第三話 目撃
ザイル・ヴェルナードは動かなかった。
正確には、動けなかった。
アルテミア筆頭魔導士として、彼が他国の王族の行為に介入する権限はない。外交の場で単独行動を取れば、両国間の問題になる。頭ではわかっていた。
わかっていても、石畳に倒れたあの女性から目が離せなかった。
式典が始まった瞬間から、ザイルは彼女に気づいていた。
理由は単純だ。自分の魔力が、静まったのだ。
ザイルの魔力は常に制御の限界近くで揺れている。意識しているときでさえ滲み出るそれは、周囲の人間の魔力回路に干渉し、軽微なものでは頭痛や倦怠感、最悪の場合は意識喪失を引き起こす。幼い頃からそれに苦しめられてきた彼は、人との物理的距離を常に意識して生きてきた。
しかし今日、来賓席に着いた瞬間から、その重みが消えた。
水面のように揺れていた魔力が、波ひとつなく凪いだのだ。
原因を探して視線を巡らせた先に、深紅の髪の令嬢がいた。
座っているだけで、何もしていない。ただそこにいるだけで、彼女はザイルの魔力を完璧に整えていた。
婚約者がいる。
それがわかった瞬間に、ザイルは目を逸らした。
そして今、その令嬢が石畳に倒れている。
ザイルは拳を膝の上で握った。外交官が隣で「大変な騒ぎになりましたな」と何事かを囁いているが、言葉が入ってこない。
倒れたルミナの周囲は、空白地帯になっていた。助け起こそうとする者がいない。来賓も市民も、ただ見ているだけだ。
「……一つ確認させてください」
ザイルは隣の外交官に静かに言った。
「あの令嬢の婚約は、今、破棄されましたね」
「は、はあ……そのようで」
「ならば」
ザイルは立ち上がった。
使節団の中から動くことへの制止の声が上がったが、彼は歩みを止めなかった。来賓席から広場の中央へ。人垣が自然に割れる。それが威圧なのか魔力のせいなのか、今のザイルにはどうでもよかった。
倒れているルミナの前に、彼はしゃがんだ。
翡翠色の瞳が、驚いたように見上げてきた。
頬が赤かった。痛みをこらえていることは、微かに震える唇でわかった。それでも彼女は泣いていなかった。
「立てますか」
ザイルは手を差し伸べた。
ルミナがその手を見つめる。
「……あなたは」
「ザイル・ヴェルナード。アルテミア王国の魔導士です」
「なぜ」
「婚約が破棄されたのなら、あなたは今、誰のモノでもない」
ザイルは穏やかに、しかし明確に言った。
「では私が手を貸しても、問題はないでしょう」
ルミナは数秒、その手を見つめていた。
やがて、その手をゆっくりと握った。
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