第二十話 二人
テオが去った夜、ルミナは一人でいられなかった。
一人でいたい気分だったが、同時に、誰かに話したかった。矛盾していると思いながら書庫に行くと、ザイルがいた。いつもの窓際の椅子に座り、本を開いていた。
「来ると思っていました」
本から目を上げずに言った。
「……毎回そう言いますね」
「毎回そう思っています」
ルミナは向かいの椅子に座った。しばらく沈黙があった。暖炉の火が揺れていた。窓の外に、冬の星が出ていた。
「怒っていますか」
「何に対して」
「私があのとき、もう少し違う動き方をしていれば、という話です。ザイルが断る前に、私が何か言えていれば」
「していません」
「でも」
「ルミナ」ザイルが本を閉じた。「あなたは正しいことを言いました。そしてあなたが正しいことを言えたのは、揺らがなかったからです。揺らがなかったのは、準備があったからです。私はあなたの判断を信じています」
「……ザイルの判断を、私は尊重すると言いました」
「聞いていました」
「本心です」
「わかっています」
「でも」ルミナは膝の上で手を組んだ。「私には、母国への気持ちがあります。王家への怒りと、民への案じる気持ちは、別物です。王家を許せなくても、民を見捨てることは——難しい」
「知っています」
ザイルは静かに言った。
「私はあなたに、王国を見捨てろと言っているわけではありません」
「では」
「あなたが傷ついた姿を見た。それだけで十分だと、私は思っています」
ルミナは顔を上げた。
銀灰色の目が、真っすぐにルミナを見ていた。
「テオ・マルコシアンに、あなたを使って王国を救わせたくない。それが私の判断の根拠です。あなたの才を、あの場で、あの形で利用させたくない」
「利用と、助けることは——」
「今のあなたがそれをすれば、利用になります」ザイルは言葉を選びながら続けた。「あなたが心から望んでそうするなら、話は別です。しかしテオが来て、頭を下げれば動かざるを得なくなる形で事を進めることを、私は許容できません」
ルミナは少しの間、その言葉を咀嚼した。
「……整理させてください」
「どうぞ」
「ザイルの判断は、私を傷つけた者に私を使わせないため」
「はい」
「王国の民を助けることに反対しているわけではない」
「反対していません」
「では、私が自分の意志で、条件を整えた上で動くなら」
ザイルが少しの間黙った。
「……私はあなたを止めません」
「止めない、とは、認める、ですか」
「私の認める認めないで動くべき話ではない。あなたの才は、あなたのものです」
「でもあなたは、今日断ったことに後悔はない」
「ない」
迷いのない即答だった。
「今日テオが来た形で、あの場で動くことは、正しくなかったと思っています。しかしルミナ、あなたが最終的にどう判断するかは——それはあなたが決めることです」
二人の間に、今夜一番の静寂が降りた。
暖炉の火が、また揺れた。
ルミナは窓の外を見た。北西の空が見えた。星が出ていた。冷たく、しかし確かに光っていた。
「……一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「もし私が動くと決めたとき、あなたは一緒に来てくれますか」
ザイルが、ルミナを見た。
「来ます」
「たとえ王国を助けることになっても」
「あなたのそばにいます。それは変わらない」
ルミナは目を細めた。胸の中で何かが温かくなった。
「ではもう一つ。私が動かないと決めたとき、王国が壊れていくのを、ザイルは見ていられますか」
ザイルは少しの間考えた。
「見ていられます」
「本当に」
「あなたを傷つけた国が、その報いを受けることを——私は止めません」
その言葉の重さを、ルミナは受け止めた。
「……ありがとうございます。正直に言ってくれて」
「あなたには正直でいたいと思っています」
ルミナは立ち上がった。
「もう少し、考えさせてください」
「いくらでも」
「答えが出たら、話します」
「待っています」
ルミナは書庫の扉へ向かい、途中で振り返った。
「ザイル、一つだけ言ってもいいですか」
「どうぞ」
「あなたが今日、私の代わりに断ってくれたこと。私は——それが嬉しかったです。心底」
ザイルが黙った。
その沈黙の中に、ルミナはいつもと違う何かを感じた。言葉にしきれない何かが、あの静かな目の奥で動いたのを、見た気がした。いつも静かなその目が、今夜だけほんの少し、違う光を帯びていた。
「……また明日」
「また明日」
扉が閉まった。
廊下を歩きながら、ルミナは北西の空に意識を向けた。
乱れはある。大きくなっていた。
あの星の下で、今夜も誰かが寒さの中にいる。その事実は変わらない。王家への怒りも、民への心配も、どちらも本物だ。
しかし今夜のルミナには、その乱れを前に揺らがないものが、胸の中にあった。
答えはまだ出ていない。動くかどうか、いつ動くか、どう動くか。まだ決まっていない。
しかし、決まっていないことが今夜は怖くなかった。
ザイルが隣にいる。
どちらを選んでも、隣にいると言った。それだけで、今夜は十分だった。
母の指輪を握った。冷たく、しかし確かな重さがあった。
翡翠が、廊下の灯りを受けて、わずかに光った。




