がした。姿は見えない。しかし確かにそこにいる、という気配がした。
庭の隅に、祖父が植えた薔薇の木がある。春になると必ず白い花をつける、エルカリナ家に代々伝わる薔薇だ。今年もちょうど咲き始めていた。
ルミナはそこへ歩み寄り、一輪だけ手折った。
帯の端に挿した。邸の記憶を、少しだけ持っていくために。
ルミナは小さく頷いた。誰に向けてとも知れない、しかし確かな意思の込もった頷きだった。
馬車に乗り込んだ。
扉が閉まり、馬蹄の音が動き始めた。
窓の外に流れていく王都の景色を、ルミナは目を開けて見続けた。目を背けたくなる感情がなかったわけではない。しかし見ることを選んだ。自分がここで生まれ、ここで育ち、ここで傷ついたという事実を、きちんと目に収めておきたかった。
大広場の前を通り過ぎるとき、ルミナは窓から目を逸らさなかった。
二日前、石畳に倒れた場所を、通り過ぎた。
何も感じなかった、とは言えない。頬の感覚が一瞬甦った。乾いた打撃音が耳の奥で鳴った。しかし足は震えなかった。心が揺らいでも、進む方向は変わらない。
ルミナは前を向いた。
馬車の向かいの席に、ザイルが座っていた。本を読んでいたが、ルミナが大広場を通るときに視線を上げた。何かを言うわけでも、慰めの表情を向けるわけでもなく、ただ一瞬、目が合った。
それで十分だと、ルミナは思った。
王都を出るまでしばらくかかった。街が続く間、ルミナは窓の外を見続けた。顔見知りの花屋が店を開いていた。子供の頃に馬術を習った厩舎の前を通った。祖父と一緒に何度も訪れた魔法陣工房が、看板を新しくして営業しているのが見えた。テオとの婚約を祝う垂れ幕が一枚、色褪せてまだ残っているのが見えた。
城壁が近づいてきたとき、ルミナはふと帯に挿した白い薔薇を見た。少しだけ花びらが揺れていた。馬車の振動のせいだ。それでも母の指輪と並んでいると、自分が空っぽではないと思えた。
ルミナはそれも、目を逸らさずに見た。
「後悔しますか」
ザイルが静かに聞いた。
「まだわかりません」
正直に答えると、ザイルは短く「そうですか」と言って本に目を戻した。しかし数秒後、また顔を上げた。
「あなたは」とルミナは聞いた。「後悔することはありますか」
「今のところ、ない」
「今のところ、というのが正直ですね」
「物事は変わります。今後悔していないことが、後に後悔になることもある。逆もあります」
「逆とは」
「今は判断できないことが、後になって正しかったとわかる」
ルミナは少しの間、その言葉を咀嚼した。
「哲学的ですね、魔導士にしては」
「魔導士だから、です。力を扱う者は、変化について考え続けなければならない。魔力は一瞬たりとも同じ状態にない。人の選択も、同じだと思っています」
「祖父も似たようなことを書いていました。魔力は静止しない。制御とは瞬間ごとの選択だ、と」
「賢明な方だったようですね」
「ええ」ルミナは膝の上の革鞄に手を置いた。「私の一番の理解者でした。才の意味を、最後まで信じてくれた人です」
「今もそう信じていますか、自分で」
思いがけない問いだった。
ルミナはしばらく考えた。
「……信じ始めているところです。ようやく」
窓の外を流れる景色が、王都の外壁を越えた。石畳が終わり、緑の街道が続く。草の匂いがわずかに入ってきた。
「それで、十分だと思います」
ザイルは静かに頷いた。




