第五話 初めて
翌朝、エルカリナ邸に来客があった。
「ヴェルナード侯爵家の方がお見えです」
マリアが青ざめた顔で告げたとき、ルミナは朝食の最中だった。フォークを置き、少しの間考えた。
「お通しして」
客間に現れたザイルは、昨日の礼装とは異なる落ち着いた旅装だった。しかし佇まいの重さは変わらない。銀灰色の瞳がルミナを見つめ、昨日と同じように空気が凪いだ。
「急に押しかけて申し訳ない」
「いいえ。昨日は助けていただいたのに、ろくにお礼もできませんでした」
「礼は要りません」
ザイルは着席を促されても立ったままで、ルミナを真っすぐに見た。
「用件を言います」
「どうぞ」
「隣国へ来てください」
沈黙。
ルミナは目を瞬かせた。
「……唐突ですね」
「そうですね」
「理由を聞いても?」
「あなたが持つ制御の才が、私に必要だから」
ザイルは淡々と言った。感情的な色がない。ただ事実を述べるように。
「私の魔力は制御できていない。幼少からずっとそうです。調律の術を学ぼうとしたが、限界がある。しかし昨日、式典の場であなたの近くにいた間、初めて魔力が完全に静まった」
ルミナの胸に何かが引っかかった。
「……気づいていたのですか」
「ずっと...探していました」
静かな言葉だった。しかしその中に、長年の疲弊がある。ルミナはそれを、祖父の研究ノートと重ね合わせた。
暴走する力を整える。あるべき形に導く。
「あなたの才は欠陥ではない」
ザイルは続けた。
「抑制と制御は異なります。あなたの力は、魔法を消しているのではなく、整えている。私が接したわずかな時間でも、それは明らかだった。エルカリナ家の研究がそれを証明しているはずだ」
ルミナは視線を落とした。
祖父の言葉。制御の恩寵。
「……エルカリナの研究は、王家には評価されていません」
「私の国では評価されます」
迷いのない言葉だった。
ルミナは長い間、沈黙した。
窓の外には王都の空が広がっている。生まれ育った街。父がいる家。百年続いたエルカリナ家の歴史。
「……一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは昨日、なぜ助けに来たのですか。外交官が、あの場で動けば問題になるとわかっていたはずです」
ザイルは少しの間、答えなかった。
「婚約が破棄されたと確認してから動きました」
「それは方便です。本当の理由を聞いています」
翡翠色の目が、銀灰色の目を見た。
ザイルは静かに言った。
「……あなたが倒れているのに、誰も動かなかった」
それだけだった。
しかしルミナには、それが十分な答えに思えた。
「少し、考えさせてください」
「構いません。ただ――」
ザイルは初めて、わずかに声のトーンを変えた。
「あまり時間をかけない方がいい。王家はあなたを、このまま放置しないと思う」
その言葉の意味を、ルミナは理解した。
婚約破棄の理由を知っている令嬢は、消えてくれた方が都合がいい。
「……明日、お返事します」
ルミナは立ち上がり、深く礼をした。
ザイルも礼を返し、客間を出た。
一人残ったルミナは、再び窓の外を見た。
今度は空ではなく、その先の遠い地平を。
母国を、憂いながら。
それでも――翡翠色の目の中で、何かが静かに決まりつつあった。




