第十五話 予兆
父が来て二週間が経った頃、ルミナは最初の異変を感じた。
書庫で資料を読んでいた午後のことだ。
突然、空気が変わった。
変わった、というより、遠くで何かが歪んだ、という感覚に近かった。制御の才が磁石のように、遠くの乱れを感知した。しかしその乱れは、街の魔法陣でも、屋敷の老朽化した紋様でもなかった。
もっと遠い。
もっと深い。
方角を感じた。北西。
母国の方角だ。
「……」
ルミナは手を止め、目を閉じた。意識を向ける。遠すぎて輪郭は掴めない。しかし確かに何かが、北西のどこかで歪んでいる。それが徐々に大きくなっているという予感があった。
予感、という言葉を使うのが正確かどうか、ルミナには自信がなかった。しかしこれまでの経験で、この感覚は無視してはいけないものだと知っていた。街の橋の手前の魔力乱れも、屋敷の東棟の共振も、すべてこの感覚で先に察知していた。そしてその感知は、一度も外れていなかった。
羊皮紙を取り出し、書き留めた。
日付、時刻、感知した方角、乱れの質感、強度の主観的な評価。
翌日も、同じ感覚があった。今度は少し強く、そして少し広がりを持って感じた。
三日後、さらに強くなった。
その夜、ルミナは眠れなかった。夜中に起き上がり、窓から北西の空を見た。星が出ていた。何も見えない。しかし感じた。地の底から、何かが震えているような、その予兆を。
四日目の朝、ルミナはザイルに報告した。
「北西の方角で、魔力の乱れを感じています。四日前から続いており、徐々に強まっています」
書庫での朝の時間だった。ザイルは手にしていた本を閉じ、ルミナを見た。
「北西というと」
「母国の方角です」
沈黙。
「どんな種類の乱れですか」
「屋敷の老朽化した魔法陣の乱れとは質が違います。あれは緩やかで局所的な乱れです。今感じているのは、もっと広域で、根元から歪んでいる感じがします。大きな魔法陣が、基盤ごとずれているような」
「根元から、基盤ごと」
「地下に埋設された大型の基幹魔法陣に問題が起きているとしたら、こういう感覚になるかもしれません。ただしあくまで類推です。距離があるため、精度は低い」
ザイルは立ち上がり、窓の外を見た。北西の空は、今日は薄い雲がかかっている。
「アルテミアの王都周辺の主要な魔法陣は定期的に検査しています。現時点で問題は報告されていない。問題があるとすれば」
「母国の、王都の地下かもしれません」
ルミナは続けた。
「父に聞いてみます。エルカリナ家は王都の基幹魔法陣の管理に携わっていたと聞いていましたが、詳しい話は聞いたことがありませんでした」
「お願いします。詳細がわかれば、対応を検討できる」
その夜、ルミナは父の書斎を訪ねた。
父は執筆中だった。アルテミアの書庫の文献と照らし合わせながら、制御理論の論文を書き始めているようだった。招聘されてから半月足らずで、すでにペンが止まらなくなっていると言っていた。
「父上、少しよろしいですか」
「構わん。座れ」
「王都の地下魔法陣について、聞いてもいいですか」
父の手が止まった。
しばらく沈黙があった。父がルミナを見た。何かを確認するような目だった。
「……何が気になる」
「王都の基幹魔法陣のメンテナンス状況です。エルカリナ家が管理に関わっていた部分があると聞いていますが」
「あった」
父は筆を置き、椅子を向けた。
「祖父の代から、王都の地下に張り巡らされた魔力供給網の維持管理に、エルカリナ家は関わっていた。年に二回、専門の研究者が点検に入り、調律を行っていた。微細な歪みを感知し、修正する。その技術は、エルカリナの制御理論なしにはできない作業だった」
「それが、変わったのですか」
「五年前から、王家の方針で外注化された。魔法陣管理専門の業者が入ることになった。理由はコストの削減だ。エルカリナ家への管理委託費が高いという、それだけの理由だった」
「その業者の技術力は」
父が目を伏せた。
「低い。形式的な点検はする。目視確認と、簡易計測器による数値確認。数値上は問題なし、という報告を毎回出す。しかし微細な歪みの感知と調律は、計測器では捉えられない。エルカリナの技術なしには、できない」
「五年間、積み重なっていた可能性がある」
「ある」
父の声が静かだった。しかしその静けさの奥に、ずっと心配してきた色があった。押し込んでいた不安が、問われることで表に出てきたような。
「私が去る直前、最後に点検したとき、すでに北区画の連絡魔法陣に微細な歪みが出始めていた。報告したが、王家は業者の検査で問題なしという結果を採用した。私の報告は黙殺された」
「北区画というのは」
「王都の北側、人口の密集した住宅区域の地下です。その区画の魔力供給が不安定になれば、生活魔法陣全体に影響が出る。照明、暖房、水の浄化、すべてに」
「それだけで済みますか」
父が沈黙した。
長い沈黙だった。
「……王都の地下には、連絡魔法陣だけでなく、基幹制御陣がある。街全体の魔力循環を調整する、大型の陣だ。これが不安定になれば、連鎖反応が起きる可能性がある。小さな歪みが積み重なり、ある閾値を超えたとき、一気に均衡が崩れる」
「その閾値に、もう近づいているかもしれません」
「お前が感じているのが、それか」
「おそらく」
父は静かに目を閉じた。しばらくそのままでいた。
「……後悔している」
「父上」
「もっと強く報告すべきだった。無視されてもしつこく言い続けるべきだった。それができなかった自分の弱さを、後悔している」
「父上がいなくても、誰かが気づいたはずです。今気づくか、壊れてから気づくかの違いです」
「壊れてから気づくのでは、遅すぎる」
「だから今、動きます」
ルミナは立ち上がった。
「ザイルに伝えます。できることを考えます」
「ルミナ」
父が呼び止めた。
「王都の地下に何か起きているとすれば、それは単純な問題では済まないかもしれない。五年分の歪みが限界に達した場合——制御できない規模の魔力暴走が起きる」
「知っています」
「王家はそれを、まだ知らない。知ろうともしていない」
「だから動く必要があります」
父は少しの間ルミナを見た。
「……賢くなった」
「父上の娘です」
父が微かに笑った。しかしすぐに表情が引き締まった。
「ザイル殿が動いてくれるなら、頼みなさい。あの方の力がなければ、今の王国には何もできない。そしてルミナ」
「はい」
「お前の才を、惜しまずに使いなさい。守れるものを守るために」
ルミナは深く頷いた。
書斎を出た。廊下を歩きながら、北西の方角を感じた。
乱れは、また少し大きくなっていた。地の底で、何かが限界に向かって動いていた。
その何かは、かつてルミナが生まれ育った街の地下にある。父が守ろうとしていた技術の残骸の中にある。王家が切り捨てた知識の、その空白の中にある。
ルミナ以外、誰も感じていない。
それを、ルミナは知っていた。
ザイルの部屋の扉を叩いた。
「少し、話せますか」
「今すぐ入ってください」
扉の向こうで、ザイルの声は、すでに真剣な質を帯びていた。
それを聞いてルミナは思った。
この人は、きっとすでに何かを察していた、と。
扉を開けた。
始まりが、さらに一歩進んだ。




