第六話 決断
夜が明けるまで、ルミナは眠れなかった。
書斎の椅子に座ったまま、祖父の研究ノートを膝に置き、ただ考え続けた。蝋燭が一本燃え尽き、次の一本に火を移しても、答えは出なかった。
母国を離れる。
その言葉の重さを、ルミナは軽く見ていなかった。エルカリナ家は百年以上、この国の魔法研究を支えてきた。父がいる。家がある。たとえ王家に冷遇されていても、この国の土に根を張って生きてきた誇りがある。
それを、捨てることになるのか。
「捨てる、ではないかもしれない」
声に出してみると、少し楽になった。
ザイルが言ったのは「来い」だ。逃げろ、ではない。ルミナの才を必要だと言った。欠陥ではないと言った。百年の研究が積み上げてきたものを、別の場所で活かせるかもしれない。
しかし問題は、それだけではなかった。
王家のことを考えた。昨日の式典での婚約破棄は、すでに王都中に知れ渡っているだろう。エルカリナ家への風当たりは、これから強くなる。ザイルが「時間をかけない方がいい」と言ったのは、それだけが理由ではないはずだ。王家は口封じを考えている、と彼は言外に示していた。
五年間の婚約期間中に、ルミナは王家の内情を多く知りすぎた。テオとシェラの関係が始まった経緯も、王家がシェラを意図的に育てた背景も、ルミナには察しがついていた。それを外部に語られることを、王家は嫌うだろう。
窓の外で夜風が強くなった。木々が揺れる音が、書斎まで届いてきた。
ルミナはノートの一ページを開いた。祖父の筆跡で、制御の恩寵についての考察が書かれていた。何度も読んだ文章。しかし今夜は、その末尾の一文が目に留まった。
「この才は、留まることを好まない。流れる水のように、必要とされる場所へ向かうものだ」
祖父は魔力の話をしていた。しかしその言葉が、今夜のルミナには別の意味で響いた。
夜明け前、ルミナは父の書斎の扉を叩いた。オスカル伯爵はすでに起きていた。娘と同じく、眠れない夜を過ごしていたのだろう。机の上に積まれた研究書は、どれも開かれた様子がなかった。
「話があります」
「聞こう」
父と向かい合い、ルミナはザイルの申し出をそのまま伝えた。隠すことも、飾ることもなく。ザイルという人物のこと、彼の魔力の問題のこと、自分の才が彼の状態を改善できるかもしれないこと、そして王家が今後エルカリナ家に圧力をかけてくる可能性があること。
オスカルは長い間、沈黙した。
蝋燭の炎が揺れ、父の白髪交じりの横顔に影を作った。
「……ヴェルナード侯爵家は、アルテミアでも有数の名門だ」
「知っています」
「筆頭魔導士という地位は、事実上の王家に次ぐ力を持つ。そこに招かれるということは、単なる研究者としての招聘ではない」
「わかっています」
「隣国に渡れば、戻ることは容易ではない。政治的にも、感情的にも」
「わかっています」
父が小さく息を吐いた。
「ルミナ」
オスカルの声が、低く、しかし柔らかくなった。
「私はお前に、この国に縛られてほしくない。そう思っていたことを、言えずにいた」
ルミナは目を瞬かせた。
「お前の才は、私にはわかる。祖父の研究を誰より深く理解しているのはお前だ。制御の恩寵とは何か、なぜそれが価値を持つのか、誰よりも体感しているのはお前だ」オスカルは机の上に視線を落とした。「しかしこの国では、それが報われることはないだろう。そのことを、私は長年知りながら、王家との関係を守るために黙っていた」
「父上、それは――」
「昨日のことを……私はお前に謝らなければならない」
父の声が初めて揺れた。
「王家との婚約を勧めたのは私だ。エルカリナ家の安定のために。しかしお前を守れなかった。公衆の場で、あのような目に遭わせた」
「父上のせいではありません」
「お前がそう言っても、父親として、そうは思えない」
沈黙が降りた。
長い沈黙の中で、ルミナは父の顔を見た。いつもは穏やかな研究者の表情の奥に、長年積み上げてきた後悔が見えた気がした。
「行きなさい、ルミナ」
父の言葉は、静かだった。しかし揺るぎなかった。
「エルカリナの名を正しく受け継いだ者として。お前の才が認められる場所で、思う存分生きなさい。祖父が望んでいたのも、きっとそれだ」
「……父上は、どうされますか」
「私はここにいる。エルカリナ邸を守る。それが私の役目だ」
父の目が、真っすぐにルミナを見た。
「だからお前は、自分の道を行け」
ルミナの胸が、初めて熱くなった。昨日から一度も出なかった涙が、目の奥で滲んだ。しかし彼女はそれをこらえた。伯爵家の令嬢として。エルカリナの娘として。
「……行ってきます」
深く、礼をした。
これまでの人生で、最も深い礼だったかもしれない。
父が何か言いかけた。しかし言葉にはならなかった。代わりに、机の引き出しから何かを取り出し、ルミナに差し出した。
小さな指輪だった。銀台に翡翠の石が嵌め込まれた、質素な作りのもの。
「お前の母親が使っていたものだ。遠くへ行くなら、持っていきなさい」
ルミナは受け取った。掌の上の指輪は、ひんやりと冷たかった。母の記憶は薄い。ルミナが五歳のときに亡くなっているから。それでも、この指輪を父がずっと持ち続けていたことは、なんとなく知っていた。
「……大切にします」
指輪を薬指に嵌めた。ぴったりと合った。
父は目を細め、それだけで十分だというように頷いた。
翌朝、ルミナはザイルに会いに行った。
彼が逗留している迎賓館の応接室で、ルミナは席に着くなり言った。
「お受けします」
ザイルは表情を変えなかった。しかし何かが、その銀灰色の目の奥で、わずかに動いた。安堵とも満足ともつかない何かが、一瞬だけ滲んだように見えた。
「決断が早い」
「悩むべきことは昨夜すべて悩みました」
「荷物は」
「必要なものだけ。着替えと、研究資料と、祖父の遺したノートを数冊」
「それだけですか」
「私には、それが一番大切なものです」
ザイルは少しの間ルミナを見つめ、それから頷いた。
「出発は明後日の朝です。準備が整い次第、迎賓館へ。使節団と合流します」
「わかりました」
立ち上がりかけたルミナに、ザイルが言った。
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「昨日、考えさせてくれと言っていた。何が決め手になりましたか」
ルミナは少し考えた。
「父に、行きなさいと言われました」
「それだけですか」
「……それだけで、十分です」
翡翠色の目が、真っすぐにザイルを見た。揺らぎのない目だった。
ザイルは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
それだけで十分だと、その頷きが言っていた。




